制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
大改訂
2000-01-01
追記
2001-04-01
更新終了
2002-07-20
マーク附けの修正/TYPOの訂正
2009-04-11

2002年7月22日、HTML 作法が消滅してゐるのに氣附きました。

南堂氏の「HTML 作法」を斬る

解説

「正しい知識」

HTML の書き方については、正しい知識があまり普及していないようだ。
私自身、恥ずかしながら、間違った知識をもっていた。
そこで、自戒の意も含めて、以下にいくつかのことを述べておく。

ここで南堂氏は、正しい知識述べておくと云ふ事を言つてゐます。或は、普通の讀者は、これから南堂氏が正しい知識について解説するだらうと期待する筈です。

本文

(1) DOCTYPE の指定

 HTML の冒頭に、次の1行を加えておくことが望ましい。

<!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.0 Transitional//EN">

 この形式以外の形式で書かれた HTML もあるのだが、あまり細かいことを言うと、普通の人には理解できなくなる。とりあえず、上の1行をソースの冒頭に加えておくことが望ましい。

 ただし、必須ではない。

南堂氏は、とりあえずと言ひます。とりあえずDOCTYPE宣言を書くのが望ましいが、それは必須ではない、と言ひます。

隨分大雜把な解説です。南堂氏は、正しい知識を教へると言つた筈なのに、いきなり不正確な解説をしてゐます。

(2) コメントの記入

 自分のコメント(ソース中にだけ現れ、HTML 画面には表示されない文句)をソースに書くこともできる。ただ、その書き方は、正しい記法が定められている。

南堂氏はここでは正しい記法と言ひます。

(3) charset の指定

 文字コード(Character Set)を指定することが必要である。

 実際には、指定しなくても正しく表示されることも多い。しかし、原則として、指定することが必要である。そのことは規格で定められている。また、指定しないと、ブラウザによっては文字化けして、全体が読み取れなくなることもときどきある。 (特に unix 系の HTML 文書の場合。)

ここでは正しく表示されることも多いと言つてゐます。

南堂氏の解説は不正確です。本來、HTML文書の文字コードは、サーヴァがデータを送出する際附加するhttp應答ヘッダで指定します。

HTML文書のmeta要素でcharsetを指定するのは、サーヴァが文字コードを指定して呉れない場合か、その文書で強制的に文字コードを變更したい場合に限られます。

 どう指定するかと言えば、次のいずれかを指定する。

<META http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS">
<META http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=ISO-2022-JP">
<META http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=EUC-JP">

 1番目は、Windows や Mac の場合。2番目と3番目は unix 系の場合。

 初心者は、1番目のように指定すれば、まず間違いない。

Windows や Mac の場合とかunix 系の場合とか、「文字コードの專門家」である筈の南堂氏が好い加減な説明をしてゐます。南堂氏は最初に正しい知識を教へる、と言つた筈です。しかし、ちつとも正しい解説をしません。

 なお、既存の文書をMS-Word97,98や一太郎9で HTML に変換した場合は、次の1行が自動的に指定される。

<META HTTP-EQUIV="Content-Type" CONTENT="text/html; charset=x-sjis">

 これは1番目と同じ意味である。(つまり、シフトJIS)

 これは、実は、正式の書き方ではない。「x-sjis」ではなく「Shift_JIS」が正式である。 とはいっても、Word97,98 や一太郎では自動的にこのようになるのだから、「ダメだ」と言っても仕方あるまい。

 実際には、この「x-sjis」で問題になることは、あまりない。実をいうと、私自身、このことはあまり考えたことはなかった。私のホームページはすべて「x-sjis」と記述している。それで苦情が来たこともないから、まあ、それでいいだろう。

南堂氏は、charset="x-sjis"は正式の書き方ではないと言ひつつ、まあ、それでいいだろうと言つてのけます。南堂氏は最初に、正しい知識を教へると言ひました。南堂氏が何でそんな事を言つたのか、わからなくなつて來ました。

【 追記 】

おまけに、こんな事を平然と書いてゐます。

 あとで判明したところによると、「Shift_JIS」よりも「x-sjis」のほうが好ましいようだ。

 「 Netrscape Navigator 2.0 と Lynx では『x-sjis』だと文字化けする」と以前記述したが、実はこれは誤った情報に基づいていた。

 本当は、 Netrscape Navigator 2.0 では、「x-sjis」でのみ正しく表示され、「Shift_JIS」では文字化けする。しかも、その文字化けが直らないのだそうだ。(たとえ手動で文字コードを「シフトJIS」にしようとしても。)その結果、「Shift_JIS」と指定したページは、いずれも読めなくなる。

キーワードは正しく表示です。南堂氏は、正しいよりも表示の方を重視してゐる事を自白してゐます。

或はここで、南堂氏は正しい知識よりも正しい表示が大事だと思つてゐる、と云ふ事が明かになつてゐます。

 ただし、そうは言っても、Netscape Navigator 2.0 が「x-sjis」だけに対応するのは、当たり前の話である。というのは、当時はまだ「Shift_JIS」という規格はなくて、Netscape Navigator の独自の「x-sjis」というものしかなかったからだ。

 その後、多くのアプリは、この Netscape Navigator の「x-sjis」に対応するように作られてきた。先行者のやり方を踏襲する、というのは、ごく自然なことである。

 さて、規格というものは、一般に、現状と互換性を持つものでなくてはならない。ところが、IANA ( 規格を定める公的団体 cf. 変更履歴 7.24. )は、当時ひろく流布していた「x-sjis」でなく、「Shift_JIS」という規格を新たに定めた。「x-sjis」でも「Shift_JIS」でもどちらでもいい、……とするのならばまだわかるが、「おれたちがこう決めたんだから、こうしろ」と、新たな規格を定めたわけだ。その結果、規格にしたがって、「Shift_JIS」というふうに形式を指定したページがたくさん生まれたが、それらがすべて Netscape Navigator 2.0 (などの古いブラウザ)では文字化けして読めない、ということになった。

次のキーワードは互換性です。南堂氏は、正式な規格以前に作られたNetscapeの独自規格を、互換性維持の爲に支持する、と云ふ姿勢を表明してゐます。

しかし、正しい互換性とはどう云ふ事かを、南堂氏は考へてゐません。

「x-」ではじまる表記は常に獨自規格を意味すべきものです。メールのヘッダを見ると、大量の「x-」が見つかります。或メーラがメールを處理する都合上、勝手に附加した「メモ」が「x-」から始まる記述です。即ちその記述が「互換性のない、特殊なものである」と云ふ事を宣言する記述が「x-」です。

