制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-03-30

徳保さんの批判に應へる

「自然」と云ふ用語の解釋

ISO-HTMLを巡る一連の発言の中で野嵜氏は、自然なマークアップの結果、適合するDTDがもしあれば、それを宣言することができる、という立場を表明されています参照 。このご意見は、先のコーナに真っ向から対立するものです。

野嵜さんの最近の論理展開を是とすれば、とくに「個人Webサイト」というジャンルにおいて、W3C勧告の決定的敗北は明らかです。多くの人は自然に「物理マークアップ」をするのであります。W3Cの論理マークアップは、凡人には不自然なものなのであります。ブラウザ製作会社がW3Cの勧告のみに準拠せず、文書型宣言を必要としない漠然とした「とあるDTD」にも対応してきたのは当然の帰結でした。人々の圧倒的な数の力は、市場占有率の高率維持に血眼のIE開発陣から「物理マークアップへの対応をやめる」選択肢を奪い続けるでしょう。

徳保氏の「自然」の解釋と、私の言つてゐる「自然」の意味が、ここではずれてゐる。

「トンデモ」な「ホームページ入門」を斬るコーナは、最近の野嵜氏の主張に真っ向から異を唱えています。したがって野嵜氏は、コーナを大幅に書き直すか、注釈を添えるか、廃棄するのが良心的というものであります。

「現實に、『自然』に正しいマーク附けをしてゐる制作者は少いのだから、野嵜が『自然に正しいマーク附けをするものだ』と主張するのは間違つてゐる」と徳保氏は主張してゐる。しかし私は、理念の話をしてゐるので、現實の制作者がどう云ふマーク附けの方法を採用してゐるかは關係が無い。

不正なマーク附けにDTDは想定し得るか

徳保氏は、とほほ氏の推奬する種類の文書、或は、所謂「不思議マークアップ」の文書に、或種のDTDの存在を想定し得ると言つてゐる。この意見には贊同し兼ねる。

「とほほのWWW入門」はソースにも解説にも、特定のDTDにしたがう旨が記されておりません。ということは、とほほ師はW3Cの勧告とは異なる、独自のDTDに従ってソースを書き、解説をしていると考えるのが妥当です。であるならば、特定のDTDを基準にした批判は意味がないことになります。

DTDは文書の構造を示す要素のみ定義可能だから、文書の構造を無視した「不思議マークアップ」の文書における要素を定義する事は出來ない。DTDは或要素の、意味、或は、見ばえの定義は出來ない。單に、要素同士の入れ子關係をのみ定義可能である。

しかし、とほほ氏を含めた多くの不思議マークアップ推奨者がHTML4.01ではない「とあるDTD」に基づいた記述をしているという意見は、やはり間違っていないように思われます。漠然とした「とあるDTD」が彼らの頭の中にあると考えると、野嵜さんのおっしゃる「矛盾」が説明できてしまうのです。ここで私は「DTDに込められた思想」までもを含めて「DTD」と申しております。

DTDに込められた思想と、DTDとは、全然違ふもので、それを一緒くたにされては堪らない。

ブラウザ製作会社がW3Cの勧告のみに準拠せず、文書型宣言を必要としない漠然とした「とあるDTD」にも対応してきたのは当然の帰結でした。

「Internet Explorer 3のDTD」が存在し、Mozilla Classic(Netscape Navigator 4以前)の爲の記述規則が存在した。しかし、殆どのウェブサイト制作者は、これらのヴェンダの仕樣書すらも參照してゐない。

殆どのウェブサイト制作者は、結果として「二大ブラウザ」で同じやうに見えれば良い、と云ふ發想しかしない。前提としてのDTD、と云ふ發想は、殆どの制作者の頭にはない。

徳保氏のやうに、「思想」と「DTD」をごつちやにして「とあるDTD」と言ふのならば、上の徳保氏の主張も「誤」とは言へないのだらうが、さう云ふ論法(異る概念を同一のものと看做す論法)に基くならば、いかなる主張にも「誤」は無くなるだらう。

徳保氏の「論理」が非論理的である事

野嵜さんの記述が特定のDTDに基づいたものではないというお話には、なるほどと思いました。私の前の発言には誤読に基づく部分がありましたことをお詫びいたします。

「マーク附けされる以前の、内容としてのテキストがあつて、一定の規則に基いてそれにマークをしていく事でHTML文書が生成される」と云ふのが私の主張。私はその「一定の規則」を、PC Tipsで説明してゐる。ただ、その「一定の規則」は、現存するW3Cその他によるDTDには明示されてゐない。だから私の説明してゐる私の「一定の規則」は、假説である。

ただ、私の「一定の規則」は、多くのDTDの最大公約數的なサブセットとはなつてゐる筈だ、だから、そこから出發すれば、「正しくない」HTML文書にはなりにくい筈だ、と云ふ事。

とほほ氏は、独自の考え方に基づくDTDを頭の中に用意しているのですが、現実に使える道具はHTML4.01に示されたものプラスアルファがすべてです。したがってとほほ氏は止む無くHTML4.01に大筋で従った解説をせざるをえない。頭の中にある「とあるDTD」と異なるDTDによって表現を行うのですから、随所に齟齬が生じるのは当然なのであります。

