雑記帳  2003         トップにもどる

  2004


2003(H15)

12/20  植木組合の人事

 <祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す
  奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し>

 有名な平家物語の冒頭の一節は栄枯盛衰が世の常である事を説いている。
 鎌倉時代に書かれた物語の真理はその名文と共に今も輝きを失っていない。

 「Japan as Number One」と謳われ世界に冠としてその名を馳せた日本経済も今やすっかり
 その影を薄くしてバブル経済の後遺症に今尚悩み続けている。このバブル経済の崩壊が
 日本社会に及ぼした影響は計り知れない。それは単に金銭的損失や社会経済の構造上の
 変革を促すに留まらず、我々現代の日本人の意識や価値観を根底から揺さぶる地殻変動の
 激震が襲った事に他ならない。日本人は自信を失ったとよく言われるが、失敗を経て内攻する
 精神の美徳は未だ日本人が高い道徳観と倫理観を保持している証左とも言える。太平洋戦争に
 破れ国が焦土と化しても米国を恨むでもなく自らを省みて、それは長く日本人の精神的障害となり
 戦後日本の足枷として今尚国家から個人までその行動様式を無意識の内に制限している。
 しかし、何事も<過ぎたるは及ばざるが如し>で、下ばかり向いて萎縮し停滞しては何事も解決しない。
 単に思考を繰返すだけでも先は見えてこない。今成すべき事を信念を持って実行するしかない。

 師走も後半に入ったと言うに、植木組合の新しい役員がまだ決まらない。1ヶ月後には総会がある。
 野栄町植木生産組合も創立45年になるが当然ながら様々な紆余曲折を経て今日に到った。
 戦後の荒廃から立直り歴史的な高度経済成長が正に始まろうとする頃に産声を上げ、先人達の
 弛まぬ努力と労苦によって維持され発展を続けてきた。当初 山林苗生産者と植木生産者の15名
 程で出発しバブル経済華やかなりし頃は組合員が80人を越えるまでに成長した。

 青年部 婦人部が発足して家族ぐるみの組合となり、各種の部会を設立、研修会に親睦旅行
 植木見本園の設置、植木祭りの開催、植栽工事の請負まで様々なイベントと定例行事を抱えて
 千葉県下でも最有力の組合として自他ともに認める存在であった。

 一方でそれは各役員はもとより一般の組合員の実質的な負担も小さく無かった事を意味する。
 組合活動が活発であればあるほど役員は多忙となる。一般組合員は動員を余儀なくされる。家族的で
 親睦が深まれば深まるだけ義務感が増す。社会的に認知される存在となればその役割も期待される。
 組合の発展と共にそこに所属する人々もその利益の享受の代償として大きな責任を負荷するのである。

 組織は一旦動き出すと、その当初の目的とは別に勝手に一人歩きを始める。
 組織は組織の論理により動き始める。本来ならその組織を通してそこに所属する人々がその目的を
 達成する手段として存在するのがあるべき姿である。ところがその原則は次第に崩れ「まず組織有りき」
 が前提として誰もが当然視する様になると情勢は一変する事となる。そこに所属する人々のための
 組織がそこに所属する人々に対し如何に組織に貢献したかを問う様になる。

 それでも組織が発展途上の段階の時はまだ良い。内包する諸問題も顕著には表面化しない。
 しかし今日の経済情勢を反映して組合員個々の収益が大幅に落込み、それに反比例する形で多忙を
 極める中、植木組合への関与もその活動への関心も薄れてゆくのはやむを得ない必然と思われる。
 ましてや役員への就任ともなれば誰もが躊躇するのが普通である。組合長以下役員は全て名誉職的な
 存在で勿論無報酬である。責任の重大さと組合運営に割く時間的損失等を勘案すれば無理を承知でさえ
 役員への就任を強要し得ない。

