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文様あれこれ 「

   うつつなき抓ミごころの胡蝶かな  蕪村

 荘周胡蝶の夢を踏まえて、胡蝶が我か我が胡蝶か。実体あるものををつまんでいるとも思えない蝶の儚いつまみ心地に、儚さでは人間もおなじだと思いかえせば一入うつつとも思えない。

 蝶の美しさは古来人を魅了してやまなかった。その色彩、文様、の完成度に人間は嫉妬してきたといえるかもしれない。蝶の大好きだったヘルマン・ヘッセは「蝶について」でこう書いている。

<蝶は花と同じように多くの人々から特別に優遇された小さな被造物であり、あの「おどろき」の特に重要な、効果的な対象であり、偉大な奇跡を体験させたり、予感させたり、生への畏敬の念をおこさせたりしてくれる特別に愛らしい生き物であります。(中略)
 蝶の価値、蝶のきらびやかさの価値はあらゆる時代に、あらゆる民族に感じ取られてきました。蝶は単純にして明白な啓示です。そして蝶はそれ以上の存在となりました。蝶派華麗な恋人であり、輝かしい変身者だからです。そして命短いものの象徴であると同時に永遠に持続するものの象徴であり、人間にとってすでに大昔からの魂の象徴となり、紋章として描かれる動物となったのです。>

 たしかにギリシャ語のプシュケーは気息・霊魂とどうじに蝶のこと。人から離れた最後の息が蝶になるというのは美しい。
 日本語同様、ギリシャ語には蝶と蛾の区別があって蛾はパライナ。なんと男根パロスの女性形(?!)だそうだ。蛾の胴に注目したのだろう。華麗な羽をさしおいて胴体に注目するとは!あたかも可憐な青い花よりその実に注目したオオイヌノフグリとがっぷりよつにくめる想像力というか…。
 のちのローマの石棺にも蝶は魂を吹き込むものとして造形されているのが見られる。ミイラのようなサナギの状態から蝶への再生は古代人ならずとも印象的だ。

 漢字の蝶とその音「てふ」が入ってくる八世紀以前、この華麗な虫を表す大和言葉には「かはひらこ」があった。明治じだいごろまではは各地にそこから派生したとおもわれる蝶を指す言葉があったという。また、一説にその「ヒラ」という語は東北地方の「シラ」→「おしらさま」と関連があるともいう。
 日本の文様の中の蝶には胴体が太くて蛾っぽい姿のものも多い。養蚕や機織に携わる女性たちが蚕蛾を神聖なものと看做すことは分かる。彼女達は、魂の象徴である蛾・蝶をあやつる巫女としての棚機つ女の末裔なのだろう。
 荘子の胡蝶の夢も、蝶が魂の象徴だった長い歴史があったから、人の心の深くに触れる表現となったのだ。

 これほど世界的にポピュラーな魂の象徴なのにもかかわらず、「かはひらこ」は万葉集にも古事記にもでてこない。不思議である。むしろ意識的に避けたと考える方がよいのかもしれない。つまりタブーだったと。
 わずかに少名毘沙古名神が蛾(ひむし)の皮の衣服といういかにもシャーマンっぽい服をきていたと日本書紀にあるくらいだ。(蛾と解釈したのは本居宣長でそれが本当に蛾かどうかはまだ問題らしい)

 しかし平安時代、908年頃には舞楽「胡蝶」が創作されたという。源氏物語「胡蝶」にも山吹の花をかざし蝶文様の衣装の童子達が胡蝶の舞を舞う。ついこないだまでタブーだったにしては派手な登場である。身の回りの品々にも蝶のデザインは目に付くようになる。和鏡の裏の双蝶、群蝶、文字通り蝶番の意匠にも。なかでも高野山、新王院の金銅蝶形磬(鎌倉時代)は常世の虫らしく神々しい。古代ミュケナイの黄金の蝶を連想させる力に満ちた造形だ。

