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以下は平成2年に刊行された「野栄町植木生産組合30年の歩み」からの抽出です。

 

              回 想      第4代組合長   及 川 保 司

                
        植木組合30周年に当り、役員の依頼により80歳の老人が回想を一筆申上げますので宜しく。
        初代組合長は野手の大木豊さんです。私は4代目です。44年当時の組合員は25名くらいと
       思います。県に植木連合会が出来た時は野栄を含めて8組合と思考されます。
        現在は組合長始め皆様の努力に依り県下にて屈指の植木組合に成り誠に喜ばしき事です。
        近年、町の中心地に植木見本園も造成され誠に感謝に堪えません。野栄町植木組合の名が
       各県下に響き渡った事でしょう。
        回想の一端を申しのべますと、組合家族慰安旅行の際、私が皆さんにセリ市の話をして場所が
       ないので困る、小学校校庭、また農協の庭を拝借してセリ市を開催しているが本当に不自由で
       困る,農協前北側の畑を借りたいと話した処、今泉の宇井佐太義さんが心配して下されて、面積
       13アールの市場が出来て何の不自由もなく開催する様になりました。宇井さんに御礼申上げます。
        セリ市は毎月8の日に開催されました。八日市場では春、秋2回でしたので当組合のセリ市に
       各地より集まり盛大に行われました。セリ子は蕪里の松正園ですが後年は老いたので伊藤芳郎
       さん梶ヶ谷さんにお願いしました。
        今泉浜に桑園が約200アール位あり蚕業試験場が東金市に移転になり、跡地所有者は東京の
       大野きよさんでした。熱田広司町長、農協越川組合長さんと一緒に上京して借地の話が決定した。
        其の後、再度千葉県庁の前の旅館で所有者と話し合い借地期限は3年との事でしたが、私が
       3年では困る、5年拝借したいと申して、お願いし5年間無償で拝借しましたが、大野さんがソテツ
       が欲しいとの事で私と佐瀬知三さんで東京まで株立ちソテツを届けました。其の後この土地を分割
       組合員に配分、集団植木団地が出来たわけです。
        県、町の援助により野手浜に育苗センターを作り、高橋さん他数名が生産に当たりました。
        48年県連共同出荷で仙台にて移動植木セリ市を開く事になり、野栄より越川恭充さん、佐瀬知三
       さんと2台出荷し、セリ子は梶ヶ谷さんが当り県植木農協の職員も事務に出張しました。其の後
       伊藤芳郎、佐瀬知三、高橋正の3氏と私とで2台出荷しました。相場は最初高値でしたが最後落ち
       ました。
        県連の共同出荷で北海道にもコンテナ1車送り相場は良好でした。宿泊は札幌市自治会館に指定
       され一泊二食1800円です。飛行機は1万円です。昔です安かったと思います。
        創立以来30年組合事業に尽くされた役員、組合員皆様の先見覧識は多大であり感謝の他ありま
       せん。組合の発展と皆様方の御多幸と健康を祈念して擱筆します。

          < 30余年益々栄ゆくだろう野栄町植木生産組合 >

 