 次期役員の人選が難航するのは今回に始まったことではない。これまでも幾度となく改選の度に
 現職役員や組合員有志を困窮させてきた組合運営の最も基本的な問題であるだけにその根本要因は
 組織のあり方をそしてその存廃をも問う極めて深刻なものに他ならない。
 今日的状況に陥るは、かなり以前から予測が出来た筈である。過去のその時々に必要で適切な改革を
 怠って来はしまいか。ただ単に前任者の先例に習い大過なくを旨として平穏な水面に一石を投じる事
 なくその任期と行事を消化するのみに汲々として来はしまいか。変化する時代背景と組合員の実状を
 把握し組織改革を断行してこそ執行部役員の本来の責務のはずである。

 野栄町植木生産組合も創立50周年が視野に入ってきた。実に半世紀である。
 ひとつの大きな節目に到達したことは事実である。来年4月には近隣市町との自治体合併が控えている。
 他自治体の植木組合との関係も懸念されるところである。何れにしても今一度初心に帰り自らを顧みて
 抜本的な改革を断行する事が焦眉の急である。それこそが現在進行する大変革の潮流の中で
 確たる進路を指し示し得る唯一の方策であると確信する

 

12/10  職人さんは今

 正月を前に、居間の障子の張替えを頼んでおいた。今日それが仕上って
 返って来た。町内の業者(建具屋)さんにお願いしたのだが、実はこちらから
 自発的に依頼したのではなかった。先日障子の張替えを奨める電話が
 あったのである。知合いの職人さんだったので話を聞くと、仕事が少なくて
 困っているとの事だった。それではとお願いしたのだが、田舎の職人さんが
 自ら営業活動をするのは今までにはまず考えられなかった事だ。

 大工さんにせよ左官屋さんにせよ、職人さんというのは多かれ少なかれ
 プライドの高い人達と言うのが通り相場だ。その職人さんからの勧誘だったので
 驚いたのだが、考えて見ればお客さんの注文を待っているだけでは
 やって行けない時代には違いない。私も外に出れば一応職人として通る人間なのだが
 自ら仕事を貰いに行くのは、やはり心情的に抵抗あるだろうなと察することが出来る。
 若い職人さんならともかく、筋金入りの年輩職人には辛いと言うより無念に違いない。

 何の仕事でも、職人と名のつく人達の活躍できる場が少なくなった。
 植木職人はどうか。
 実は、生産現場での職人さんはほぼ姿を消した。
 「生産現場での職人」とは、既製の植木を手入れする「手入れ職人」のことではない。
 原木とか野木とか荒木とか呼ばれる伸び放題になっているマツとかマキ、キャラ
 ツゲ、ヒイラギ等を枝付けする伝統的な造形術を身につけた職人さんの事だ。

 植木職人と言っても様々で、上記のような職人さんは主に植木栽培農家に依頼されて
 仕事をする。一方、個人邸の庭の植木の手入れを専門とする職人さんもいる。
 造園の一部門として働く植木職人さんも、公共緑化工事に携わる職人さんもいる。
 厳密な棲み分けはない。

 造形を得意とする職人さんは、現在かなりの年輩者となってしまった。若い人はこの道に
 入ってこないし、入って来ても事実上仕事が無い。造形樹は手間隙が大変掛かり採算が
 合わなくなってしまったので植木栽培農家などでは生産を止めてしまった所も多いからだ。

 この造形と言うワザ、一朝一夕に習得できるものではない。長い年期を要する。
 腕の良い職人になるには、カンとかセンスも重要でプラス 身体能力の高さも要求される。
 精神面では忍耐力や集中力、そして何よりも創造力の逞しい人間でないといけない。
 何か芸術家のような資質を求められるようだが、当らずしも遠からずだろう。

 植木の手入れや管理といったものは幾らでも融通のきくもので、極端に言えば誰にだって
 できるものだ。専門家に教えられずとも器用な人なら見よう見まねで覚えてしまう。
 多少のヘマをしても、自然がいくらでも元の状態に復元してくれるからだ。
 もっとも、プロの仕事と素人のそれは一目で判別がつくものだが。

 造形技術の場合はそうはいかない。プロとアマの差は歴然 一目瞭然だ。
 同じ職人でも、腕の良い職人とそうでない人との仕上りは素人目にも判然としている。
 技術力の差が一見で判断でき評価されるので厳しい世界だ。

