縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 新谷古新谷遺跡の調査・・調査員 石貫弘康

2018年1月13日(土)

 昨年12月16日の「瀬戸内地域の旧石器人の暮らし」につづいての、松山市考古館の講義が開催されました。上記“新谷古新谷(にやこにや)”遺跡を目にした際、なんて読むのと、不思議に感じたものでした。その遺跡のある場所は今治市で、小生も2015年に『四国のみち』歩きの際に踏破した道のすぐ傍に遺跡が位置していたようです。
 また、新谷地区の新谷赤田遺跡や新谷盛ノ前遺跡と連なる遺跡で、それらに続いての発掘とのことでした。右図のパンフには以下の前書きがあります。


 
いにしえのえひめは、公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センターが、前年度に愛媛県内で発掘調査した遺跡の写真や出土品を紹介する展示会です。今回は今治市新谷で建設中の高速道路(今治道路)において発掘調査を行った新谷古新谷遺跡と、伊予市双海町上灘の中山スマートインターチェンジ建設予定地において発掘調査を行った高見T遺跡を特集します。
 新谷古新谷遺跡ではおもに弥生時代後期(2〜3世紀頃)と古墳時代後期(6世紀頃)の生活跡や川の跡を発見し、おびただしい数の土器や琴を始めとする多種多様な木製品が出土しています。
 高見T遺跡では、県内では珍しい旧石器時代(2〜3万年前頃)の生活跡を発見し、5千点を超える石器類が出土しています。



 ここで紹介されている後述の遺跡の『高見T遺跡』については、昨年暮れに講義の様子も紹介済です。コチラから  

 
いにしえのえひめ

    ごあいさつ

 『古代いよ発掘まつり』は平成24年度からスタートした事業で、松山市と愛媛県が連携し、県市の教育委員会のご協力を得て開催しているものです。
 その事業の一環として、「掘ったぞな松山2017」では7月から11月までの期間、松山市内の遺跡を紹介しましたが、11月17日からは「いにしえのえひめ」と題し、愛媛県埋蔵文化財センターが今治市において発掘調査した新谷古新谷遺跡と伊予市において発掘調査した高見T遺跡の出土品を紹介します。
 この展示会において、土器や石器などの出土品をとおして古代の人々の暮らしに想いをはせ、郷土の歴史に関心をもっていただければ幸いです。
 最後に、本展示会の開催にあたり、ご指導、ご協力を賜りました方々に心より深く感謝申し上げます。


 平成29年11月

               公益財団法人 愛媛県埋蔵文化財センター
               公益財団法人 松山市文化・スポーツ振興財団
                  埋蔵文化財センター(松山市考古館)



  
 前回と同様、考古館の2階の会場へ入りました。参加者も前回とあまり変わりなく30名程度でしょう。講演は時間通りに始まりました。レジメには遺跡の地図や遺物の発掘状況などが示されていました。以下にレジメを抜き出します。


   新谷古新谷遺跡の調査

         (公財)愛媛県埋蔵文化財センター 調査員 石貫弘康


新谷古新谷遺跡の概要
 新谷古新谷遺跡は今治平野南東部の今治市新谷に所在する。地理的区分では五十嵐丘陵地帯に当たり、西側の山地からヤツデ状に伸びる丘陵裾部とその間にある谷からなる起伏に富んだ地形環境に立地する。
 平成28年度の調査は平成28年4月11日から開始し、平成29年3月24日まで行った。調査面積は19,380uで、町さ原因は一般国道196号今治道路建設による。新谷古新谷遺跡は調査の都合上1区から5区に区分した。

1区
 1区は昨年度に引き続きの調査で、今年度は竪穴建物8棟、土坑11基、柱穴約57基、溝約30条、不明遺構約6基を確認した。主な遺構としては弥生時代前期末から中期初頭のSX08,弥生時代後期後半のSI09・Si13、古墳時代後期のSD13が挙げられる。

2区
 2区も昨年度に引き続きの調査で、今年度は竪穴建物7棟、掘立柱建物13棟、土坑12基、柱穴約800基、溝約60条、不明遺構6基を検出した。調査区の中心部は浅い谷となっており、谷部には遺構面があり、上層が古墳時代後期、中・下層が弥生時代後期であった。主な遺構としては弥生時代後期の鍛冶炉を伴う竪穴建物SI12・SI13と竪穴建物群の間を流れる溝SD14が挙げられる。

3区
 3区は竪穴建物9棟、掘立柱建物1棟、井戸1基、柱穴220基、溝25条、不明遺構1基を検出した。主な遺構としては古墳時代後期の竪穴建物と弥生時代後期の竪穴建物である。

4区
 4区は1・2区から続く丘陵部とその南側の谷部からなる。丘陵部では竪穴建物6棟、掘立柱建物1棟、土坑4基、柱穴580基、不明遺構1基を検出した。古墳時代後期の層位では木製品や須恵器などが出土した。中でも注目されるのが木製の琴である。弥生時代後期の層位でも木製品や土器などが出土した。

5区
 5区は4区谷部と愛美側の谷部に挟まれた細長い丘陵部である。主な遺構としては竪穴建物25棟、掘立柱建物3棟、土坑14基、溝11条、柱穴約170基、不明遺構1基を検出した。