        斯くしてレールは敷かれた  元組合会計  及 川 克 巳

       長い戦争が終わって昭和21年私は故郷に帰ってきた。広い大陸から3年ぶりで帰ってきた私の
      目に映ったのは、何とまあ故郷は田畑も道路もせまい事か。当時父母は私の不在の間現役で
      農業に精出し、細々と生活をしていた。「兄ちゃん、さつまいもが思わぬ金になったよ、又落花生が
      金になった、人参を作っても又以外に金になった。」と得々と話していた。当時は食料さえ作ってい
      れば、何を作っても金になった時代で、いはば百姓天国と言われた時代であったかもしれない。
       其の後私はまもなく今の妻と結婚して父母を予備役に、私達が現役で働く事になった。当時畑の
      作物といったら沖縄100号という澱粉甘藷だった。昭和30年頃迄はこの甘藷を作り他の作物などは
      何にも考えないで安定した生活が出来た。処が容易に作れる甘藷の生産が多くなって価格が他の
      物価の値上がりに追付けず、だんだん下がってきた。其の頃か、代議士の寺嶋先生が7ケタ農業
      をめざせと、講演して居た。そうした事がきっかけで甘藷の外にもいろいろなものを作り、多角経営
      をする農家がふえ甘藷依存から他作物へと研究心が旺盛になってきた。
       私は日本には、はげ山がたくさんあるという事をきいたので、妻が山林苗木屋の娘という事も
      あって山林苗木が半分、甘藷が半分の農家になった。最初は山林苗もよく売れたが、だんだん
      面積をふやすに随って価格が下がり、樹種によっては畑で燃やす様になった。其の頃たしか国会
      では、将来の日本は工業立国であるという方向を示し、この事によって所得倍増という事が盛んに
      論議された。今度は植木屋だと思っていた。そうした折、大木豊氏が植木組合を結成した。私も
      すぐにも会員になりたかったけれど区画整理が出来なければ私の家の畑では都合が悪いので
      しばしためらっていた。然しながら植木屋に志ざせる日が間もなく来た。農業人の殆どが賛成し
      今の様に広い道路、広い畑、真中に道路をつけて畑の奥まで大きい自動車が出入出来る様に
      なった。この区画整理によって現在の植木生産が多く出来る様になったと思う。
       いよいよ機は熟せり。ここでキャラ、槙、つげ等植栽したが、すぐには売り物にならない。そうした
      頃2代目組合長の大木正夫さんから植木組合の役員になって植木を覚えたらとすすめられ、組合の
      皆さんと共に先進地の視察に行った。その中で私の家のためになった事は、松戸の園芸大学の
      講堂で同大学の教授に将来の日本は工業立国であり、やがて公害問題が起きるので公害に強い
      木を作りなさいと言われ、早速作ったマテバシイは成長が早かった。資本がかからなかった。金に
      なった。こうしてこの研修をうけた事がきっかけとなって我が家の農業経営の進路がきまり、後継者
      に、か細くも2本のレールをひけた事、大変感謝して居ります。
       歴代の組合長さん皆さんに心から敬意を表します。あれから大分年が経過して現在では植木の
      需要も多様化した様です。どうか組合の皆さん今後とも皆さんで研修し努力し組合員相互の密接な
      連携をとりながら、植木村野栄の名を日本中に広めて下さい。拙文です。

 

        北海道共同出荷の思い出   元副組合長  大 川 泰 司

      植木組合創立30周年記念おめでとう御座います。過ぎ去った日時は早いもので、さる昭和51年に
     行いました第2回目の北海道共同出荷について記憶も薄れましたが、一寸述べて見たいと思います。
      昭和51年4月7日前日より集荷しました植木(出荷者10名)を北海道よりの帰り車を利用し共同
     出荷する事になりました。午前10時到着、早速荷積に着手。何にしても小物10t車満載なので、午後
     5時頃までかかってやっと終了しました。夕食後、及川組合長、浅野兄、私と4人で午後七時出発。
     夜道を北へ北へと走りました。道路標識を見ると、仙台350Kとか300Kとの標示ばかり、荷が重いの
     か車は時速40Kの安全運転なので、あと9時間かかるのかと思うとうんざりしました。
      翌8日正午過ぎ、一戸にて取締りがあるとの対向車からの合図。どの車からも同様の合図があり
     組合長始め運転手も困惑してしまいました。集荷の際、大雨があったので重量オーバーをして居る事
     を心配しながら一戸まで来ると、やはり取締りをやって居る。300M位手前のドライブインにて休憩し
     様子を見ることにした。運転手が徒歩にて現場を見に行って来たが、午後5時まで行うとの事。余裕を
     見て走って来たのだが、もう2時間余りを無駄にして居る。フェリーボートに乗る時間が足りない。困っ
     て居ると地元のダンプが迂回路があると案内してくれる。何せ迂回路なので対向車が乗用車でも先方
     が待ってくれる様な道路で本当にヒヤヒヤしました。
      やっと野辺地に到着したが、やはりフェリーボートは目の前を出発してしまい、仕方なく4時間余り次
     の便を待って眠りにつく。
      函館9日午前4時30分到着。早朝の為か肌寒い。9時頃朝食を摂り山中峠へ向う。道路の除雪を
     した為か、両側は3m以上もの雪で、さすが北海道だなあと感慨にふけりました。
      小樽を過ぎ12時札幌到着。2日の旅も終わり、さすがにホッとしました。
      昼食後、市場の方々も手伝ってくれて午後7時荷物降し終了。照会を済ませる。共同出荷混載の時
     は荷主別の目印が必要な事を痛感する。宿にて、帳簿に出荷者別の整理をしてから眠りに就く。
      翌10日午前8時市場に行くと、組合長の岳父の訃報に接し、組合長は浅野兄と千歳空港より急ぎ
     帰宅する。今後は10tの荷の責任が私一人に重々のしかかる。朝から小雪が降り出し一層気分が
     めいる。多古植木組合の前回の残荷が有り、其の後に野栄町の荷のセリが行われた。
      3割位競った時に雪もひどくなり、買う人も居なくなり、正午にてセリも終了。残荷は市場に託して
     帰宅致しました。本当に永い永い一日でした。