 このような腕の良い職人さんも、今ではすっかり仕事が無くなり転向を余儀なくされた。
 個人邸の管理仕事に廻ったり、造園会社の下請けとして働いたり、本来の仕事で
 自分の腕を充分発揮できることのないような作業が中心の現場で働いている。
 あるいは、細々ながら自分の畑で造形樹の生産を続ける者も少なくない。

 植木に限らず、職人にとって仕事がないほど辛い事はあるまい。
 長い修行を経て一人前となり、ひたむきに技術の向上に励み、地道な努力を重ね
 孤独で緊張を強いられる作業に耐える毎日は、それでも己が社会に必要とされる存在で
 あることを認識できる確実な証なのである。

 

11/29  ワタナベさんのこと

 近所の植木農家でワタナベさんと言う方がいる。
 歳はもう70代後半で、腰は曲がってきてもまだ現役バリバリだ。
 50アールの植木畑を一人で管理している。

 家族の若い人達は公務員や会社員で農業は継いでいない。
 ワタナベさんも本来なら悠々自適で生活できるのだが
 そんな生活は性に合わないのか毎日畑で汗を流している。

 植木屋歴は長い。昭和30年代の半ばからなのでもう45年にもなる。
 一人で細々ながら地道に植木を栽培するスタイルを貫いている。
 バブル期も他の植木屋が栽培面積を拡大したり資本を投入して
 機械類を揃えたり、より利益幅の増大を見込んで大木の生産にシフトする中
 ワタナベさんだけは一貫して自分のスタイルを崩さなかった。

 栽培樹種は様々だが、カンツバキやモクセイそしてサザンカ等、主に
 公共緑化用の小物植木の生産をしていた。それらを造園屋さんや
 植木問屋さんに売るという販売方法だ。時には近くの植木市場に出荷したり
 もしていた。

 そのワタナベさんが昨年辺りから我家を時々訪れて、幾種類もの植木を
 少しずつ買って行くようになった。
 聞いて見ると、このところ自分の生産する植木がさっぱり売れなくなったと言う。
 何か別の種類、新しいものを作らなければ駄目だと気づいたと言う。そこで
 他所の畑を見て歩いて、これは良さそうだと思うものを選んで集めているとの事だ。
 時代というものは流石のワタナベさんをも動かす結果となった。

 1種類あたりの苗木を多量に買い求めて植え付ければ数年で勝負は着くが
 ワタナベさんの買って行くものは親木として養成するつもりの物で、つまり
 その木を大きく育ててから挿し木の穂を採ったり種子を採ったりする為の物だ。

 一体、後何年すれば目指す物が販売できる様になるというのだろう。
 下手をすれば10年もかかってしまう物も珍しくもない植物の世界だ。
 技術も経験も豊富なワタナベさんであっても大変な事であろうと思う。
 後継者が居てバトンタッチ出来るならそれも理解できるが・・・。
 80歳を前にして、未来に立ち向かおうとするこの強い姿勢は何なのかと
 思ってしまう。

 「たとえ地球の終末が明日であっても私は今日リンゴの木を植える」
 宗教家マルチン ルターの言葉を思い出すが、別にそんな
 かっこいい事ではなく、そうしたいからそうする。それがいいと思うから
 そうするのだと思う。決して頑固で融通のきかない方ではない。むしろ逆だ。
 人間の性とか生きる姿勢とかそんな硬いものではなく
 ワタナベさんはいつもふわっとしている。

 愛車の軽トラでワタナベさんは今日も畑に出る。
 体も痩せていて細いし、エネルギッシュなところはまるでない。
 でもきっと何処かに自分を前進させる強い力が働いているのだと思う。

 

11/5  廃タイヤの野積み

 曇りがちな天気だったが暖かくて、今頃の気候としては蒸暑かった。
 第4圃場で一日中植木を掘る作業をした。
 この畑には薮蚊が多い。11月に入ってもまだ蚊の発生がおさまらない。
 今日のような日には畑で作業する人間にしつこく付き纏う。