ですから、「x-sjis」を正式規格として認めろ、と言ふのは、「x-」から始まる記述は全て獨自規格と云ふルールを破壞しろと主張するになつてしまひます。獨自規格をそのまま正式扱ひするとは、獨自規格を勝手に作るルールを破壞しろと云ふ事にほかなりません。結局は獨自規格を作るのを禁止する事と同義です。南堂氏は、ブラウザの互換性を守らうとする餘り、インターネットのプロトコルに於る互換性を破壞しようとしてゐるのです。

南堂氏はIANAがおれたちがこう決めたんだから、こうしろと言つてゐるとIANAを非難します。しかし南堂氏は、Netscapeがおれたちがこう決めたんだから、こうしろと言つた事實を無視し、無理を通す爲に道理を引つ込ませようとしてゐます。


なほ、Internet Explorerの擧動に關して。

Microsoft Internet Explorerではcharset指定がないとローカルではISO-2022-JPを認識しない。また、charset=x-sjisの指定は認識されない。つまりI.E.ではShift_JISが優先されるようだが、特にI.E.2が開発された頃にはShift_JISはIANAに登録されていなかったせいか、Shift_JISでも文字化けを起こした。

規格の決つてゐなかつた渾沌とした状況下で「一時しのぎ」に定められた「慣習」を、先行者のやり方を踏襲する、というのは、ごく自然なことである、と言つて強引に「正式な規格」とするのは不合理で、極めて不自然な事だと私は考へます。

また、互換性とか先行者のやり方を踏襲するとか言ふのであれば、HTML文書をISO-2022-JPで保存し、head要素内には<META HTTP-EQUIV="Content-Type" CONTENT="text/html;charset=ISO-2022-JP">と記述しておくのがベターなやり方でせう。

(4) インデント

 インデントは <UL> </UL> で示されることもある。

 これは正しいやり方ではない。というのは、これは、次の形式で書かれるのが本来の書き方であるからだ。

<UL>
<LI>あれや</LI>
<LI>これや</LI>
</UL>

 つまり、 <LI> なしで <UL> </UL> で示すのは、正しい書き方ではない。 HTML の文法上、禁止されているとのことだ。

 また、 <DIR> </DIR> も同様で、禁止されているのだそうだ。

 そのかわりとしては、 <BLOCKQUOTE> </BLOCKQUOTE> タグというものがある。ただし、これは、右側までインデントされてしまう、という点で、ちょっと形が異なる。

 しかも、 <BLOCKQUOTE> タグがインデントになる、というのは、 HTML で明白に規定されているわけではなくて、たまたまそのブラウザがそのようにしている、というだけである。つまり、あらゆるブラウザでそうなる保証はない。 (ひょっとしたら、斜体で表示するブラウザが将来できるかもしれない。)

 他に、 <DL> <DT>  <DD> </DL> タグというのもある。

 これは、次のように使う。こう書くと、本文の箇所だけがインデントされる。

<DL>
<DT>見出し文字
<DD>
本文<BR>
本文
</DL>

 ここで、 <DT> タグ(および見出し文字)を書かなければ [ つまり  <DL> <DD> </DL> タグだけにすれば]、インデントが残る。

 ただし、 <DT> タグを省略するのは、本来の書き方ではないので、お勧めできるものではないらしい。 (結果的にはインデントになるのだが。……)

ulやdirでインデントを實現するのは止めるべきだ、blockquoteも駄目だ、しかしdlならばインデントされる、と南堂氏は説明します。dlでインデントされるのもたまたまそのブラウザがそのようにしている、というだけなのですが、南堂氏はなぜかul/dir/blockquoteとdlとを區別します。

南堂氏はここで、……正しい書き方ではない。 HTML の文法上、禁止されているとのことだ。と言つてます。ここではHTMLの文法正しい根據になつてゐます。

しかし、HTMLの文法に據つて正しい正しくないを決定したいのならば、dlによるインデントも南堂氏は否定しなければなりません。

Internet ExplorerやNetscape Navigatorのデフォルトスタイルシートでたまたまインデントされるからと言つて、或要素をインデント目的で使用するのは、HTMLの文法の立場から言つて、正しくありません。

 その他、スタイルシートというものがある。たとえば、次のように書けば、インデントが段落スタイルとして設定できる。

<DIV STYLE="margin:0.00mm 0.00mm 0.00mm 8.00mm">
あいうえお<BR>
かきくけこ
</DIV>

 しかし、この「スタイルシート」というものには対応していないブラウザも多い。たとえば Netscape Navigator 3.0 は、スタイルシートに対応していないので、スタイルシートに書かれた内容は無視される。となると、スタイルシートなんてものは、原則として、使うべきではないようだ。

対応していないブラウザ多いからスタイルシートというものは使うべきでないと南堂氏は主張します。これは完全な間違ひです。

HTML文書を整形する事はスタイルシートの働きです。ブラウザは全てスタイルシートを使用してゐると言へます。スタイルシートに對應してゐないブラウザはこの世に存在しません。

Netscape Navigator 3.0 は、スタイルシートに対応していないと南堂氏は言ひますが、Netscape Navigator 3.0は、單にCascading Style Sheetsの仕樣を知らないだけで、自己のスタイルシートを使つてHTML文書を整形してゐます。

 では、結局、どうするべきか?

