「waiwai隊」 愛媛県歴史文化博物館(愛媛県・西予市)・・伊予市・高見Ⅰ遺跡・・の旧石器
2020年9月12日

 全国各地の都道府県立博物館は、何処の博物館も大差はありません。勿論、それぞれに“売り”の部分があります。今まで訪れた博物館の中では、佐倉市にある国立歴史民俗博物館は、例外として、青森県立郷土館の展示には驚きました。
 それにしても、東北地方の先史文明の遺跡は、どこの県も期待を裏切りません。

 今年は、2月にフルムーンを利用して九州地方への遺跡・博物館巡りへ出掛ける事が出来ました。少し、タイミングが違えば出掛けることも叶わなかったのですが、そのうちの一つが2月2日の突然の父の死でした。

 そして二つ目が、当然、パンデミックの≪コロナ禍≫です。幸運にも九州を訪れた時期には、コロナの流行は及んでいませんでした。そして、≪go toキャンペーン≫が始まってやがて夏を過ぎ、各地の博物館が開館を始めたこともあって、この“企画展”を訪れることが出来たのでした。


≪愛媛県歴史文化博物館≫webサイトの紹介を下に引用します。

 今年3月21日に開通した松山自動車道中山スマートICの建設にあたっては、2017年1月~6月に埋蔵文化財の発掘調査が行われました。その結果、四国で最古級に位置づけられ、県内でも最大規模である後期旧石器時代(2.8~1.8万年前)の遺構・遺物が多数確認されました。このテーマ展では、伊予市高見Ⅰ遺跡2次調査の資料を中心に紹介します。四国に暮らした先人たちの足跡を感じていただければ幸いです。
 
【関連リンク先】愛媛県歴史文化博物館跡は 
 


 上掲のポスターの案内どおり、≪令和2年度テーマ展≫の開催初日に出向きました。尚、今回のテーマ展の≪高見Ⅰ遺跡≫については、当サイトでも【 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・伊予灘を望む旧石器集落痕 高見Ⅰ遺跡 2018年3月17日(土)】でも触れています。

 
 この博物館へ最初に訪れた際は休館日でした。そんな事もあって、何度も開館の確認をしました。松山からは自動車道を利用します。そして、今回のテーマ展の≪松山自動車道中山スマートIC開通記念≫の中山スマートICは伊予ICからトンネルを何個か抜けた山間の伊予灘を見渡せる場所に位置しています。(上の写真)
 前述の訪問の際は未だ工事中で、二年を経た今春(3月21日)開通したばかりです。

 駐車場には、沢山の車が停まっていました。愛媛県の博物館が県都・松山じゃなくてここ西予市にあるのは好ましい事でしょう。同じく、新居浜市にある総合博物館も県営です。
 一方、国立博物館も同様に地方に建てられていたら・・と思います。(現存の施設は東京、京都、奈良、大宰府にあり、国立歴史民俗博物館は、千葉県佐倉市にある))


 
 広い常設展示室から、階段を降りると大形の展示物が飾られているホールが広がっています。その一角にテーマ展や企画展の部屋があります。今日の目的の展示のテーマ展は真ん中のスペースでした。3人ほどの女性を男性が案内しているようでしたが、私たちも部屋に入って行きました。

壁面に掲げられている、パネルから以下に引用します。

ごあいさつ

本年3月21日に開通した松山自動車道中山スマートICの建設にあたっては、2017年1月~遺跡(埋蔵文化財)の発掘調査が行われました(高見Ⅰ遺跡2次調査)、その結果、四国で最古級に位置づけられ、県内でも最大規模である後期旧石器時代(2.8~1.8万年前)の遺構・遺物が多数確認されました。本展では、本遺跡の発掘調査成果を中心に後期旧石器次代の肱川流域の遺跡・遺物を紹介します。

 高見Ⅰ遺跡は、伊予市双海町の独立丘稜上に位置し、肱川の支流である中山川の最上流にあたり、遺跡周辺では、1990年以降、先学の調査(遺跡の発掘)によって、多くの旧石器時代の遺跡が確認されていました。1996年の松山自動車道建設に伴う発掘調査では、東峰遺跡第4地点、高見Ⅰ遺跡1次調査が行われ、遺跡の年代の基準となる姶良丹沢火山灰(AT/約2.6=2.9万年前に降灰)が検出され、ました。またその上下から石器が出土しています。今回の調査でもこのATが確認され、より多くの遺物とともに被熱が認められる礫のまとまりである礫群が出土しており、調理のための施設があったものと考えられます。

