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文様あれこれ 「さくら

 紋様を持たない民族を想像出来ない。誰も見たりしない箱の脇や鏡の裏にも、紋様はひっそり住みついている。今日、紋様はあまり真ん中へでてきたりしない。いつも端っこの方、ページの片隅や、洋服の裏で何食わぬ顔をしている。しかし、身近にあるさまざまな紋様は驚くほど長い歴史を秘めているのだ。お雛様の身に着けている七宝紋は古代エジプトの女神も飾っていた。唐草は古代ギリシャからはじまって世界中に繁茂した。○や×、渦巻き紋様などの始まりはそれこそ人類の発祥とともに古いかもしれない。

 さまざまな紋様のなかでも植物紋様はことのほか土地土地の風土と文化を映して豊かな意味をになって咲き誇っている。西欧では薔薇が、オリエントでは石榴やナツメヤシ、インドでは蓮、植物紋様はそれぞれの文化のエンブレムのようだ。

 日本ではやはり桜だろうか。菊も重要な象徴だけれど、しばしばは権威と結び付けられる(菊花紋と権力の関係には非常に面白い問題が潜んでいます。いつか取り上げたいと思います)。その点、桜は全ての人に許され愛されてきた。花といえば桜なのだ。

 さくらは日本に自生する植物。縄文時代にもこの列島に住む人々は、春ともなれば白い梢を眺めてきたのだろう。

   うちなびく春来るらし山の間の遠き梢の咲き行くみれば  尾張連

 万葉集のこの歌を読むたび、上古の人々の春を喜ぶ心に触れる気がする。

 ところが桜の紋様は意外にもかなり遅くまで見当たらない。しばらくは書物の中に、桜が何を意味して来たか探してみよう。

 ははかとはさくらの古名とおしえてもらったのは吉野山の中千本の茶店でのこと。突出しの山菜が美味しかった。窓から花びらの谷を流れてゆくのが見え、水分神社の枝垂桜がうらうらと満開に向うころだった。

 そういえば古事記にもあった。アマテラスの隠れた岩戸の前で、神々の卜占するとき、「天の香の山の、ははかを取りて占ひ」とあった。大事なの鹿の骨を、そこらにある木で燃やすわけはない。太陽の再生の場に居合わせて、桜は聖樹なのだった。
 吉野山の蔵王権現 は桜の一木造り。西国三十三ヶ所の西の端円教寺の本尊も天人の拝んでいたという桜の立木仏。桜から顕現した像は秘仏が多いのはなぜだろう。かつてこの列島には聖なる桜の大樹があちらこちらに陽炎のように打ち靡いていたのだろう。それを仏に刻むことに、なにか口にするのを憚るものがあったことは、解る気がする。

 今でも各地に田植桜や苗代桜と呼ばれる桜がある。農業の始めの季節に万朶の花をつける聖樹を稲霊の予祝とみなすのは古代の人々には全く自然なことだったに違いない。そのさくらは普遍的な再生と豊穣のシンボルだった。
 それが、いつごろから儚さの方に重点がシフトしていったか興味深い。他の花、蓮、石榴等々は変わらない永続性性を内包してる。儚さを象徴として抱くというのは日本文化の特徴かもしれない。その点、菊の花はもちがいいので永続性を望む向きにはぴったりくるのかも。

   花にそむ心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふわが身に  西行(千載集)

   いくとせの花に心をつくしきぬあはれと思へみ吉野の花  俊成

 平安期の詩歌は桜の花なしには語れないほどさくらさくら。好きな歌をあげたらきりがない。でもどうしてもはずせないのはこの歌。

   はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春そ経にける

式子内親王(新古今集巻二春歌下)

 桜の紋様が繚乱と咲き誇るのは鎌倉時代頃からか。先ず絵画の中,六道絵や春日曼荼羅、一遍上人絵伝などに咲きだした桜は、桃山時代の小袖や能衣装の中に、蒔絵のなかに、満開を迎えてゆく。戦乱の時代の無常観は、花は移ろいやすくても絶えることのない樹木の生命の再生力をいっそう希求させたのかもしれない。高台寺霊屋の花筏紋様は流水の文字通り流麗な線とあいまって桃山の桜の傑作と思う。細い流水の線、寄る辺無い花と筏、紋様はそのむこうに知らない時代の人の心を映している。

 そんななかで焼き物は桜紋様においてはずいぶん出遅れた。江戸時代に入って磁器の絵付け技法が完成してから、ようやくいっきに花開いた感がある。
 勿論それ以前も中国からの輸入品に桜の図はあった。16世紀後半の古染付、祥瑞などの伝世品に菁華の桜がホツホツ見える。日本の茶人の注文だという。戦乱のせいで官窯という軛から開放された景徳鎮の染付磁器は闊達さと中国独特の線の強さを併せ持って雅趣がある。古染付は私の大好きな焼き物の一つ。何度もそこに立ち返っては作為のない清々しさにため息をつく。

<古染付の桜川水指からヒントを得て、もう一味日本的柔らかさを添えたいと思って桜小鉢を作りました>

 桜紋様からは少し離れるが、やはり茶人の好んだ焼き物に呉須赤絵がある。それは中国のもっと南のほうで、17世紀に焼かれた。中国では下手物とされていたが、茶人はその健康で鄙びた風情を愛したのだ。茶の湯は禅的な境地をいかに日常の市井の暮らしの中に生きるかという表現を求めた。その美意識は移り変わる四季の自然との一体感を求める、日本人の生活感情と深く呼応するものがあったのだろう。

 江戸時代には庶民のお花見が一般化した。落語の「長屋の花見」にあるとおり、農耕から遠ざかった都市の住人も何が何でも花の下でお酒を呑まないではすまなかったのだ。着物にも装身具にも桜は咲き、散り紛い、絢爛とあるいは寂び寂と、さまざまの表情を見せている。
 作者不詳湯女図(MOA美術館)の湯女の着物の豪華な桜花は、地上の歓楽のうつろいやすさをはっきり象徴している。同時に湯女の堂々とした態度には女神のような貫禄があって、あたかも古代の豊穣の女神の再臨のようだ。紋様の意味は、消え去ったかのようでいて時を越えて再び顕われる、葉陰からのぞく残花のように。

   なほ見たし花に明け行く神の顔  芭蕉

 俳句では花といえば桜だけを指す。吉野山でのこの句は夢幻能の詞章のようで、中世人芭蕉の面影がある。それにしても役行者にこき使われたりしかられたり神様の零落振りはちょっと可哀想なくらいだ。芭蕉が見たかったのはそんな後世の神の顔ではないだろう。往古の聖樹に顕現した神か。木花之開耶姫かもしれない。

 江戸時代の桜紋様の中でひとつえらぶのは無理なのは分かりきったことだが、あえてこころみるなら私は青手古九谷の、桜文大皿を選ぶ。窯のなかの小片が夥しく落ちた荒れた表面に深い青緑の上絵がほどこされ、そこに紺碧の桜が散って、覗き込めば引き込まれるような神秘的な静けさを湛えている。もの寂びた豪華さと言う矛盾した味わいは、華やかさとはかなさと、相反するものを抱いた桜の美をとらえて妖しいほどに魅力的だ。

  

<その皿にオマージュを捧げたくて、この春一枚の皿を作りました>

 さくらは今年もまた新しい花をつけてくれるだろう。変容と再生の輪の中を誰もが舞いながら遠ざかる。しかし紋様は回帰し、これからも活き続けて行くことだろう。

2007年2月19日

 

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