 実は、うまい解決策がない。HTML の規則では、 <UL> タグや <DIR> タグをインデントとして使うことは禁じているくせに、そのかわりとなるものを用意していないからだ。 (スタイルシートなんていうものは、論外である。)

實は、ulやdl、blockquoteと云つた要素がインデントされて表示されるのは、或ブラウザに於るそれらの要素のデフォルトスタイルが「インデント」であるからです。

或ブラウザに於るHTMLの整形結果を期待してゐる時點で、南堂氏は既にスタイルシートの使はれる事を期待してゐます。論外である筈のスタイルシートがなければ、南堂氏の大好きなインデントは實現されません。

實際のところ、Cascading Style Sheetsとは、ブラウザメーカが獨自に決めてゐたスタイルを制作者や閲覽者が自由に決められるやうにしたものに過ぎません。(Cascading Style Sheets level 1)

それにしても、W3CはCascading Style Sheetsを從來の「タグによるレンダリング直接制御」に代る新しいやり方として(或は概念を)提唱してゐるのに、かわりとなるものを用意していない等とぬかすとは、南堂氏も惡質です。

 となると、結局、ユーザとしては、次のいずれかで対処するしかない。

(a) <BLOCKQUOTE> タグを使う。
(少し形が違うし、解釈の異なるブラウザがあるかもしれないが、我慢する。)
(b) 正規の使い方ではないのを承知の上で、 <DL> <DT> <DD> タグを使う。
(c) HTML 規格には反することを承知の上で、 <UL> タグを使う。
(MS-IE や Netscape Navigator などのたいていのアプリでは、大丈夫。つまり、規格制定者よりも、アプリの現状の方を信頼するわけ。非対応のアプリでも、たぶん、インデントされないだけだろう。)なお、 <DIR> タグは将来廃止されるので、使うべきではない。)

南堂氏の解説こそ論外です。最初に南堂氏は正しい知識を教へると言ひました。今ここで南堂氏は、正しい規格を無視しろと言つてゐます。即ち南堂氏は、正しい規格を守らせない爲に正しい知識を與へようとしてゐる、と自白してゐるやうなものではないですか。

南堂氏は正しい規格を守らせないが爲に、対処と稱して正しくない知識を教へ、積極的に使用をすすめてゐるのです。

南堂氏の言ふ個々の対処も、皆出たら目です。

(a)について。我慢するのは誰がですか。閲覽者が我慢するのではないですか。制作者が我慢するのではないのではないですか。

(b)について。正規の使ひ方はかう(この文書のやうに)やるのですよ。と云ふ譯で、本文書のソースを參照する事。

(c)について。南堂氏は、規格制定者よりも、アプリの現状の方を信頼すると言つた口で<DIR> タグは将来廃止されるので、使うべきではないと言つてはいけません。アプリの現状の方を信頼すると云ふ方針をとるのなら、一貫して下さい。dir要素も南堂氏は平氣で使はなければいけません。南堂氏の方針は、出たら目も良い所です。何を考へてゐるのですか。

そもそも、南堂氏の言ふアプリの現状は、正しいアプリの現状ではありません。2001年初現在、Cascading Style Sheetsを理解するブラウザは市場の大半を占めてゐます。Cascading Style Sheetsにそれなりに對應してゐるInternet Explorerのシェアは、全市場の8割から9割を占めてゐます。また、Cascading Style Sheetsに極めて良く對應してゐるNetscape 6が2000年秋にリリースされてゐます。フリーソフトのMozilla browser(Seamonkey)も、W3Cの仕樣を忠實に實裝してゐます。

 私自身はどうしているかといえば、上記のいずれも使っている。

南堂氏は、何も考へてゐません。しかし、上記のいずれかを使ふ場合、南堂氏は一體いかなる基準でその中の一つを選んでゐるのでせうか。謎です。

(5) <P> タグによる改行

 改行を <P> で実行している人がいるが、まったくの誤りである。

 <P> </P> は、段落を示すためのタグである。 <P> タグを単独で使った場合も、ブラウザは改行のように解釈することが多いが、だからといって <P> タグを改行のかわりに使うのは、間違いである。

さて、アプリの現状の方を信頼すると宣言した南堂氏は、<P> タグを単独で使った場合も、ブラウザは改行のように解釈することが多いのに、なぜかさう云ふブラウザの現状を信頼しません。南堂氏は、どう云ふ基準でアプリの現状の方を信頼したり、しなかつたりするのでせうか。謎です。

(6) <TABLE> タグ と <P> タグ

 <TABLE> </TABLE> タグは、 <P> </P> の中に入れてはいけない。

 つまり、<TABLE> </TABLE> タグは、 <P> </P> の外に出さなくてはならない。

良く出來たUser Agentならば、<table>の直前に</p>を補つて解釋します。即ち、table要素をp要素の中に入れようとしても、入れられません。

(7) 一太郎の <TABLE> タグのエラー/(8) 複雑な <TABLE> タグ

(7)は愚癡。(8)は謎。そもそもHTMLの正しい知識とは何の關係もありません。

(9) <PRE> , <TT> タグ

 HTML では、フォントはなるべく指定しないことが望ましい。

 仮に「MS 明朝」とか「MS ゴシック」などと指定した場合は、Windows 環境以外ではそのフォントが無視されてしまう。だから、もともと、指定してもそのように表示されることは期待しない方がよい。

解釈の異なるブラウザがあるかもしれないが、我慢する。と云ふ方針では駄目ですか。インデントに關して南堂氏はさう云ふ方針だつたぢやないですか。

そもそもフォントの問題はHTML の書き方とは關係のない話です。南堂氏は餘計な話をしてゐます。

(10) 書体の指定

「フォント」と「書体」と云ふ用語を、南堂氏は使ひ分けてゐるのですか。

ただし、Netscape Navigator 3.0 では、欧文書体については、指定が無効になる。注意せよ。

さつきNetscape Navigator 3.0 は、スタイルシートに対応していないので、スタイルシートに書かれた内容は無視される。となると、スタイルシートなんてものは、原則として、使うべきではないようだと南堂さんは、御書きになりました。すると、ここでも注意せよなんて言はずに使うべきではないようだと言つた方が良いのではないですか。

或は、もつとはつきりfontなんてタグは、原則として、使うべきではないようだと言つたらどうでせうか。

(11) 行間隔の指定

ここはスタイルシートなんてものは、原則として、使うべきではないようだと書いた附けが囘つてきて、南堂氏もしどろもどろになつてゐます。JavaScriptやらxmlやらを持出したり、Word2000で作れと言つて見たり。

とどめの記述が實に出たら目です。

 問題は、見映えばかりが優先されて、検索などには適しないことだ。しかしそれには、 検索用に、テキストだけのファイルを別途配布すればいいだろう。

blockquoteやらulやらでインデントを實現したり、fontを濫用したりして、見映えばかりを優先した検索などには適しない文書を作るのは、なぜ惡くないのですか。物理タグを使ふから、HTML文書がデータとして役立たずになるのではないですか。

檢索目的でHTML文書を扱ふプログラムの事も考慮して、W3CはHTMLの仕樣を決めてゐます。ところが南堂氏は、W3Cの定めたHTMLの仕樣を無視しろと言つてゐます。南堂さんは先程、糞データを作れと讀者に言つてゐるのです。それでゐて今度は、検索などには適しないなんて愚癡つてゐます。良くもまあ、自分の事を棚に上げて、ぬけぬけと言へたものだ。

