制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-10-10
改訂
2014-01-18

學説

古代音韻史研究

橋本進吉の研究は、日本音聲史が中心であつた。「日本語はいかにあつたか」と云ふ問を設定し、橋本は文獻資料の調査を通じて答へようとした。

『校本萬葉集』編纂に當り行つた萬葉假名の分析により、橋本は87の音節からなる「上代假名遣」を發見した(奈良時代の日本語には母音がアイウエオの5箇ではなく8箇あつたことを發見されたといふ。)

その間、橋本は『假名遣奥山路』を再發見し、著者・石塚龍麿を再評價した。石塚は、所謂萬葉假名における幾つかの文字の遣ひ分け(上代特殊假名遣)を調査し、『假名遣奥山路』に記録した。

上代特殊假名遣の存在と、石塚による調査が江戸時代に行はれてゐた事實を、橋本は論文「國語假名遣研究史上の一發見──石塚龍麿の假名遣奥山路について──」で報告した。

「國語假名遣研究史上の一發見──石塚龍麿の假名遣奥山路について──」は大正6年に發表された(「帝國文學」11月)。その直前、國學院に於てこの趣旨の口述を行はれたことがあつたが、あまりに新奇な事實であつた爲に、なみゐる諸先生の大部分の、納得をうることが出來ず、「むしろ座が白け」たほどであつた。と云ふ。「金田一京助博士直話」

石塚の『假名遣奥山路』は、日本古典全集刊行會から刊行され、その卷頭に、解説として「國語假名遣研究史上の一發見──石塚龍麿の假名遣奥山路について──」が轉載された。

「上代特殊假名遣は古代の音韻に基くもの」と云ふ説を「定説」として廣めたのは大野晉の獨斷であり誤りだ、と谷沢永一は屡々非難してゐる。しかし、「國語假名遣研究史上の一發見」で、橋本は以下のやうに述べてゐる。

かやうに假名遣奥出路に於ける龍麿の研究は猶缺點が少くないのであるけれども、而も龍麿の發見したエキケ以下十三音の假名遣は、奈良朝の文獻に於ける假名の用例を精査した絡果であつて、動かし難い基盤の上に立つて居るのであるから、大體に於て確實なものと云はなければならない。然らば、此等の假名に兩類の別があるのは何に由るかといふに、龍麿は「上つ代にはその音おなじきも言によりて用ふる假字定まりていと嚴然になむありつるを」(總論)と云つて居るから、音には關係なく唯文字だけでの定まりと考へて居たやうに思はれるけれども、其のすぐ後に、「しか定まれるはいかなるゆゑともしれねども」とあるのを觀れば、これに就いて確實な意見を有して居なかつたやうに思はれる。しかしながら、古言別音鈔に引用した假名遣奥山路には「今の世にては音同じきも古言には音異るところ有りて古書には用ひし假字に差別ありていと嚴になん有りけるを」とあつて、これによれば、古代語にあつた音韻の差別に基くと解して居たやうに見える。かやうに、奥山路の説は本によつて相違があつて、何れが龍麿の本意であるかわからないが、自分は古言別音鈔所引のものが後になつて得た説ではあるまいかと考へる。しかしながら、龍麿が果してこれを音韻の別に因るものと認めたとしても、其の一々の音が如何なるものであるかに就いては龍麿は何等の意見をも述べて居ないのである。さうして此の問題については自分の研究も未だ定説を得るに至らないが、エ音の假名の兩類の別が阿行と也行のエ音の別(即、eとyeの別)に相當するものである事、古言衣延辨や大矢透氏の研究の結果と對照して明であるのを觀ても、此等の假名の區別が奈良朝又は其以前にあつた音韻上の差別に基くものである事は略疑の無い所である。果して然らば、奈良朝又はそれ以前に於てはこれまで考へられて居たよりも多くの音の種類があつたのであつて、上代の音韻組織に關する從來の見解は多大の改訂を要するのである。しかのみならず、語源語釋訓解並に用言の活用に關する從來の諸説は此の新な光に照して再査しなければならないのであり、古書の校定や時代鑑別の際にも亦此の事實を無視する事は出來ないのである。實に龍麿の發見した所のものは國語學上の事實であるけれども、其の影響する所は國語學のみに止まらず、苟も奈良朝の文獻を以てその研究資料とするあらゆる學術に及ぶのである。その結果は誠に重大であるといはなければならない。

「上代特殊假名遣は古代の音韻を反映したものである」と云ふのは、石塚が既に述べた事であり、橋本自身も大體さう云ふ事だらうと考へた事であつた。大野氏が師である橋本の教へを受繼いでゐる事は明かである。

橋本の他、有坂秀世の研究等、古代の日本語の音韻に關する研究は戰前、既に存在してをり、それらの成果もまた、大野氏は自説に採入れてゐる。大野氏に獨斷があつたとは考へられない。

上代特殊假名遣に反對し、大野氏を非難する谷沢の判斷こそ、根據を缺いたもので、獨斷であると言つて良い。

「橋本文法」

橋本は、ソシュールの言語學を基に、「文節」の概念を中核とした文法を構築した。その文法は一般に「橋本文法」と言はれ、のち學校文法に採用されてゐる。

文法面では、山田文法・松下文法を高く評価しつつも、「従来の研究は、言語の意義の方面が主となってゐるのであつて、言語の形に就いては、猶観察の足りないところが少なくないやうに思はれる」として、「文節」を中核概念とする文法(「橋本文法」)を構築した(「国語法要説」一九三四)。

「文を実際の言語として出来るだけ多く句切つた最短い一句切」を文節とし、この中核概念に基づき、語論としては、単独で文節となりうるものを「自立語」、単独では文節になりえぬものを「付属語」と二分して、品詞論を展開する一方、文論としては、文節を「直接に文を構成する成分(組成要素)」として、係り受け関係を中心とする構文論を展開している。

「橋本文法」は、言はば、形式を重視した文法である。しかし、この(所謂)「橋本文法」に對しては、意味・構造を重視する立場の學者から批判の聲があがつてゐる。

しかし音の觀點から導かれた「文節」によつては、センテンスの意味上の構造をはつきりつかむことはできない。

この大野晉の批判は「橋本文法」が音に基いた形式のみを重視する事を批判したものである。ほかに、「橋本文法」に對しては、形態論に比しては構文論的發言のとぼしい文法である、と云ふ批判もある。

時枝誠記によれば、「文節」に基く文法體系は文法のある半面である、と橋本自身が述べてゐたさうである。橋本は終戰直前に病氣で亡くなつた(「榮養失調」とする大野氏の説は誤)が、もし生き存へてゐたならば、きつと意味の側面からも文法を考察してゐたであらうと時枝は述べてゐる。

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