 今後のより詳細な研究により、この地に暮らした旧石器時代の人びとの誘導生活の様子が明らかになることが期待されます。本展を通じて、四国にいち早く暮らした人たちの足跡を感じていただければ幸いです。

2020年9月 愛媛県歴史文化博物館




Ⅰ 伊予市双海町東峰遺跡群の発見

 高見Ⅰ遺跡が位置する双海町東峰遺跡群では、1990年代から沖野新一氏(元中学校教諭・現愛媛考古学協会会員)により、今から約2万年前の「赤い旧石器」が発見されたことを端緒に研究が始まっている。

 この発見は偶然によるものであったが、沖野氏と家族はその後、休日を利用して足繁く、この地に通い、考古学的に空白地帯であった肱川流域において、多くの旧石器時代の遺物を表面採集し、新たな遺跡の発見に繋がることになった。沖野一家によるこの地の踏査が無ければ、本遺跡で発掘調査が行われることがなかったと言っても過言ではないであろう。


 上記のパネルを熟読している暇はありません。姶良カルデラ噴火は、南九州のはもとより、西日本各地に壊滅的な被害を及ぼしたとの大方の見方です。その時期には、瀬戸内海には海水の流入が及んでいません。この場所の標高は300m程度です。しかし、ツンドラの様相であったろう瀬戸内海から、わざわざ四国山地へと分け入った旧石器時代の人々の好奇心にも驚かされます。


 この遺跡で驚いたのは、後期旧石器時代と言われる時代から、縄文時代に至る遺物が見つかっている点です。勿論、1万年もの長期に生存していた祖先は居ない訳で、偶然にも、同じ場所へ分け入った先祖が居たという事になります。
 そしてそれは、生存に必要な何かが、この地域にあったからに他なりません。その一つが石器であることも容易に考えられます。



Ⅱ 後期旧石器時代とは

     -高見Ⅰ遺跡の時代背景-

 高見Ⅰ遺跡2次調査では、後期旧石器時代の遺構、遺物が確認されており、その出土層位から四国最古級の旧石器時代の遺跡と位置づけられている。それでは、後期旧石器時代とはどのような時代であったのであろうか。

 後期旧石器時代は気候区分では「氷河時代」に担当し、今より気温が年間平均気温で約7度低く、海面が低下し、瀬戸内海が陸化しており、本州・四国・九州はひとつの陸塊であったとされている。当時の森林は冷温帯落葉広葉樹林と呼ばれ、特に瀬戸内海地域は「ブナのない落葉樹と針葉樹の混合林」が広がっていたと考えられている。

 地質年代では後期更新世後半(12~1.17万年前)に位置づけられる。

≪壁面パネル≫



Ⅲ 瀬戸内海が陸地だった時代

     -後期更新世の動物たち-

 瀬戸内海の海底からは、ナウマンゾウやオオツノジカ、カトウキヨマサジカなどの大形獣の化石が引き揚げられている。これらの大形獣が旧石器時代の人々の狩猟対象であったかどうかは、近年、再検討すべき指摘が行われている。

 また、大洲市肱川町のカラ岩谷の石灰岩場からは、後期更新世の動物化石が採集されている。ニホンムカシジカやヤベオオツノジカ、タイリクオオカミなどの肱川流域の旧石器時代に生息していた哺乳類の化石も採集されている。

 陸続きであった瀬戸内海をナウマンゾウやニホンムカシジカやヤバオオツノジカなどの大形哺乳類が駆け巡っていたかどうかは確かではない。それ以外の中・小型哺乳類が狩猟の対象だったのかもしれない。



 以下に掲げた壁面のパネルの説明で、下図の右端は≪約2万年前の日本列島≫(太田陽子他2010「日本列島の地形学」より)の、大陸と陸続きとなり、瀬戸内海が海化していない状況を著わしています。
 続いてのパネルでは、≪瀬戸内海の沈水谷≫(堀信行1994「瀬戸内海海底の古地形」「瀬戸内技法とその時代」より)の古地図が掲げられています