 この蚊の発生の原因はこの畑の南側に野積みされている廃タイヤに因るもので
 ある事は疑いない。この古タイヤに雨水が溜まりそこにボウフラが湧くことになる。
 この廃タイヤの数が半端ではない。何万本あるのか見当もつかない。(下写真)

廃タイヤ1 廃タイヤ2

 約2500uの畑に高さ3m近くの高さまで積み上げてある。
 管理者は近くのハウス野菜栽培農家で、冬場にハウスの暖房用に燃料として
 燃やしているようだ。
 が、しかし、それはごく一部であり実際は言訳に過ぎない。自家用としては量が多すぎて
 実際一冬の間に消費されるのは極僅かだ。

 この農家には古タイヤ運搬専用のトラックが2台あり、かなり遠くからも運んでくるらしい。
 要するに、廃棄物を引き取る業者もどきのことをしているようだ。もちろんお金を貰って
 引き取ってくるわけだ。

廃タイヤ3 蚊避け帽子

蚊の発生は5月頃から始まるのでほぼ半年この蚊に悩まされることになる。
他の圃場には殆どいないので、この第4圃場での作業は憂鬱だ。特に七月頃が最悪で
上の写真の右側に写っている蚊避けの網の付いた帽子を着用しての作業となる。

まったく迷惑な話だが、当の持ち主は到って平然としている。こちらが苦情を言っても
のらりくらりで馬耳東風。役場の環境担当者や保健所にも相談して改善を何度も要請したが
これも埒があかない。こちらが産業廃棄物だと言っても、相手に資源だと言われれば
見解も分かれる事になる。違法性が強いが、警察も自ら動こうとしない。告発があれば
やると言うのだが、同じ町内で同じ農家としてそこまではどうかということになる。

そうこうしているうちに当の農家は自己破産をしてしまった。
計画的かどうか知らないが、けっこう債務があったらしい。近隣の評判もあまり良くなかった。
農業の他に色々な仕事に手を出し失敗して来たと言う経緯がある。

さて、この古タイヤは今後どうなるのだろう。
夏場は藪蚊だけではなく悪臭も発生する。自然発火する心配もある。
行政は何か大事でも起きなければ自分からは何もしようとはしない。

 

8/22  前代未聞? 農業委員会が宴会場で採決

 農業委員会が納涼会の宴会前に、その宴会場で
 重要案件を審議し採決したとの事で町民の関心をよんでいる。

 8 月19日 野栄町役場会議室で農業委員会が開かれた。
 夕方6時に、予定されていた納涼会の宴会場のバスが迎えに来て
 委員会を閉会して宴会場に行った。
 しかし、再びその宴会場で委員会を開いたそうだ。
 
 そこでの審議案件というのは、大規模養鶏場建設に反対する周辺住民
 三百数十人の署名のある請願書の提出された田舎としては重要な
 案件で、審議の結果、養鶏業者の申請を認めたというもの。
 その宴会場には町役場職員2名も同行し議事録もあり合法だと言う。

 この極めて非常識で不透明なやり方に怒った反対派町民が
 議事録の閲覧を要請したが農業委員会事務局では
 まだ議事録が出来ていないと拒否、録音もしていないと言う。

 養鶏場の悪臭問題は全国的で珍しくもないが、それにしても
 千葉県知事に委嘱を受けた農業委員会が宴会場で開かれている事を
 堂本知事はご存知なのかと心配してしまいます。
 ブラックジョークであって欲しいと思いますが。

 

8/15  ディーゼル車排気ガス規制

 この10月1日より、東京 神奈川 埼玉 千葉の1都3県でディーゼル車排気ガス規制の
 条例が施行される。これに違反すると最高50万円の罰金が課せられる。(千葉)
 新車登録から7年を経過した車は排気ガス浄化装置を取り付ける義務を負う。

 この浄化装置がバカ高い。2t車クラスで60〜70万円、4t車クラスで100数十万円も
 するのだそうだ。この内、県が最高50%まで補助するとのことだ。
 この装置もまだ開発段階で完全な物ではないらしい。2年も使うと壊れたり著しく
 性能が落ちたりするらしいのだ。