追記

先程はスタイルシートを論外呼ばはりしておいて、ここでは行間隔を「スタイル」として指定すれば大丈夫等とぬかしてゐる。南堂氏は頭がをかしいのではないかと思はれる。

(12) 論理タグと物理タグ

 HTML 関係では、「物理タグよりも論理タグの方を用いるべきだ」 というふうに言われることが多い。しかし、実際には、物理タグも広く使われている。

 私見では、このようなことは、ほとんど哲学的な主義に近い。どちらを使うべきかは、ユーザに任すべきであって、「こっちがよい」などと一定方向に導くのは、余計なお節介だと思う。

 かくいう私は、なるべく論理タグを使わないで、物理タグ一本槍である。表示される本文そのものを指定したいのであって、構成とか構造なんかを HTML のソースには記述したくないのだ。

 実際、そう思っている人も多いから、HTMLの指針で「なるべく論理タグを使え」なんて言われても、無視していいと思う。私見だが。

どちらを使うべきかは、ユーザに任すべきなのでせう? HTMLの指針でなるべく論理タグを使えなんて言われても、無視していいと思うなどと、南堂氏は言へない筈です。南堂氏が初心者を、こっちがよいなどと一定方向に導くのは余計なお節介ではないのですか。南堂氏は、自分で自分のやつてゐる事を否定してゐる事實を認めるべきです。

繰返しますが、南堂さんは物理タグを使へ、なんて主張を出來ません。南堂さんは、論理タグの奬めも物理タグの奬めも説いてはならないと言つてゐるのですから、物理タグの奬めを説くのは南堂さん自身の言つてゐる事を否定する行爲です。

自分で自分の主張を裏切るのは極めて拙い事だと思ひます。私は南堂さんを非難してゐるのではなく、南堂さんに忠告申し上げてゐるのであります。


そもそも、文章は常に論理的であり、常に構造上の機能に基いてマークアップ可能です。ならば、制作者が文書を論理的にマークアップするのは自然です。或は、普通の文書をマークアップすると、自然に構造的なマークアップとなります。制作者が、見榮えをどうするか、考へるのは、そのあとである筈であり、あるべきです。そこではじめて、「物理マークアップ」にするか、Cascading Style Sheets等を用ゐるか、を考へられるのであります。

「物理タグ」か「論理タグ」か、は問題ではありません。或要素の文書構造に於る機能は、常にマークアップされてゐるべきなのであり、結果として「論理タグ」で文書をマークアップしてゐるのは當然の事なのであり、ユーザに選擇の餘地はありません。

 なお、私見では、論理タグは、表示には何ら影響を及ぼさないことが望ましい。見出しなどを指定するタグがあるのは構わないが、それに「文字を大きくする」という表示能力を持たせることは好ましくないと思う。論理タグは、そこにあることはあっても、何も見えない、というのが好ましい。(たとえばリンク先タグなどのように。) 表示をあれこれしたいときは、論理タグと物理タグを、両方とも書けばよい。面倒ではあるが、その方がすっきりする。……あくまで私見ではあるが。

そもそも物理タグが存在しなければ、適切に論理タグの記述を表示出來るやうに全てのブラウザのデフォルトスタイルシートは出來てゐるのだから、物理タグなど無くなつてしまふ事が望ましい、と私は思つてゐます。もともと、ブラウザは或要素が文書構造に於る機能に基いてマークアップされてゐる事を期待して、デフォルトスタイルシートが作られてゐます。

或は、物理タグ以前のブラウザとの互換性を維持する爲にも、物理タグは無くすべきです。

制作者の立場から言ふならば、物理タグがなければ、非常に見易いすっきりしたHTML文書が出來ます。

【 補記 】

 「論理タグを表示効果として用いるのは避けるべき」

 という点は、論理タグ推奨派と言われる人たちも主張しているらしい。

 しかし、現実には、多くのアプリで、論理タグの処理はそうなっていない。

 たとえば、 <H2> などという論理タグがあると、文字サイズが指定されるほか、強制的に「太字」になってしまうことが多い。

 しかしこれには難点がある。「太字」になると、ゴシック体の漢字は、字画がつぶれてしまい、非常に見にくくなるのだ。たとえば、次の例のように。

南堂さんは、ブラウザに文句を附けたいのでせうか。アプリの現状の方を信頼すると南堂さんはさつきおつしやつた筈ですが。

アプリの現状が信頼出來ないと云ふのならば、南堂さんはさつき、何を主張したのでせうか。

南堂さんの言ふアプリの現状は、常に南堂さんにとつて都合の良いものであるやうです。或は、南堂さんは自説を補強する爲に、都合よくアプリの現状を持出すのです。結局のところ、アプリの現状など、南堂さんにとつてはどうでも良い事なのです。

 なお、私の考えを言うと、……

 論理タグに書式情報をもたせないとしたら、「論理タグを推奨する」ことの意味がなくなってしまう。

 なぜなら、書式情報を、物理タグだけが になうことになれば、論理タグはただの追加的な「おまけ」にすぎなくなるからだ。このような論理タグは、あってもなくても、どちらでもいい。ワープロで言えば、目に見えない「マーク」とか「見出し設定」とかの情報になる。そんなものは、あってもなくても、どちらでもいい。

 つまり、目に見えないオマケ情報など、書きたい人は書けばいいし、書きたくない人は書かなくてもいい。そして、たいていの場合、書いても書かなくても、差はない。だとすれば、書くだけ無駄であろう。

南堂氏は、自分で無意味なものとして論理タグを定義しておいて、論理タグは無意味だと言ひます。相手の言ふ事を、自分の理解しうる範圍で解釋して假想的に愚論をでつち上げるといふ操作を、南堂氏は行つてゐます。南堂さんは、無知に基いて「論理タグ不要論」を主張してゐると思ひます。なほ、これはあくまで野嵜の私見です。

以下は餘談。

南堂さんは餘程スタイルシートがお嫌ひなやうです。よつて、南堂氏はワード使ひとして低レヴェルであると野嵜は推測します。南堂氏はWordで、スタイルを使はないのでせう。見出しや本文を指定して、スタイルで一括して書式やら何やらを指定したりはしないのでせう。そもそも南堂氏はWordの「アウトラインモード」を御存じないのでせう。Wordを使ふ際、見出しや標準と云つたスタイルを使ひこなすのは、Word使ひの常識です。そして、HTMLに於るスタイルシートの機能は、Wordのスタイル機能と良く似たものです。