徳保氏は、「齟齬が生ずるのは當然だから許せる」「當然生ずべき齟齬は問題ない」と言つてゐる。私は「當然だらうが何だらうが、齟齬のある解説は問題だ」「齟齬が起きるやうな論法を使ふな」と言つてゐる。

さて、仕樣と現實について、檢討しておく。

まづ、「理念があつて、現實に妥協する」と云ふのならば、やむを得ない話である。しかし、「現實を重視しつつ、理念にも良い顔をする」と云ふのは、間違つた態度と言へる。現實に從ふのならば、そこには理念が存在し得ないのであつて、無秩序を認めるか混亂に陷るかしかない。

だが、徳保氏は、さう云ふ問題以前の所で、勘違ひをしてゐる。

とほほ氏はHTMLの書き方においては、現実追随の考え方からHTML4.01に概ねしたがう一方で、理論面においてはHTML4.01の思想を無視しています。その結果、とほほ氏の解説は矛盾をふくむものとなっていますが、じつはそれは意図的とさえいえる矛盾であって、野嵜さんの追及は事の本質を外しているように見えるのであります。

ここで徳保氏は、「HTML 4.01は現實」と言つてゐる事に注意しなければならない。徳保氏は、「HTML 4.01と云ふ仕樣書」と「制作者」と云ふ異る概念を、同じ「現實」と言つて、ごつちやにしてゐる。

徳保氏の文章は、一見論理的だが、異る概念をごつちやにしてゐる事があつて、實は非論理的である。

にもかかはらず、徳保氏は自信滿々である。自分の論理に穴のある事を、徳保氏は氣にしない。なぜなら、「現實」と云ふ強い身方が、徳保氏には附いてゐるからである。

表示整形のためのHTMLという精神に従ったDTDを仮定すれば、不思議マークアップを推奨する「ほーむぺーじ入門」がなぜ<BR>で改行できる、とか、<FONT>で文字の色を変えられるとかいった話を解説の初期段階で提示するのか、よく理解できるわけであります。それらの作者にとっては、そうした解説こそ大切なのです

素人理屈ですから適当に穴はあるとはいえ、多くの一般人には、この表示整形のためのDTDの方が、「自然」に理解できるのであります。「「理窟から言へばかうするのが當然」の意味で「自然」」ということを踏まえても、であります。

ここで、徳保氏は、自分の論理が無限ループに陷つてゐる事に氣附いてゐない。徳保氏の主張は、「見ばえに基いた解説の方が自然である。自然な解説なのは見ばえに基いた解説である」の繰返しに過ぎない。

價値觀の問題について

話をようやく前回投稿の最初に戻します。野嵜さんは自然なマークアップの結果、とあるDTDに適合したのなら、それを使えばよいということをおっしゃった。このご意見に従えば、不思議マークアップをする人々がDTDを宣言しないのは、要するに適合するDTDがないことを意味すると考えて不都合ありません。しかしDTDは宣言されずにいても、とりあえずIEなどでその文書が読めるからには、ある程度の秩序に基づいたソースになっているものと思われます。わたしはその秩序を「とあるDTD」と呼んでいるのです。

この「とあるDTD」は仕様になっていないので、最終的にW3Cの勧告したものなどから適当に要素を拝借してソースを記述することになり、いくつかの矛盾がそこには生じます。野嵜さんは要素を拝借された側の思想に立って「その要素の使い方はおかしい」ということをおっしゃるけれども、相手さんは表示整形という観点から要素を拝借しているだけですから、でたらめだといくらいわれても堪えるはずもないのであります。私は表示整形を基準としたマークアップは、庶民文化の伝統を色濃く引き継いだ一つの正統的なものと捉えています。しかしWWWの将来には邪魔であろうと思われてならないので、滅びたらよいと考えるのであります。

徳保氏は、「理由は説明出來なくとも、結果として表示出來てゐれば良いではないか」と言つてゐる。しかし、その一方で、「でも滅びたら良い」と言つてゐる。この二つの意見は矛盾してゐる。或は、一方の意見から、他方の意見は、論理的に引出し得ない。

言換へると、なぜ「正統的なもの」が同時に「滅びるべきもの」であるのか、私にはさつぱり理解出來ない。徳保氏は、異る概念を同一視するのが得意だから、同一の概念を二様に解釋出來るのだらう、としか解釋出來ない。


徳保氏の價値觀は、私には理解出來ない。或は、徳保氏に價値觀が存在する事自體、私には理解出來ない。

取敢ず、WWWの将来には邪魔であろうと思われてならない理由を、徳保氏には説明して貰ひたいものだ。そもそも、なぜWWWの将来邪魔である事が問題なのかを、説明して貰ひたいものだ。WWWの滅びる方向に現實が向かつてゐるのなら、それを受容れるのが徳保氏のとるべき當然の態度ではないかと思ふのだが。