 次に≪四国の遺跡分布と更新世化石の発見場所(沖野実氏作成)≫、≪ナウマンゾウ(『絶滅哺乳類図鑑』2002より)≫、≪ナウマンゾウの復元骨格(岩手県立博物館1996『野牛とその時代より』)≫のパネルが掲げられています。


 続いて壁面には、≪ヤベオオツノジカ(『絶滅哺乳類図鑑』2002より)≫左端には、≪オオツノジカ(『絶滅哺乳類図鑑』2002より)≫のパネルが展示しています。



≪壁面パネル≫
   



 壁面のパネルの下の陳列台には、各種化石が置かれています。主には今治市沖の海底から引き揚げられたナウマンゾウの化石ですが、オオツノジカやカトウキヨマサジカという名の大型哺乳類の化石も飾られています。

 下段にブルーのシートに置かれているのは、≪肱川流域で発見された哺乳類の化石≫が紹介されています。現在は絶滅しているシカやオオカミなどの哺乳類の化石です。


≪陳列台の展示≫
 
 

 
 
 展示の化石の中に『カトウキヨマサジカ』と名付けられた化石が飾られていました。相棒が『???』。
 一緒に見て廻っていた女性に名札を付けて何やら話しかけている男性(学芸員さん)にその事について尋ねます。その人は『こちらは専門で無いので、解りません。担当している学芸員さんに連絡しますので、待っていて下さい』との事。
 しばらくすると、学芸員さんが現われました。上記の名は熊本県で発見された『ムカシジカ』だそうで、ご当地にちなんで「カトウキヨマサ」の名を冠したとの事でした。




 壁面のパネルには、下に引用した≪Ⅳ 旧石器人の道具箱≫という解説文と、右写真の≪剥片尖頭器の分布(沖野実氏作成)≫のパネルが掲げられていて、陳列台には高見Ⅰ遺跡から発掘された石器類が並べられています。



Ⅳ 旧石器人の道具箱

 

旧石器人の道具箱には何が入っていたのでしょうか?

 高見Ⅰ遺跡2次調査では、総点数約5,000点もの遺物が出土し、その中で、後期旧石器時代の資料は約3,000点である。

 最も多いのは、狩りのための石器であるナイフ形石器と呼ばれる槍先が出土している。その他、尖頭器と呼ばれる槍先も出土している。皮なめしのためのスクレバー、石器を作るための礫石器など様々な石器が出土している。これらも石器は、当時に暮らした生業スタイルの様相を反映していると考えられる。


≪尖頭器やナイフ型石器など各種石器類≫









Ⅴ 旧石器人が暮らした跡

     -ブロック・礫群・接合資料-

 旧石器時代の遺跡では、住居といわれる遺構が発見されることはほとんどなく、当時の人びとは、一か所に定住するのではなく、数か所の居住地を見つけては一週間から数週間で移動する「遊動」生活をしていたと考えられている。しかし、ブロックや礫群、接合資料など、当時の人びとが暮らした痕跡を探ることができる遺跡や遺物が見つかっている。

ブロック―石器が集中して分布する地点のこと、旧石器人が石器を作ったり、獲物を解体し、不要になった石器をまとめて捨てたりした場所と考えられる。遺跡があまり乱されていない状況は、旧石器人たちがあまり長く滞在しなかったことを示すものであろうか高見Ⅰ遺跡では1次調査で2箇所、2次調査で38箇所の計40箇所のブロックが確認されている。

礫群―高見Ⅰ遺跡では、55基の礫群が確認されている。礫群とは、こぶし大の礫が集中して発見される遺構で、火をうけてぼろぼろになっているものもある。これは焼石調理法の一つで石を熱し、そこに肉などを入れて蒸し焼きにする調理が行われていたことが想像される。高見Ⅰ遺跡では、「唐崎マイロナイト」というこの遺跡の周辺で算出する特殊な断層岩が用いられている。



 陳列台には、ブロック毎に石器類が陳列されています。その中に『赤色珪質岩』という種類の石器があります。この石器については、愛媛新聞(9月12日付け)の≪えひめの歴史文化モノ語り(専門学芸員・富田尚夫)≫の記事で事前に知識だけは入手して知っていました。以下に一部を抜き出します。

