制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-03-30

野嵜氏の主張に疑問を表明する

Text

斬るか認めるか 2002.03.12

「トンデモ」な「ホームページ入門」を斬るコーナは、最近の野嵜氏の主張に真っ向から異を唱えています。したがって野嵜氏は、コーナを大幅に書き直すか、注釈を添えるか、廃棄するのが良心的というものであります。

ISO-HTMLを巡る一連の発言の中で野嵜氏は、自然なマークアップの結果、適合するDTDがもしあれば、それを宣言することができる、という立場を表明されています参照 。このご意見は、先のコーナに真っ向から対立するものです。

「とほほのWWW入門」はソースにも解説にも、特定のDTDにしたがう旨が記されておりません。ということは、とほほ師はW3Cの勧告とは異なる、独自のDTDに従ってソースを書き、解説をしていると考えるのが妥当です。であるならば、特定のDTDを基準にした批判は意味がないことになります。

「WWW road(HP作成講座)」「日刊K u R 0 N e K 0 N E W SのHTML講座」「ROOM 423」「HTMLを極めろ!HTML Dictionary」「HTMLどうすりゃ委員会」「Windows95超初心者によるホームページの作り方」いずれも同様であります。また「HTMLを極めろ!HTML Dictionary」「HTML 作法」についてはソースにおいてHTML4.01が宣言されておりますが、解説にそのような言葉はありません。南堂氏に至っては、HTML4.01を「詐称」することを勧めているのであります。

野嵜さんの最近の論理展開を是とすれば、とくに「個人Webサイト」というジャンルにおいて、W3C勧告の決定的敗北は明らかです。多くの人は自然に「物理マークアップ」をするのであります。W3Cの論理マークアップは、凡人には不自然なものなのであります。ブラウザ製作会社がW3Cの勧告のみに準拠せず、文書型宣言を必要としない漠然とした「とあるDTD」にも対応してきたのは当然の帰結でした。人々の圧倒的な数の力は、市場占有率の高率維持に血眼のIE開発陣から「物理マークアップへの対応をやめる」選択肢を奪い続けるでしょう。

「とあるDTD」は簡単には滅びないどころか、ネット人口の増加とともにどんどん広まっていくことでしょう。W3Cが新たな勧告を策定し、ブラウザが対応するにしたがって、全国のHTML解説サイトがそれを取り入れていきます。と同時に、W3Cの発想を適宜都合よく変化させていきます。「とあるDTD」はいつまでも進化しつづけ、古びることがありません。これはひとつの強烈なオープンソース運動なのです。

私は(自分自身の不思議マークアップは棚にあげて)「とあるDTD」にはいつか滅びてほしいと思いますので、野嵜さんの最近の主張には賛成しかねるのであります。

再論 2002.03.13

野嵜さんの記述が特定のDTDに基づいたものではないというお話には、なるほどと思いました。私の前の発言には誤読に基づく部分がありましたことをお詫びいたします。

しかし、とほほ氏を含めた多くの不思議マークアップ推奨者がHTML4.01ではない「とあるDTD」に基づいた記述をしているという意見は、やはり間違っていないように思われます。漠然とした「とあるDTD」が彼らの頭の中にあると考えると、野嵜さんのおっしゃる「矛盾」が説明できてしまうのです。ここで私は「DTDに込められた思想」までもを含めて「DTD」と申しております。

とほほ氏はHTMLの書き方においては、現実追随の考え方からHTML4.01に概ねしたがう一方で、理論面においてはHTML4.01の思想を無視しています。その結果、とほほ氏の解説は矛盾をふくむものとなっていますが、じつはそれは意図的とさえいえる矛盾であって、野嵜さんの追及は事の本質を外しているように見えるのであります。

とほほ氏は、独自の考え方に基づくDTDを頭の中に用意しているのですが、現実に使える道具はHTML4.01に示されたものプラスアルファがすべてです。したがってとほほ氏は止む無くHTML4.01に大筋で従った解説をせざるをえない。頭の中にある「とあるDTD」と異なるDTDによって表現を行うのですから、随所に齟齬が生じるのは当然なのであります。