 

          大任を終えて     第10代組合長   大 木 森 幸

      59年春、地区理事に再選(留任)され、予期せぬ組合長の大任を仰せつかった。
      誰もなりてのない組合長ゆえ、やむを得ぬことであった。家族からは大反対されたが、引き受け
     た以上やるしかないと心にきめた。時あたかも植木産業低迷のどん底時代であった。来年こそは
     夜明けになるだろうと希望をつないでも、なかなか景気は良くならない時であり、組合員の皆さんも
     危機感を持ったのか、就任と同時に「組合長、なんとかしろ」と毎日の様に電話で活を入れられた。
      これはえらい物を引き受けた、と正直、後悔した。
      第一回目の役員会で、どう組合員の期待の答えるべきか協議した。及川重良氏の提案で、運営
     についてのアンケート調査をしようと決り、その結果で執行部はすべりだした。
      まず組合員の名簿作り、組合費未納者の整理から始まった。これについては伊藤康男氏の絶大
     な御尽力を見逃すことは出来ない。
      組合は家庭の延長と考え、青年部とのパイプを大切にし、その活動に助けられながら生産品の
     有利な販売PRを考え、見本園の設置等よちよち歩きをしている内、ヒョンな事から町当局の御好意
     によりNHKテレビで野栄の植木を生産から造園まで一貫して放映して下さる事になった。
      この取材については、現農業委員長、伊藤武夫氏には自らの選挙中(町議)にもかかわらず浦安
     の造園現場を始め各地取材に数日お骨折り頂き、頭の下がる思いであった。
      この放映がきっかけで望洋荘に於ける千葉県大会の放映又、八日市場農業改良普及所長 岩井
     とよ氏のお力で水田転作植木団地造成事業視察に県農林部長の来町の放映などと続き、一躍野栄
     の植木が脚光をあびる幸運に恵まれたのであった。
      その内世界経済も好景気となり植木産業も夜明けの到来で、なんとかすくわれ任期を務め終えた
     次第ですが、今に思えばいたらぬ自分が良くぞ務まったものだと冷汗をかく事の多い毎日であった。
      しかし常に役員はもとより、組合員皆さん又関係機関の方々から温かい御支援御忠告を頂き、其
     の為に大過なく任期をまっとう出来たこと感謝しています。
      格言に「一人の良き忠告者は百万の味方」とあります。まさに其の通りだと身をもって体験した4年
     間でありました。一人ではなにも出来ません。人という字のごとく支え合ってこそ事は成るものと思い
     ます。組合精神もそこにあると考えられます。
      今、日本中ゴルフ場ブームで緑化木の好況に恵まれ植木産業を謳歌していますが、喉元過ぎれば
     のことわざを忘れず相互協力、組合員一丸となって先輩各位が苦節30年、築き上げたこの野栄の
     植木の歴史を守り益々発展されますことを祈念しておわりと致します。

       < 過ぎ去りし日日のきびしさ触れあいは人の心の温もりに会う >

 

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