Wordを使ひこなしてゐれば、スタイル(=論理マークアップ)のありがたみがよくわかる筈なのです。然るに、南堂さんは論理マークアップの事を全く理解してゐないし、スタイルシートを毛嫌ひしてゐます。結局、南堂さんはWordを全く使ひこなしてゐないと推測出來ます。南堂氏はWord關係の記事やマクロを公開してゐる筈ですが、それら全てが怪しいものに見えてきます。以上の推測は、あくまで野嵜の私見ですが。

 ついでに一言。

 私の HTML 文書では、色やサイズが豊富に使われているが、これらは、いちいち手動でタグを書いて指定したわけではない。

 私はワープロ上で、色やサイズを指定している。(これならクリック一発で済む。また、ワイルドカードを使った書式置換処理ならもっと簡単。) そうしてできた文書を、HTML に自動変換する。そのあと、ソースの上で、微妙な文字色調整をする。(これも置換で一発処理。)

 つまり、物理タグを使うならば、WYSIWYG画面上で自動化できるのだ。

 一方、論理タグは、ソースを開いて、手動でタグを書かねばならない。これは「エレガント」とはとても言えない方法である。あまりにダサイと思える。

私のHTML文書でも、色やサイズが豐富に使はれてゐますが、これらは一々手動でタグを書いて指定した譯ではありません。

私はエディタで文章を書いたあと、見出しと本文をマークアップします。そのあと、ヘッダをテンプレートから貼りつけます(これなら外部スタイルシートに即リンク完了します)。一發處理も一發處理──と云ふ譯で、エディタで簡單にHTML文書を作れます。HTML文書作成を論理マークアップで濟ませるのならば、ただのエディタでHTML文書が出來る譯です。

重たいHTMLエディタやWordを起動して、範圍指定して、メニューを選ぶのは、エレガントなやり方ではありません。そもそも、Wordでスタイルを使はないと云ふ愚かしい眞似を、南堂さんは平氣でやつていらつしやるのでせう。何が「WYSIWYG畫面で自動化」ですか。「エディタか、ワープロか」が問題ではありません。問題は、どのやうなやり方が眞にエレガント自動処理なのか、です。「エディタか、ワープロか」の問題だと言ふ南堂氏は、話をねぢまげ、論點をずらしてゐます。即ち、まともに議論しようとする氣が、或はまともに物を考へる氣が、南堂氏にはないのです。

【 追記 】 余談 : UNIX との関連

※この項、原文では2000年末に「後述余談」として後に囘されてゐる。

 「ダサイ」なんていう悪口を言ったせいか、私の人望がないせいか、UNIX 系の人から反論が来る。

 「物理タグより論理タグの方がいいぞ。」と。

 ただ、そこで聞かれる意見は、すでに知られているものである。

 ……といったものだ。

 実は、それはその通り。そこで主張されていることは正しい。──ただし、書き手・読み手が UNIX 環境にあるならば、の話だが。

 Windows ,Mac 環境では、ワープロを使う人が大部分で、エディタを使う人は少数である。一方、UNIX 環境では、エディタを使う人が大部分で、ワープロを使う人は少数だ。こういう書式なしの環境 [ UNIX 環境 ] を想定すれば、物理タグよりは、論理タグを使った方がいいに決まっている。

 ともあれ、UNIX 環境の人の気持ちもわからなくはないが、少なくとも、一般のユーザは、いちいちソースを開いたりしないのだから、(ソースを見なければわからないような)論理タグなどは、一般向けではない、と思える。

私はWindowsユーザで、unixユーザではありません。ですから、南堂氏の批判對象ではないでせう。そして、私は書き手・読み手が UNIX 環境にあるならば、の話をしてゐません。

それにしても南堂氏は、制作者の環境だけを嫌に強調してゐます。UNIX 系の人相手の環境などと閲覽者の環境を強調してゐるのに。南堂氏は、なぜ話を摩り替へますか。

どうやら南堂氏は、例によつて話を摩り替へて自説を他人に押付けるのが好きな人種に屬するやうです。あくまでも野嵜の私見に過ぎませんが。

 なお、上に列挙した UNIX 派の論旨には、かなり、無理がある。

実は、それはその通り。そこで主張されていることは正しい、と南堂氏は先程言つてゐますが、それは嘘であつたやうです。讀者をたばかるのが、南堂氏は好きなやうです。あくまで私見ですが。

 UNIX 派の論旨は、UNIX という環境に閉じこもりがちだ。しかし、コンピュータはもはや専門家だけの道具ではないのだ。コンピュータの利用者の 99% は初心者なのだ。 UNIX 環境では論理タグの方がいいとはいっても、それを、WYSIWYG 環境に慣れた大多数の人に押しつけるのは、傲慢だと思える。

 専門家は常に謙虚でなくてはならない、というのが、私の立場。(「そういうおまえはどうなんだ」と突っ込まれそうだが。……)

私は、素人は常に謙虚でなくてはならない、と思ひます。素人の分際で、專門家の考へた「正しい」事を否定するものではない、と思ひます。

それにしても、自稱Windows派の人間はなぜにWindowsと云ふ環境に閉じこもりがちになるのか、私は不思議に思ひます。或は、例外を無視しろと言ふ人間こそ、自己中心的な閉じこもり人間ではないか、と思ひます。

UNIX派相手を大事にするのに對して、南堂氏らWindows派は、自分(制作者)の都合しか考へない、と云つた印象を私は受けました。他人の事を考へて行動する人間が閉じこもりがちで、自分の都合を押通す人間が閉じこもりがちでない、と南堂氏は言ひますが、どう云ふ理屈なのか、私は理解出來ません。

それから、南堂さんが、突っ込まれそうだと白状しつつ、※ 以上、あくまで、私見ですよ。念のため。 (石をぶつけないで。)、等と逃げを打つのは、何故なのか、私にはよくわかりません。俺の主張には弱點がある、だが誰も俺の弱點を衝いてはいけないよ、誰も突つ込みを入れないでね、すると俺の主張は誰にも突つ込まれないな、ぢやあ俺の主張は正しい譯だよな、何しろ反論が無いものな──なんて言つたら、馬鹿です。何故南堂氏は、その馬鹿のするのと同じ行爲をするのでせうか。私は理解出來ません。