 この条例には届出により指定地域内(都市部以外)に限って、新車登録後12年まで
 この浄化装置を取り付けずに運行できる例外処置をとっている。

 しかしながら、この規定にも納まらない、つまり新車登録後12年を経過した車両が
 以外と多いのが事実としてある。
 この不景気では買い替えたいが買えないというのが現実だ。

 植木屋の車はみな古い。
 この町の植木屋の6〜7割の車はこの例外規定にも入らない。
 因みに我家の車は18年だ。もうこのてになると、浄化装置は事実上取り付け不可能。
 取り付けたにしても莫大な金額が必要になるとの事だ。
 と言う事は、もう買い替えしかない事を意味する。遵法精神に則ればの話だが。

 植木屋の車にはクレーンを架装するのが一般的だ。大物植木の移動には欠かせない。
 この価格がまた高いので、車と合わせると2t車クラスで600万円、4t車クラスで
 800万円もする。
 この不景気に農家がこれだけの金額を投資するのは大変な事だ。
 植木がどんどん売れている時代だったらこの程度の金額はどうと言う事もなかった。
 今 植木屋は売上を半分に落している。先の見通しもたたない。
 このような状況で車一台にこれだけの金額をつぎ込むのは躊躇って当然の話。

 排気ガスの浄化装置がせめて2〜30万円だったら話は全く別の方向に行くが
 まだ技術的に不完全なものを、数年でだめになるかもしれないものを大金払って
 取り付けろという方に無理がある。
 行政側は半額補助するから取り付けろという。
 12年も過ぎた車に100数十万もかける人はいない。だいいち、車自体にそれだけの
 査定としての価値がない。その車より高いものを付けると言う矛盾と言うか
 何か変な感覚的抵抗がある。

 行政側が全額負担するというのであれば、これは納得のゆく話である。問題はない。
 都市部では排気ガスの人体に対する影響が深刻だ。CO2の問題もある。
 問題はこの条例の対象地が県下全域としたところ。私が住むこんな田舎にまで
 規制が及ぶ事に無理がありはしまいか。
 交通量は圧倒的に少ない。県道でも鳩や白鷺がのんびりしている。こちらが車で
 近づいても中々逃げてくれない。人間の方が慌ててブレーキを踏む構図だ。
 田舎では鳥たちが交通事故にあう光景をよく目にする。

 車の買い替えに躊躇する理由のもう一つは、今買い替えても7年後にはやはり
 浄化装置を取り付ける義務を負うことになる。装置自体の価格は下がる事が予想
 されても、規制がさらに強化される見通しで先行きが見えない。国の平成17年度
 排気ガス規制がさらにアップした時、ディーゼル車使用者は更なる負担を強いられは
 しまいかとの不安がある。

 もう少し待てば!・・・の期待もある。
 と言うのは、自動車会社では今新しいエンジンを開発中で排気ガス規制が強化
 されても、それに対応できる性能を有するものが出来るのではないかということ。
 さすれば、浄化装置の義務が無くなるとか、その猶予期間が延びる事が期待できる。
 今 慌てて買い替えるのは得策ではないと言う思いがある。

 そんなこんなで、仲間が集まれば話題は自然とこの規制のことになる。
 都市部に仕事の中心を持つ仲間は既に車を買い替えた人も何人かいる。
 7年を越え12年未満の車を持つものは地方だけでも運行出来るように県に「届け出」
 した者も多い。しかし圧倒的に「様子見」の人が多いようだ。

 先日のニュースでは、東京都でさえ10月1日から始まる規制に対応済みの車は
 まだ半数程度と報じられていた。
 中小の運送業者も泣いているところが多いと聞く。よくわかる話だ。死活問題だ。
 植木屋などはほんの一部のことであって、全体としてこの条例の影響は大きい。