 一番驚いたのは遺物の出土量で、約5千点の遺物が出土した。うち後期旧石器時代に属する遺物は約3900点を数え、それまでに県内で確認されていた同時代の遺物をはるかに上回った。またその石材は約25㌔離れた肱川流域の神南山(かんなんざん)で産出する赤色珪質岩が主体を占めていることが注目される。

 と、紹介されています。この時期(石器こそ唯一の道具の時代)どこへ行けばどのような石が採れるかは、死活問題だった筈。そんな生活は、縄文時代が始まるまで続いていたのです。つまり、縄文時代という集落を作って定住生活を送ることによって、大陸から隔絶されてしまった日本列島に、縄文文化という新たな文化が花開くことになりました。

 話が横に逸れましたが、上記、ブロックが多数発見されたことから、この地点に何らの理由があって留まっていた事が推測されます。それは、何万年後かに縄文人が利用していることから、偶然ではないことが云えます。

 壁面には≪礫群分布図≫や≪高見Ⅰ遺跡2次調査時写真≫及び≪礫群11の検出状況≫なのの写真パネルが飾られています。

 
≪高見Ⅰ遺跡の各種分布図≫
  
ブロック 

ブロック14出土遺物≫ ≪ブロック12出土遺物≫

 


ブロック18出土遺物≫ ≪ブロック16出土遺物≫

 


≪ブロック25出土遺物≫



≪礫群≫

≪礫群48出土遺物≫

 


≪礫群11出土遺物≫


≪結合資料≫ 
 


結合資料―互いに結合する石器の一群高見Ⅰ遺跡では、約70点の結合資料が確認されている。石器製作時の空間分析や石器製作作業に関わる多くの問題が提供される資料。







Ⅵ 遺跡を科学する

火山灰分析

 後期更新世以降に形成された地層や土壌の中には、九州地方などの火山に由来するテフラ(火山灰)が分布しており、発掘調査現場で採取した試料を分析(テフラ組成成分・火山ガラス及び鉱物の屈折率測定)することにより、火山灰の検出同定を行い、土層の層位や年代に関する資料を収集することが可能である。

 高見Ⅰ遺跡2次調査で実施された分析では、南九州の姶良カルデラから噴出した姶良Tn火山灰(AT)が同遺跡のⅡ層下部で確認されている。この火山灰は近年では約2.8~3万年前に噴出されたとされており、本遺構の年代を推定する上で重要な成果である。


 
 前稿でも触れましたが、ここ高見Ⅰ遺跡の年代を特定する上記の分析は、大規模なカルデラ噴火を前後して、この地に足跡を残しているというロマン溢れる痕跡です。瀬戸内海に海水が流入する以前の足跡と、瀬戸内海が海化して以降の縄文の遺跡が残されていたのです。



Ⅶ 愛媛の旧石器時代の遺跡
 宝ヶ口Ⅰ遺跡



 東峰遺跡才4地点



③ 高見Ⅰ遺跡1次調査



④ 水戸森遺跡





Ⅷ 赤石を求めた狩人たち

 肱川流域の旧石器時代の石材として赤色珪質岩(赤石)の存在が、近年の発掘調査によって注目されている。この石材は内子町五十崎から大洲市にかけて所在する神南山(かんなんざん)で算出することが、沖野新一氏らの研究によって明らかにされている。高見Ⅰ遺跡においても、使用されている石材の大半はこの赤石である。高見Ⅰ遺跡に暮らした旧石器時代の人々はどのようにして、25km離れた赤石が石器製作に欠かせないことを気付いたのであろうか?当時の人びとにとって石器石材資源としての赤色珪質岩は大変重要なものであったといえる。
















 
 まず最初にお断りしておく事があります。ここ、愛媛県歴史文化博物館の紹介自体は、今回で何回目かになります。しかし、常設展示場については、本サイトで取り上げていませんでした。
 その理由については、小生が目的として全国を回っている≪縄文時代≫の展示が少なく、わざわざ取り上げる必要が“ありやなしや”と考えるからです。そしてもう一つは、写真撮影自体を許可していないのではないか?という点です。
 そして、展示遺物の中で≪複製品≫が多数を占めている点です。