 ついでに、少々述べておく。 ( XML との関連 )

……。

結局、HTML の最大の美点である「アプリ間の互換性」が消えてしまっている。

MosaicやNetscapeNavigatorと云つたアプリケーションに依存し互換性など皆無物理タグを南堂氏は推奬しました。或は、南堂さんはNetscapeNavigatorの世界に閉じこもつてゐます。閉じこもり人間である南堂氏が、平氣で他人を閉じこもり呼ばはりするのが、私には理解出來ません。南堂氏の頭は大丈夫なのでせうか。私は南堂氏を非難してゐるのではなく、心配してゐるのです。

(13) 半角スペースの挿入

特に指摘すべき事はナシ。一體どんな料簡で、南堂氏がこんな「豆知識」を解説してゐるのか、理解出來ませんが。

最後に

 一部の読者から、次のような批判が来ました。

 「おまえの言うことは HTML の方針に反している」

 と。しかし、このホームページは、HTML の規格を説明するためのものではありません。誤解なきよう、お願いします。

……

 この文書で示したいことは、

   「ユーザの側から見た、HTML の使い方の知識 ・ノウハウ」

 といったようなものです。実情に即することを優先しており、規格の理念がどうこうだということとは話の次元が異なります。

   「ここに書いてあることが絶対正しいのだ。それに従え」

 と主張しているわけではありません。別に、ここに書いてあることに全面的に従う必要はなく、あくまで、情報のひとつとして受け取ってくださるよう、希望します。ここに書いてあることに従うか否かは、ユーザ各自が決めることです。

冒頭で南堂氏は、何と言つたのでしたか。

HTML の書き方については、正しい知識があまり普及していないようだ。

私自身、恥ずかしながら、間違った知識をもっていた。

そこで、自戒の意も含めて、以下にいくつかのことを述べておく。

ここで南堂氏の言ふ以下の事は、正しい知識でなければをかしい。或は、まともな人間は、正しい知識があまり普及していないようだと書いたら、當然そのあと、正しい知識を普及させようとするものだ。ユーザの側から見た、HTML の使い方の知識 ・ノウハウなんてものを書く譯がない。

一方、讀者は南堂氏の文章を見たら、必ず正しい知識を期待する。南堂氏よ、あなたは讀者を騙したのだ。あなたは詐欺師と同じ事をやつてゐるのだ。

南堂氏は、正しいHTMLの仕樣を歪曲して讀者に傳へ、仕樣に對する嫌惡感を植ゑつけた。最初に撰擇肢を示さず、ひたすら「HTMLの仕樣は惡いものだ」とアジつた。讀者を最初に「洗腦」しておいて、あとでどちらを使うべきかは、ユーザに任すべきだと自分は考へてゐるのだよと言ひ譯した。

(だけど、けっこう誤解されるんですよね。……)

南堂氏は誤解されるやうな文章をわざと書いて、批判から逃げてゐるのだ。誤解される爲の文章を、南堂氏は書いてゐるのだ。即ち南堂氏は、誤解によつて自説を受容れさせ、誤解によつて批判を封じ込めようとしてゐるのだ。その根性が汚い。

 世の中には、次のように考える人もいます。

 そういう考え方の人と私とは、残念ながら、立場が異なります。ですから、立場の差を理由に、いちいち文句を言わないでくださるよう、お願いします。

私は南堂氏が私と立場が違ふから文句を言つてゐるのではない。南堂氏が嘘をついたり、讀者を騙したり、自分の主張を自分で裏切つたりしても平氣でゐるから、文句を言つてゐる。或は、南堂氏が、自説を通す手段として、他人を騙すと云ふ方法をとつたのが私には許せないのだ。

 余談ですが、私は本質的に、天の邪鬼のひねくれ者なので、

   「お上の言うことには、素直に従いたくない」

 という性向にあります。ですから、

   「お上の言うことには全面的に従え! 服従しないのはけしからん!」

 と思う人にとっては、はなはだ不快でしょうが、ご容赦ください。気になるようであれば、無視してください。

その癖南堂氏は、大部分のWindowsユーザやMacユーザ或はワープロユーザに阿り、少數派のunixユーザやエディタ使ひを虚假にする。

南堂氏よ、あなたは天の邪鬼のひねくれ者ではない。あなたみたいな現實追隨主義者──理念なんぞ糞喰らへ、俺は勝手にやるんだと主張する自己中心主義者──は日本中どこにでもゐる。

ソースのチェックはしませんけれども、なかなか凄いものです。混亂に混亂を極めた南堂氏のHTML文書は、見れば笑へます。腐れHTML文書のくせに、よくもHTML 4.0 Transitionalの宣言など出來たものです。DOCTYPE詐稱は、HTML的には「詐欺」と同じです。

ミケネコ HTML-lintの採点では66 点

97個のエラーがありました。このHTMLは 66点です。タグが 27種類 782組使われています。

平均的です。解説を読めば、よりよくなるでしょう。


「最後に」の「後日記」やら何やら

南堂氏は、2000年12月に、「後日記」なる文章を追加してゐる。樂しい記述が滿載なので、一讀されたし。

 charset の指定については、「ユーザに任せる」旨をすでに記した。私は別に、どれかを推奨しているわけではない。 (「 x-sjis を推奨して、けしからん」と怒る人もいるが。)

「Shift-JISはW3Cの隠謀だ」みたいな事を讀者に散々吹込んでおいて、「ユーザに任せる」と言つても説得力が無い、と云ふ事實に、南堂氏は氣附いてゐません。

 ユーザがどれを使うかは別として、規格としては、「x-sjis」も数年間程度は認めるべきだった、と考える。しかるに、現実には、「Shift_JIS」のほか、「MS_Kanji」などを正式に認めるくせに、「x-sjis」は認めない。そのせいで、現状との互換性・整合性を取れなくなっている。[ ついでに、私のところに非難が来たりする。  (^^); ]

 どうしてかというと、おそらく、W3Cとしては、charset で 「x-」 のついたものを認めるのは、面子に関わるのだろう。民衆の迷惑より、自分たちの面子の方が大切なわけだ。