 後は、行政側がどれだけ本腰を入れて「違反車」を取り締まるかだが
 当初は幾分厳しく対応しても、少し経てば地方では有名無実化してしまうのでは
 ないかとの憶測もある。今までもそのような例が幾つもあったからだ。

 我家の車も見た目は結構程度が良い。エンジンも快調だしまだまだ過酷な使用にも
 耐え得る。それなりの手入れもして来たし愛着もある。
 悩んだあげく、先日車検を更新した。自分も「様子見」の一人となった。

 

8/3  部落の茶飯(ちゃめし)

 午後から部落恒例の納涼会で海岸近くの宴会場へ行く。
 年に2回の集会のひとつで毎年8月の第1日曜日が当てられる。
 もう1回の集会は正月の三ヶ日過ぎの日曜日に新年会の形で行う。
 昔は季節々の農作業の節目に行われていたが、現在ではこの2回だけである。

 1月のものを<初茶飯>(はつちゃめし)と言った。書いて字のごとく、その年の
 最初に行う、お茶を飲んだり飯を食べたり・・・つまり宴会の事。
 8月のものを<八朔>(はさっく)と言った。これを辞書で引いて見ると
 <陰暦の八月一日。農家でその年の新しい穀物を摂り入れて祝いをする。>と
 書いてある。

 その他にも5月の<渋落し>(しぶおとし)があった。
 これは田植えが終わった時期に手や足に付いた田圃の渋を落す事を意味する。
 10月か11月頃に正規の名称は知らないが<ゲエロ供養>と言うのがあった。
 ゲエロとはカエルの訛った方言で、カエルが冬眠を始めた時期に人間は
 芋掘りをする。せっかく冬眠しているカエルを掘り起こしてしまう事になるので
 そのカエルを供養すると言う意味合いで行われる。

 この他にも幾つかあったように思う。
 何れにしても、何かと理屈をつけては飲み食いをする口実として続いてきたと思はれる。
 娯楽の少なかった昔の人々の生活の知恵でもあり地域の重要なコミュニケーションの場で
 もあった。会場は各家持ち回りでおこなっていた。

 私の所属するこの部落は現在17戸。小さな部落だ。
 昔はほとんどの家が農業で暮らしを経てていたが、現在では我家を含め専業農家は
 僅か4戸だけとなった。

 以前は農家の休日は毎月1日と15日の2回とする慣わしが多かった。
 茶飯もこの日を選んで行われてきたが、務め人が増加するにしたがって
 日曜日に行われる様になってきた。
 茶飯だけではなく、地域の祭事や催し物も日曜日に変更されて開催される。

 部落の重要な連帯儀式である冠婚葬祭は、今でも色濃く人々の精神構造に
 反映され共同体意識を育んでいるが、最近は葬儀まで業者経営の葬儀場で営むケースが
 少なからず出てきた。

 茶飯はもとより、地域の行事も形骸化が進む。
 この部落の4戸の専業農家もいつまで持つか、そう永くはないのが実状だ。
 しかし、この現実を憂うることもなければ、悲観することもないと私は思っている。
 作用があれば、必ず反作用がある。不足するものがあれば、必ずそれを満たそうと
 する力がはたらく。

 時代の潮流の行方は分からない。分からないが、新しい形の何かが生まれてくるのは
 確かだと思う。

 

5/15     モナリザ

 新緑が美しい季節となった。
 5月の爽やかな日の光に映える若葉も、しっとりと5月の雨に濡れる若葉も共に素晴らしい。

 あれは何十年前になるのだろう。
 世界の名画<モナリザ>が、東京上野の国立博物館に来た事があった。
 当時、地域の青年クラブに所属していた私はその仲間たちとマイクロバスを借りきって見に行った。
 季節もちょうど今頃、五月晴れの爽やかな日だった。

 会場の国立博物館周辺は長蛇の列ができていた。
 私達も並んだ。いったい何時間並んだのか、今では記憶にない。
 並木道の歩道を、国会の牛歩戦術よろしく、ひたすらのろのろ歩きを続けた。
 初夏を思わせる日差しで、新緑の街路樹の木陰と木漏れ日が心地よい。