 今日は昼過ぎに自宅を出発した関係で、15時前の入館でした。入場口を入ると、丁度、幼稚園児のような幼い子らが、先生らしき女性に導かれて出てきたところでした。『あんな小さな子らがおとなしく見学できるんだろうか?』と、相棒に囁いたのでした。



 歴史展示館
≪えひめのあけぼの≫

≪愛媛県歴史文化博物館≫のwebサイトの紹介を下記に引用します。

 瀬戸内海がまだ陸地であった旧石器時代から、藤原純友の乱が起こった平安時代までの愛媛に住んだ人々のくらしを、県内各地の遺跡や出土品などにより紹介します。


 前述のとおり、ここ常設展示室は2Fの[歴史展示ゾーン]の≪歴史展示室[1](えひめのあけぼの)≫→≪歴史展示室[2](中世武家屋敷社会下の伊予)≫→≪歴史展示室[3](幕藩体制下の伊予)≫→≪歴史展示室[4](愛媛県の誕生と歩み)≫と展示されています。


【旧石器時代】

 最初に紹介する石器類は、和口遺跡(愛南町)の遺物です。左写真は

≪やり先に付けたり、動物の皮をはぐのに使用された石器≫
(国富型ナイフ形石器)
後期旧石器時代 頁岩

 大阪府国富遺跡出土資料を様式とするナイフ形石器で、大阪平野周辺から瀬戸内地方で、約2万年前に大流行した。翼状剥片を素材として、整形剥離する「瀬戸内技法」という政策技術で製作された。
 本遺跡では、木村氏によって約250点が資料化・報告されている。




 下写真は加工前の≪石核≫。

 
 

 
愛媛県最古の人々は、現在は海となってしまった瀬戸内海で遊動生活をしていたか?



【縄文時代】

 縄文時代の展示は、愛媛県の場合はやはり『上黒岩岩陰遺跡』の紹介から始まります。
 入館の時間が3時前とあって、もう展示室には人の気配がありません。小生の興味は『先史時代(以前は、原始時代表されていたが、現在はこう表す)』に限っていて、それ以降の展示物にはさほど興味はありません。

 そして以下に紹介する遺物は、いずれも上黒岩岩陰遺跡の遺物なのですが、『複製品』と書かれています。

 
   【線刻礫(縄文のビーナス)】

  【愛媛県で最古の土器片】    【有舌尖頭器】
 


     【各種装身具】

  
 
    

 上写真は、≪土偶≫、≪把手状木製品≫、≪木偶≫、≪陰陽物≫でいずれも松山市・船ヶ谷遺跡(縄文時代晩期)の遺物の複製品です。


 



 縄文時代のコ-ナーが終われば、≪弥生時代≫の展示(右写真)へと続きます。

 写真は以下、歴史展示室[2](中世武家屋敷社会下の伊予)≫→≪歴史展示室[3](幕藩体制下の伊予)≫→≪歴史展示室[4](愛媛県の誕生と歩み)≫への展示ですが、割愛します。


 
 
 以上、常設展示場の2階展示場(歴史展示室[1]~【4】)を紹介しました。この先1階へと階段を降りると、民俗展示ゾーンとなります。博物館のホームページには

民俗展示室【1】(愛媛の民俗・祭りと芸能):愛媛の民俗に関する情報を提供するとともに、愛媛県内の多彩な祭りや芸能を、実物の山車やみこし、色とりどりの衣装とともに、臨場感あふれる映像などにより紹介します。

民俗展示室【2】(愛媛のくらし):昭和初期の愛媛の「海」「里」「山」における人々のくらしを、原寸復元した民家やさまざまな生活用具、集落の模型などにより紹介します。

民俗展示室【3】(四国遍路):四国遍路の歴史や民俗を、遍路道標や案内記などの出版物、遍路の装束とともに、工房大師にまつわる伝説や八十八ケ所の札所の映像などにより紹介します。


 そして、特別展として、「戦国乱世の伊予と城−国史跡 能島城・湯築城・河後森城の世界−」は、次週の9月19日から開催されることとなっています。また、「戦後75年 伝えたい10代の記憶」が文書展示室で開催されていて、今回のメインで紹介した『テーマ展』の「伊予市高見Ⅰ遺跡とその時代ー四国最古級の旧石器時代遺跡ー」は、隣の部屋で展示されていました。