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文様あれこれ 「水 流水

  青水沫言問ふ川に罔象女(みづはのめ)あそぶと見しはもゆる陽炎  谷川健一

 日本民族学の泰斗、谷川健一氏の第二歌集「青水沫」より。
 折口信夫以来の水の女のイメージが美しく結晶した冒頭の一首。透明な光のたわむれあふれる、はるかな浄福感が印象的です。

 地球という惑星の水の中で奇跡のように生まれた生命。何十億年も途切れずに、私達の体の中に太古の海の濃度が今もたもたれています。水は女性的なもの、母なる命の源郷のイメージがあります。しかし台風や大雨のようにひとたび荒れ狂うと人間の力などとうてい及ばない猛威を振るう。命の源であって、時には命を奪うもの。うつくしさとおそろしさとを併せ持つ水のイメージの二面性に惹かれます。

  洪水に大地果てしなく生まれ  和田悟朗「坐忘」

 大洪水の伝説は世界中にあり、古い世界は壊滅してしまいますがその後にきよめられた新たな世紀が始まります。

 実はつい最近、溺れる夢を見ました。川の向こう岸の雑木林のあかるさにふらふらと水に踏む込むと流が早く深くてあっという間に圧倒的に透明な壁に吸い込まれました。溺死者の気分が一寸見えた感じ。私の魂も清められて再生してくれたら嬉しいんだけど。

  水に触れておほむらさきの渡りゆく  高浦銘子「水の記憶」

 蝶は、以前に書きましたが、魂の姿とみなされてきた長い歴史があります。オオムラサキは華麗な蝶ですね。その蝶が水面にツと触れながら彼方へと渡ってゆく。眼前の景なのでしょうが、生と死のあわいの夢のような静謐さがたまらなく儚く美しい。

 本来無色で絶えず姿を変えながらこちらの姿を映しかえす水は描くものにとって誘いつつ拒否する魅惑的な素材です。一寸目を閉じるだけでさまざまな傑作が瞼に浮かびます。

 雪舟の山水長巻の広やかな春の水、雪村の瀟湘八景など禅僧の画、池大雅や蕪村の文人好みの山水画の中の水は日本の湿潤な風土と水墨の幸福な調和をみせています。
 もちろん中国の山水画も深い精神性をあらわしていますが、風水思想の影響でしょうか、どこか理想化された感があって、一寸 モナ・リザの背景の風景を連想させます。あちらも、非常にリアルなのに、どこかこの世ならぬ気配が漂っていますね。

 そしてもちろんMOA美術館の光琳の紅梅白梅図屏風。文様化された水は、かえって何か神々しいものの顕現のような豪奢な静けさを湛えています。

きりがないのでこの辺でやめますが北斎の「諸国瀧廻り」のそれぞれ個性的な瀧と根津美術館の「那智瀧図」は瀧好きの私には堪えられない作品です。アンドレ・マルローも絶賛した「那智瀧図」は私の記憶の中で本物の那智の滝と二重写しになっています。

 さて、器に描かれた水の文様といえばこれが意外に古いものは特定が難しい。縄文土器の渦巻き文様も泡立つ水をあらわしているといえないこともないような。弥生時代の銅鐸の流水文様はそれに比べたら静かな水のよう。銅鐸の文様はその起源が未だ解明されてはいないらしいけれど、中国の銅器の文様の激しさというか表出の豊かさに比べたらずっと優しい日本の流れという感じがします。また女性の土偶に青海波状の文様のあるものが出土していると聞きましたが、私は残念ながら実際に見ていないのです。櫛目の入った陶器の文様はそれが水の文様なのだと断定していいかどうかまよいます。

 平安時代の寝殿造りの建築の庭には広い池が作られました。時には蓬莱山を配したり、それは中国的な理想郷の表現だったのでしょう。紋様にも大陸からの影響がまだまだ強い。

 青海波は源氏物語の「紅葉の賀」にあるように舞楽の名前だったのですが、その文様のルーツはペルシャに遡るといわれています。



写真のお湯飲みでは青海波に梅花を散らしてみました。

 室町時代に入ると精緻な石組みを縫って走る清らかな遣り水が好まれます。水の表情にも時代が表れます。細やかな流れの曲線に四季の風物をうかべた流水文は小袖の文様として愛され、いかにも日本的な繊細な趣です。また、豪奢な能衣装に使われた観世水の、デザイン化された水の渦巻き文様は遥かに後のクリムトや「ジャポニズム」に魅了された画家達に影響を与えました。、

 江戸時代に入ると絵付けの技術の定着とともに水の紋様はもう枚挙に暇がありません。古九谷の瓢形徳利の桜花流水紋様はあでやかでどこか淋しくて好きなものの一つです。

 水は無くてはならないものですから、世界中に水を表す文様はさまざまあります。中南米の雨の神の像は強烈。
 ともあれ、水を描き、紋様化することは、水に祈ることでもあったろうと思います。

  燕雀の志かな水遊び  和田悟朗「坐忘」

 一寸難しい句ですね。おそらく荘子の「逍遥遊編」からでしょう。「燕雀いずくんぞ大鵬の志をしらんや」という一節ですね。大洋をひといきに飛びに越えるという大鵬の志は知らないけれど、燕や雀にもそれなりの志があるんだよ。 この世のひと時をささやかな水遊びして過ごしていたって それはそれで深さなのだよという気持でしょうか。

 この句にちなんだわけではありませんが「水遊び」と名づけた小碗があります。

ゆらゆら揺れる水の輪をイメージして描いてみました。写真は小碗ですが、他に小さな珍味いれ、平鉢、小さめの丼もあります。古代ギリシャでも仏教でも四大(地水火風)という考えがありますが、この焼物は土で形を作り、風を送って火を燃やし、水の紋様を描いたことになりますね。

2007年7月16日

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