では「とあるDTD」とはいかなるものか。それはHTMLをSVGの仲間とみなすDTDであります。すなわち文書の見た目を整形するのがHTMLの役目であり、論理的なマークアップは二の次ということであります。したがって南堂氏がインデントを実現する方法がHTMLに用意されていないことについて解説が迷走するわけであります。「とあるDTD」によれば、当然インデント要素があってしかるべきなのに、実際にブラウザが認識できる要素の中にそれが用意されていないからです。

表示整形のためのHTMLという精神に従ったDTDを仮定すれば、不思議マークアップを推奨する「ほーむぺーじ入門」がなぜ<BR>で改行できる、とか、<FONT>で文字の色を変えられるとかいった話を解説の初期段階で提示するのか、よく理解できるわけであります。それらの作者にとっては、そうした解説こそ大切なのです。

素人理屈ですから適当に穴はあるとはいえ、多くの一般人には、この表示整形のためのDTDの方が、「自然」に理解できるのであります。「「理窟から言へばかうするのが當然」の意味で「自然」」ということを踏まえても、であります。

例えば、文章のとある部分を赤くする場合を考えましょう。強調するために赤くするのであるから、先に「赤くする」が出てくるのはどうかしている、というのがW3C的な考え方であります。しかし多くの一般人にとっては、「赤くしたいから赤くするのであって、それ以上の理屈はない」のであります。これは必ずしもおかしなことではありません。というのは、多くの一般人は、文章を赤くしたり黄色にしたりする場合、色と強調の程度をまったく対応させてはいないことが多いからであります。これは強調の様子を表現するために色を使うのではなく、色を使いたいから色を使っていることの証左といえましょう。

くり返しますが、彼らはHTML4.01に従った解説はしておりません。彼らの「とあるDTD」にぴったりの仕様が存在しないので、便宜的にHTML4.01などにある要素を借りて特定環境における表示整形を行う方法を解説しているに過ぎないのであります。したがって彼らに矛盾があるのは仕方のないところであります。

<DIV class="h1">なるマークアップを笑う記述が先日の闇黒日記にありましたが、その記述をされた方は、見出しはマークアップによってではなく整形結果によって表されると考える一人でありましょう。はっきりいってDTPの世界では、むしろそれが当然なのであります。同様に、多くの一般人にとっても、その理屈は理解されるところでありましょう。それを笑うのは勝手としても、もしW3Cの勧告するDTDの精神でもって一方的に批判するのであれば、それは異文化理解に不寛容な態度として視野狭窄を露呈するものとなるでしょう。

話をようやく前回投稿の最初に戻します。野嵜さんは自然なマークアップの結果、とあるDTDに適合したのなら、それを使えばよいということをおっしゃった。このご意見に従えば、不思議マークアップをする人々がDTDを宣言しないのは、要するに適合するDTDがないことを意味すると考えて不都合ありません。しかしDTDは宣言されずにいても、とりあえずIEなどでその文書が読めるからには、ある程度の秩序に基づいたソースになっているものと思われます。わたしはその秩序を「とあるDTD」と呼んでいるのです。

この「とあるDTD」は仕様になっていないので、最終的にW3Cの勧告したものなどから適当に要素を拝借してソースを記述することになり、いくつかの矛盾がそこには生じます。野嵜さんは要素を拝借された側の思想に立って「その要素の使い方はおかしい」ということをおっしゃるけれども、相手さんは表示整形という観点から要素を拝借しているだけですから、でたらめだといくらいわれても堪えるはずもないのであります。私は表示整形を基準としたマークアップは、庶民文化の伝統を色濃く引き継いだ一つの正統的なものと捉えています。しかしWWWの将来には邪魔であろうと思われてならないので、滅びたらよいと考えるのであります。

そういうわけで、野嵜さんは「表示整形の結果が見出しを明示する」といった考え方を全然「自然」とお考えにならないようなのでこれ以上何を申し上げても平行線かもしれませんが、私は「とあるDTD」の発想も十分に「自然」で理に適っていると考えるので、「自然にマークアップした結果が何らかのDTDに適合すれば、それを宣言することができる」式の発想には反対なのであります。DTDの宣言はルールとして徹底的に押し付けて、それに適合するようなマークアップを強いるべきだと考えるのであります。そうでもしなければ、多くの一般人はいつまでも「自然」に不思議マークアップを続けるのであります。