 以上の各区分毎に分けての発掘状況の報告がありました。そんな中でやはり興味を憶えたのが4区で発掘された『木製の琴』でした。その琴は、ほとんど復元される程の部材が発掘されたばかりか、その製作手順までもが復元された貴重なものだという事でした。
 “琴”については、縄文遺跡からも発掘されているようで、祭祀などを行う際に奏でられていたと想像されているようです。


 

≪特別展示室≫
 

 

 

 

 

≪新谷古新谷遺跡出土の琴≫
 4区の谷に堆積した土層から出土しました。
 共鳴器として槽を備えた、槽つくりの琴です。愛媛県内では今までに、琴の可能性が考えられる資料が2、3点出土していますが、はっきり琴とわかるものとしては初めての出土です。一部が破損していますが、完全に近い形で出土していて、全国的にも稀有な例と言えます。
古代において琴は単なる楽器ではなく、祭祀の時にかき鳴らされる祭祀具と考えられています。
 

 この『いにしえのえひめ』企画は、愛媛県埋蔵文化財センターと、松山市文化・スポーツ振興財団 埋蔵文化財センターの松山市考古館による企画です。平成28年度には『愛媛県・松山市連携事業「古代いよ発掘まつり」』として、≪今治市新谷石ヶ谷古墳群・新谷赤田遺跡発掘調査速報展≫が催されています。以下に、昨年(平成28年)度の資料を引用します。




≪新谷赤田遺跡≫

 新谷赤田遺跡は今治平野南東部の山麓に営まれた弥生時代から古墳時代後期にかけての集落跡です。小高い丘の上に竪穴建物(住居)や掘立柱建物(倉庫)が広がっています。居住域の西には深い谷があって、地形的に分断されています。
 調査した範囲からは竪穴建物34棟、掘立柱建物20棟、土坑10基、溝18条などが発見されています。なかでも、弥生時代中期末〜後期初頭(約1,900年前)のt6当て孔建物(SD04)の中央部では鍛冶を行ったと考えられる施設が発見されて注目されます。この遺跡はごく浅い窪みで、底面は高熱を受けて赤色に変色して硬く焼き締り、その回りには焼土や炭が堆積していました。それらの堆積物からは鉄滓や鉄製品などが出土しています。こうした遺構はSI04以外にも2棟の竪穴建物(SI33・34)からも発見されていて、新谷赤田遺跡の集落では当時の最先端技術であった鍛冶を行い鉄製品を生産していたようすがうかがえます。また、鍛冶を行っていた竪穴建物からは必ずガラス小玉が出土しますので、鍛冶とガラス小玉には何らかの関係があるのではないかと考えられます。
 古墳時代後期(約1500〜1400年前)の竪穴建物はいずれも平面四角形の四本柱構造で、北面に造り付けカマドを備えています。新谷赤田遺跡の南東に広がる新谷森ノ前遺跡や北西の新谷古新谷遺跡でも同時期の集落が見つかっていますので、新谷一帯には相当な規模のムラが存在していたと考えられます。


 以下、≪新谷石ヶ谷古墳群≫については、省略します。下図は、2・3ページの遺跡発掘状況。



 以下に平成28年度の現地説明会資料を抜粋します。



 愛媛県今治市                       平成28年8月6日(土)
                                現地説明会資料


               にやこにやいせき
             ≪新谷赤田遺跡2次≫

 事業名  一般国道196号今治道路開通埋蔵文化財調査
 委託者  愛媛県(事業主体:国土交通省四国地方整備局)
 調査主体 交易財団法人愛媛県埋蔵文化財センター
 調査場所 今治市新谷
 調査期間 平成28年4月11日〜平成29年3月31日(予定)
 調査面積 全体:23,030u


 昨年12月から調査を開始した新谷古新谷遺跡は、弥生時代から中世までの複合遺跡です。
 遺跡は、平地や丘陵、谷など起伏にとんだ地形です。現在調査を行っている1〜3・5区は平地部と丘陵部にあたり。弥生時代後期と古墳時代後期の集落がみつかりました。
 特に弥生時代後期の集落は、広範囲に広がっており、多数の竪穴建物群やその間を走る溝、掘立柱建物、壺棺墓などで構成され、土器や石器以外にガラス玉も出土しました。丘陵部(5区)では、竪穴建物と溝が確認できました。



 上記資料は、以下、出土の状況や出土遺物などの様子が紹介されています。その説明会の様子が紹介されています。  コチラから  
 その現地説明会資料については、コチラから  


 


 小生の興味は、もっぱら縄文文化にこそあります。そんな中、愛媛県下の弥生遺跡の発掘で、興味深い遺物が発見されることにも驚かされます。上述の“琴”についても同様なのです。この遺跡の時代は、弥生時代に続く古墳時代後期との事ですが、その頃には中国との間で交流があっていたようで、当時の日本列島の様子が『三国志』中の魏志倭人伝に記されているのが、歴史上に現れた日本だったのです。

 この頃は既に“クニ”の形態を整えていたものと考えます。この“卑弥呼”の時代を経て、仏教の伝来→遣隋使→遣唐使などを経て武士の時代へと変わって行ったのでした。