   うすく濃き苑の胡蝶はたはぶれてかすめる空に飛びまがふかな  後鳥羽院

 群蝶は不吉という。「吾妻鏡」に鎌倉に黄蝶が大発生して北条氏に不吉との託宣を得た話があるが、まさにこの天皇の歌の呪力かと思わせる。

 蝶の物語として忘れられないのは鴨長明の発心集にある大江佐国の話だ。佐国は世に知られた博士で生前深く花を愛し詩にも作り、「他生にも定めて花を愛する人たらん」というほどだった。しかし或る人が夢の中で蝶になった佐国にあったと語ったのでその息子は「罪深く覚えて」あるいは父がこの庭に蝶の姿で迷うているかも知れぬと思って花園を丹精したという。あわれ深い話だ。
 佐国の蝶は魂の姿とはいっても霊力や呪力を感じさせない。うつつなく儚くて花園が美しければ美しいほど哀しい。これは遊離魂であるプシュケーの「影か夢か(アエネイス)の無力さと似ている。

 平家の家紋だった蝶もはかなく西海に散った。能登でも福井県でも平家の落人伝説のある所、揚羽の紋がひっそり柱の裏などに隠れている。落人と蝶は良く似合う。

 しかし蝶を家紋にしたのは平家ばかりではない。大体、家紋の動物の中で一番多いのが蝶だそうである。ヘッセの「紋章として描かれる動物となったのです」という言葉は江戸時代の日本のためのようなものだ。なにしろ大名旗本を含めて二百以上の蝶の家紋があったというのだから。華麗に滅び、美しく再生する蝶は、武士の理想のエンブレムだろう。

 古九谷の牡丹文大皿には豪奢な大輪に揚羽蝶が遊ぶ。牡丹と蝶は中国では富貴と長寿の意らしい。(原文に当たっていないが岡泰正によると同音の吉字と掛けて蝶は八十歳のことだそうだ)。
江戸の人々にとっても、華麗な蝶は、決して儚さを意味するばかりではなかったろう。仮にそれが妄執になるとしても美的愉悦は現世の荘厳である。蝶の羽の夥しい多様さの中に原初的な一者を予感すること。もっともはかないもの中に顕現する永遠の相貌に人は魅せられてきたのではないだろうか。

   蝶も寄らぬ枯山水のむつかしや  橋 關ホ

 枯山水が悟りの風光だとしても、蝶もいないじゃないか。關ホ翁おそるべし。たしかに蝶のいない浄土は猫のいない天国と同じくらい殺風景だろう。

 しかし、この藍古九谷の中皿の蝶は草の中へと落ちてゆく。。皿を裏返すと朝顔の花が一輪描いてあって、これでもかとばかり「槿花一朝の栄」つまり生命の儚さを指し示している。
 逆さにに落ちてゆく姿にジャポニズムの洗礼を受けたエミール・ガレの有名な蜻蛉の花瓶を連想してしまう。ガレの花瓶の蜻蛉は美々しく儚さを謳うが、この愛らしい蝶は人知れず潔くまっさかさまに落ちてゆく。

 蝶は「命短いものの象徴であると同時に永遠なる物の象徴でもある」らしい。プシュケーにも、もう一つの顔があった。
 ポンペイの壁画の中の翼の或るエロスと蝶は浄化された魂をあらわす。ポンペイ壁画にはなにか惹かれる。有名な花を摘む乙女の像を模写したこともある。優雅な後姿にそこはかとなくものの哀れを感じるのは亡びが近いとこちらが知っているからだろうか。
 オルフェウス教団の「世界に充満するプシュケー」観は遥かインド世界のプラーナにも通じ、後に肉体に閉じ込められた神の智ソフィアとしてグノシス派のなかにも甦る。オリエントでは炎に飛び込んで身を焼く火取り虫は煩悩を滅却して更に霊的に高次なものに甦る浄化された魂の象徴だったという。

   蝶になる途中九億九光年  關ホ

 蝶が地球上に現れたのは二億年ほど昔のこと。九億九万年といえば弥勒菩薩の十万億土よりもっと未来なのかどうだろうか。蝶への人間の思いは遥かだ。

 お終いにヘッセの蝶の詩の最終聯だけ載せておこう。

   すべての美しいもの 亡び行く者の象徴
   あまりにもか弱いもの 感じやすいものの象徴
   年老いた夏の王の祝宴に招かれた
   憂鬱な 黄金にかざられた客!  <晩夏の蝶> ヘルマン・ヘッセ

2007年4月16日

 

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