既に述べた通り、「x-」ではじまる表記は常に獨自規格を意味すべきものであるから、W3Cがx-sjisを「認める」譯がありません。或は、x-で始まる記述は全て實驗的なもの、ヴェンダ獨自のものであり、正式なものではないし、ヴェンダ自身正式のものにする意圖を初めから持つてゐません。そもそも、南堂氏がW3Cとしては、charset で 「x-」 のついたものを認めるのは、面子に関わるのだろうと推測する根據は何ですか。南堂氏は一切の根據を提示出來ない筈です。南堂氏は單に思ひ込みに基いて、惡口を言つてゐるだけです。或は、趨勢と法則とを混同する誤りを、南堂氏は犯してゐます。

 [ なお、下司の勘ぐりをすると、……W3CとMSは仲がいい。だから「MS_Kanji」を正式規格に入れて、「x-sjis」を排除する。そうして Mozilla を排除したがるわけだ。こう考えてみると、「物理タグ排除! スタイルシート万歳!」という方針も、Mozilla 排除運動(=IE による世界支配運動)の一環として、うなずける。 (ホントかね?) で、そのあげく、初心者の立場を考える私もまた、排除されかかっているようだ。 (^^);  ]

本當に、下種の勘繰りそのものだと思ふ。MS_Kanjiとx-sjisを同列に捉へるのは、南堂氏が無知だからです。

ちなみに、Mozilla(Seamonkey)が全面的にW3Cの仕樣に準據してゐる事實を、南堂氏はどう考へるのでせうか。Internet ExplorerよりもSeamonkeyの方が、W3Cの仕樣への準據度が高いと云ふ事實は、南堂氏には許し難い事になるのではないでせうか。

 別に Windows を優先しようとしているわけじゃなくて、「現状優先」という立場なんです。現状では、Windows が普及していて、たいていの初心者はこれを使っている。だから、私の立場に不満があるようでしたら、まず、現状を変革してください。 Mac か Linux が Windows を押しのけたら、今度はこちらを優先します。 (私自身の好みを言えば、Windows よりは Mac の方が好きです。こっちが普及していてくれればいいんだけどね。でもスカリーが「Macでボロ儲け」政策を採ったでしょ? Mac の現状は、自分自身のせい。自業自得。ジョブズがずっとやっていればよかったのにね。)

要するに、現状の上に胡坐をかいて、南堂氏は改革派を見下してゐるのです。それから、Mac の現状は、自分自身のせい。自業自得。等と書きたいのなら、南堂氏の文章があちこちで評判が悪いのは自業自得だと南堂氏は素直に認めるべきですね。

それから、現状に從ふのが自分の立場だと言ふのならば、南堂氏は早いところ「JISの新規格の私案  (南堂私案)」を引つ込めるべきです。そして、「南堂私案」が通らないのは南堂氏の自業自得だと認めるべきです。

 ……全体的に言うと、unix 系の人というのは、理念や理想を優先しすぎる。自分がコンピュータのパワーユーザであるからといって、それを他人にも押しつけすぎる。私は、そういうのが、いやなんです。

私はunix 系の人ではないのですが。そもそも、南堂氏は「現状」を押付けたがりますが、理念や理想を優先するのは間違ひで、現状を優先するのは正しい、と南堂氏が言ふのは、一體全體どう云ふ根據に基づいてゐるのでせうか。私にしてみれば、「現状」に胡坐をかき、理想主義的な人間に「現状」を押付けようとする南堂氏が、unix 系の人押しつけを非難するのは、「自分の事を棚に上げ」てゐるやうなものにしか見えません。

 世の中には、コンピュータなんてろくにできない、という人がたくさんいます。だからといって、彼らが馬鹿なんじゃない。コンピュータ音痴でも、立派な業績を上げている人は、たくさんいます。一方、unix ユーザの方はどうかというと、コンピュータ以外には何も業績を上げていない、という人がたくさんいます。こういう人たちが、「おれは利口だ。おれはこう思うんだから、おまえもこうしろ」というのを聞くと、いい気持ちはしませんね。もうちょっと、初心者への優しさもってほしい、と思います。

さう云ふ事を言ひたいのならば、HTMLの仕樣を作り上げたW3Cや、Macをとにもかくにも販賣し續けてゐるApple、或はWindowsやWordを作つて賣つてゐるMicrosoftの惡口を、南堂氏は言つてはいけません。そして、とにもかくにも文字コードを作り上げたJISを南堂氏は批判してはなりません。或は、私は現状に胡坐をかいて理想主義者を見下すやうな意見を吐く南堂氏を見てゐると、いい気持ちはしませんね。南堂氏には、もう少し、パワーユーザへの尊敬の念を持つて欲しい、と思ひます。

しかしまあ、納得し難い「現状」の「ホームページの作り方」が、初心者にとつて「優しい」ものであると、私は思はないのですけれどもねえ。W3CのHTMLの仕樣が、初心者にとつて理解し難いものであると、私は思はないのですけれどもねえ。そもそも南堂氏は、W3Cの仕樣を讀みこなせもしないくせに、文字コードのやうなややこしい問題には口を出せるのですかねえ。南堂氏の頭の中を覗いてみたいものです。

 私自身は、論理タグやスタイルシートなんか、使う気になれませんが、しかし、よく考えると、こういうのを使いたがる人の気持ちもわかります。

定型的な書式のファイルを、多数公開する人。
(連載ふうのエッセイや、章別のページを公開する人)
HTMLの知識がたっぷりある人。
最新のブラウザ(特に MS-IE )の読者だけを対象とする人。
(古い Netscape Navigator のユーザを無視する人。MS派の人。)

 こういう人なら、物理タグよりは、「論理タグ+スタイルシート」の方がいいでしょうね。ま、ご自由にどうぞ。 私は、「論理タグ撲滅!」と唱えているわけではないんだし。 (先にも述べたように、「ユーザに任すべき」と考えているだけ。……だけど、論理タグ派の人は、それが不満なんでしょうね。困ったなあ。)

散々惡態をついた擧句、「ユーザに任すべき」と考えている、等と言ふのは、卑怯な「逃げ」です。或は、南堂氏は「HTMLの勉強をするな」と言つてゐるやうなものです。「無知は罪」です。無知である事を奬勵する南堂氏は惡質です。

全く、南堂氏のやうな責任を取らうとしない人物が、偉さうに一見「正論」みたいな事を言ふのは困つた事です。南堂氏は默つて呉れないか。

 ついでに一言。

 パワーユーザーは、この文書を読んで、いちいち批判なんかしないで下さい。この文書はあくまで、初心者向けです。HTMLの規格書を読んで勉強するような人は、読者として対象外です。