 < 新緑やモナリザを見る人の列 >  そんな俳句を後日作ったが、捻りも何も無くそのままだ。

 植木屋のくせに、あの時の街路樹がなんの樹だったかぜんぜん覚えていない。
 ただ、国立博物館の前庭に大きなユリノキが威容を誇っていたのは忘れられない。
 あれがシンボルツリーだったのかは分からないが、妙に印象に残っている。
 <ユリノキ> 別名チューリップツリー 黄緑色のチューリップに似た花が咲くのでこの名がある。
 この時もたくさんの花が咲いていた。(チューリップに似た花なのに何故かユリの木^^)

 さて、肝心のモナリザだが、厳重な警備のもと、展示室の部屋の角近くに飾られてあった。
 絵の近くまで来ると「拝観者」は階段状に3段の列になり、いざ御対面となる。
 絵までの距離は5メートルほどあったろうか、以外と小さいなと感じた印象がある。
 何秒間見ることが出来ただろうか。立ち止まる事は許されなかった。牛歩国会そのものだ。

 分厚い防護ガラスの奥で、モナリザは微笑んでいた。
 教科書などで見たお馴染みの絵がそこに確かにあった。
 「オイ、わかったか?」 「ぜ〜んぜん わかんね!」 友人たちとの会話である。
 名画の中の名画と言われるその素晴らしさ、価値、それがわからない。

 無理もない。
 なにも絵画に特段の興味があって見に行ったのではない。
 そもそも、絵を鑑賞するなど高尚な趣味が田舎の青年達にあろうはずもなかった。
 世の中の話題性に敏感に反応する若者の習性に、素直に従っただけの行動だったのである。
 事実、隣の西洋美術館では、ルノワールだったかセザンヌだったかの特別展が同時に
 開催されていたが、そちらの方はまるで関心がなかった。

 では次に何処へ行ったかというと、上野動物園だった。
 お目当ては、パンダ。
 日中国交回復を記念して中国から贈られたパンダは、これも当時大変な話題だった。
 冷暖房完備のパンダ舎は、こちらも厚い防音ガラスに仕切られていた。
 残念ながらパンダ様はお昼寝をなさっていらっしゃって、ご尊顔を拝し奉ることあたわざり候?。

 その後どうしたかは、まるで記憶にない。きっとその辺をぶらついたのかもしれないし
 神田の青果市場を見学してきたのかもしれない。
 何れにしてもその日のシーンは5コマ程しか自分の脳裏にない。
 行列に並んだこと、ユリノキ、モナリザとの対面、パンダ舎、そして外人に10円取られた事。

 この10円事件、何と言う事はないのだけれど、一応書いておくと
 上野駅近くを歩いていると、リーフレットのような物を配っている外人がいた。
 中東系のほっそりした外人で歳は30前後。
 そばを通りかかると、さっとその印刷物を差し出した。なんかのPRだろうと受け取って
 過ぎようとしたら腕を捕まえて停められた。聞いた事もない外国語でべらべら捲し立てる。
 彼の手の中でじゃらじゃら音がしている。どうやら金を要求しているようだ。
 私は仕方なくズボンのポケットにあった硬貨を取りだし渡した。それが10円玉だった。
 彼は怒ったのかまたべらべらとこちらを非難するように捲し立てて、リーフレットを私の手から
 奪い返すとプイと振り向き行ってしまった。
 それだけの事だが、彼は何かのカンパでも集めていたのか。どうせろくなことではあるまい。
 金返せこの野郎!と言いたかったが、怖そうなお兄さんだったのでやめた。

 別に特別な1日という事でもなかった。若さとは唯それだけで楽しく美しい。
 金はなかったがぜんぜん苦にならなかった。将来に対する不安も現状への不満もあまりなかった。
 ただ輝くばかりの未来の存在を信じて疑うことがなかったからだ。

 5月の風に吹かれて、新緑は今も瑞々しい生命力を謳歌している。
 永遠の微笑と言われるモナリザは今も謎のほほえみを訪れる人々に見せているだらう。

 おしまい。
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