國語の文法に關する博士の學説は「橋本文法」と呼ばれる。
橋本博士はこの文法は言語の形式の面を重視して、形式といふ觀點でもつて分析したものである
と云ふ事を言つてゐる。
……橋本博士はもう一つの觀點がある。それは意味の觀點とか、論理の觀點とか、さういふものがあつてそれを合はせてはじめて完全な文法がある。
中等學校で初めて文法を授ける、それから低學年でまづ口語文法をやつて、それから文語文法
をやると、昭和6年改正の教授要目では規定されてゐた。
橋本博士は昭和6年に文法教科書の『新文典』を編纂してゐる。その際、從來の文法書に相當の妥協をしてゐる。『新文典』の指導書を執筆したのは湯澤幸吉郎氏。
「山田孝雄博士編纂」の『日本文法教科書』も當時の通説に從つた内容で、所謂「山田文法」らしさは無かつた。
戰前の教科書調査官は湯澤氏であつた。『品詞別日本文法講座』月報5で堀田要治氏が當時の出願本を「發見」した際の事を書いてゐる。
しかし、不審紙は「申出」(今の「自發修正」)が大部分で、湯澤氏が自説を強制してみえると思はれるやうなものはほとんど見當たらなかつた。
戰爭が始まると「紙の問題」が生じるやうになり、檢定教科書の種類が制限されるやうになる。文法教科書は5種類に制限され、『新文典』がその一つとして殘つた。
敗戰直前(昭和19年)には、物資の缺乏で教科書も國定となり、文法教科書も一つに統合された。そこで出來たのが『中等文法』である。中學校向の國定教科書である「中等文法一」(一年生用の口語篇)と「中等文法二」(二年生用の文語篇)である。
この教科書は、どう云ふ譯か「橋本文法」を全面的に採用してゐる。それも、橋本博士が一つの限定を附して、これが一つの半面の處理であるといふことを言つてをられる文法學説
を、である。
橋本博士はご自分の學説に對してはゆるがせにしない方
なのだから、なぜさう云ふ「一面的な文法」を「國定の文法」に入れる事を承知なさつたのかわからない、と、時枝博士は書いてゐる。
いやしくも教育の面に出すところの文法に先生のただ半分の觀點から整理したところの文法學説を國定に入れるといふことは、おそらく先生自身は承諾されなかつたんぢやないか。
「中等文法」は昭和22年に、「現代仮名遣い」に改められ、再發行された。(「中等文法口語」「中等文法文語」)これらの教科書は昭和29年まで使はれた。
昭和24年、G.H.Qの命令で國定教科書が廢止になり、教科書の檢定制度が復活した。
ところが、この時發行された文法教科書が、なぜか悉く『中等文法』に倣つた内容となつてゐる。以來、この『中等文法』に於る「文法」が「教科書文法」として、恰も「定説」であるかのやうに受けとめられるやうになつてしまつた。
繰返すが、『中等文法』は、飽くまで橋本文法の、その一面に基いたものでしかない。しかしながら、現在の文法教育界では、この『中等文法』で採用された「橋本文法」が「定説」と化してゐる。「文節」の考へ方に基き、「形容動詞」を一品詞として認める、所謂「學校文法」が成立してしまつたのである。
昭和25、6年頃、時枝文法に基いた中教出版の文法教科書が檢定に合格し、實際に用ゐられる事となつた。だが、この教科書は、激しい批判に晒される事となる。その理由は、「教育現場に混亂を齎す」と云ふものであつた。
「定説」でも何でもない「學校文法」を「混亂囘避」の名目で一般に流布させるのが正しい事なのかどうか、ここで疑問を呈しておく。
昭和32年に教科書調査官となつた堀田要治氏は、檢定にあたつては、ある特定の一學説だけを是として他を非とするやうな態度はとつてゐない
と書いてゐる。檢定にあたつて主として問題にしたのは、その一册の中での矛盾・自家撞着であつた
さうである。
「橋本文法」が「教科書文法」である事も、文法における「定説」である事も、事實ではない。或は、一般人が文法に於て「常識」であると思ひ込んでゐる事が、實際には常識でも何でもないと云ふ事は、意識しておくべき事であらう。
なほ、昭和35年以降、中學校の文法の教科書は單一の教科書としては存在しなくなつた。