初心者向けだから嘘を言つて良いと云ふ事はありません。南堂氏は初心者を騙し、或は洗腦しようとしてゐます。初心者向けだから、パワーユーザは批判してはならない、等と言ふのは正しい理屈ではありません。「反論封じ」を南堂氏は狙つてゐるのでせうが、反論されたくなければ正しい事を言ふべきです。或は、間違ひを指摘されたら、直すべきです。自分の思ひ込みを初心者に押付けたいので、南堂氏は專門家の意見をききたくないのでせうが、さう云ふ自閉的な態度は改めて欲しいものです。

 この文書は、車の運転で言えば、初心者向けの「オートマチック車 運転法」みたいなものです。マニュアル車を自在に運転できるような人は、対象外です。

南堂さん、あなたのHTMLに關する「解説」は、運轉初心者に「オートマチック車を運轉するならエンジンブレーキなんて知らなくて良い」「エンジンがオーヴァヒートする事など、考へるな」と云つた類の事を言つてゐるやうなものです。或は、運轉初心者に、車の構造の勉強をするのはやめろ、と言つてゐるやうなものです。その手の危ない事を積極的に教へる「自動車教習所」があつたら、プロのドライヴァは文句を言ひますが、それは正しくないのですか。

南堂さん、プロがアマチュアの危ない行爲を見過ごすのは、プロとして恥づかしい事ではないですか。或は、プロの説明を「俺は素人だ」と言つて否定するのは、素人の思ひ上りではないですか。南堂さんの言つてゐる事は、理屈に合はないのですよ。徹底的に出たら目なのですよ。南堂さんは、素人らしく、反省すべきです。

南堂さんはHTMLの素人です。素人が素人に物を教へるのは危なつかしくつて見てゐられません。はつきり言ひますが、南堂さんは、默つて下さい。危險な「HTML作法」を公開するのをやめて下さい。素人は默つて下さい。

そもそも、運轉するのがオートマチック車なのかマニュアル車なのかには關係なく、ドライヴァは車の勉強をすべきです。オートマチックだらうがマニュアルだらうが、車には變りがありません。さらに、どちらの車を運轉するにしても、ドライヴァは常に同じ道路交通法に從はなければなりません。勿論、道路交通法は「絶對に正しい」ものではありませんし、御上から押しつけられたものです。しかし、ドライヴァは道路交通法に從ふものですし、皆が道路交通法に從ふから車はスムーズに道を走れるのではないですか。

南堂さんの「作法」は、言はば「道路交通法を無視した車の走らせ方」みたいなものです。現實の道路で制限速度は必ずしも守らなければならないものでもありませんが、制限速度があると云ふ事を知らなければ、いつ制限速度をオーヴァしても文句を言はれないかをドライヴァは判斷出來ません。また、制限速度は屡々不經濟です。しかし、制限速度は不合理だから道路交通法は正しくない、車の左側通行だつて不合理だし」等と言つて、「車が左側を走らなければならないと云ふのは間違ひだ。初心者は右側を走れ」等と言ふ事は出來ません。しかし、南堂氏はHTMLに關して、さういふ類の主張をしてゐるのです。

HTMLの書き方についてでも車の運轉する方法についてでも、「正しい」知識は持つてゐるに越した事はないのです。「それは本當に正しいのか」と疑問を持つばかりが能ではありません。形式はまづ從ふべきものです。形式の本質を理解したならば、批判でも何でもすればよろしいが、理解もせずに「形式だから惡い」と言ふのは馬鹿です。HTMLの事をちやんと勉強したい素人さんは、危險な南堂氏の「HTML作法」を參考にしてはいけません。

いえ、まあ、その、あの。……馬鹿にしたわけなくて、論理タグ派の人が自己流を押しつけてくるから、「そっちこそどうなの」と言い返しただけです。つまり、ええと、「売り言葉に買い言葉」です。 (……苦しい言い訳。)

ならば南堂さん、あなたは「現状」を他人に押付けないで下さい。その爲に、南堂さんは「HTML作法」の公開を中止しなければなりません。「言論の自由」は關係ありません、南堂さんの立場が南堂さん自身の行動を束縛するのです。

或は、南堂さんが「現状」を押しつけてくるから、論理タグ派の人「そっちこそどうなの」と言い返しただけなのではないですか。南堂さんの「作法」は自己流ではないのですか。或は、x-sjisとは「メーカの自己流」以外の何物でもないのですよ。喧嘩を賣つたのは南堂さん、あなたなのではないですか。


おまけ。

ソースのまともさと、文章のまともさとは、多くの場合、比例します。

駄目なHTML文書を作つてゐる人の文章は、多くの場合、ろくでもないものです。或は、論理的に文章を書く人は、論理的に文章をマークアップして正しいHTML文書を作りますし、作る事が出來ます。論理的に文章を書けない人が、非論理的に文章をマークアップしてゐるから、巷の「ホームページ」の9割方が駄目なのです。

或は、スタージョンの法則が教へて呉れるやうに、全てのものは九割が駄目なのだから、「現状」を根據に物事の正邪や物事のあるべき姿を定めようとするのは間違ひなのであります。南堂氏は「現状」「現状」と言つてゐる時點で駄目なのであります。

まあ、まともなマークアップをしてゐるにもかかはらず、まともな文章を書いてゐない例もあつて、私自身がそれを斬つてゐますが。

追記

南堂氏、支離滅裂になつてゐるのを自覺しつつ、開き直つてゐるのだから、あきれたものです。南堂氏は「支離滅裂で何が惡い」と言ふかも知れませんが、惡いのです。

私は「南堂氏の主張に一貫性がない」と云ふ事自體を責めてゐるのであつて、現實がどうだのとか、批判者がUNIXのパワーユーザか否か、等と云つた個別の問題の正邪を論じてゐる譯ではありません。南堂氏は言ひ譯をしてゐますが、その幾つかの言ひ譯が互ひに矛盾を來してゐるので、私は批判してゐるのであります。

或は、「自分は押付けをしてゐない」と主張する南堂氏が、批判を受けても全く誤りを認めず「自分の主張は正しい」と主張して批判者の惡口を言ひ、自分の意見を他人に押付けようとしてゐる事を私は批判してゐるのであります。押付けをしてゐる南堂氏が「自分は押付けなどしてゐない」と思ひ込まうとする、その自己欺瞞を私は批判してゐるのであります。