縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 瀬戸内地域の旧石器人の暮らし・・講師:氏家敏之

2017年12月16日(土)

 12月9日の毎年の恒例の忘年会の際に、徳島県立埋蔵文化財センターに寄った際に、右のポスターを目にしました。尚、同館の氏家氏の講演については、事前に新聞報道を見ていましたので参加は予定していました。

 ポスターの≪いにしえの えひめ≫は、11月17日〜1月14日の日程で松山市考古館で開催されているそうで、2017年に発掘調査が行われた、「高見T遺跡」や「新谷古新谷(にやこにや)遺跡」の出土品が展示されています。こちらは改めて出掛けることとなります。


 高見T遺跡については、

 『肱川支流の中山川の上流域の兵陵状に営まれた旧石器時代の遺跡です』との紹介されています。また、その場所は松山自動車道の旧中山町の近郊の『スマートIC建設予定地』の工事に伴って、掘り出されたのだそうです。


 新谷古新谷遺跡は、

 『今治平野南西部に位置し、遺跡は兵陵と谷が交互に入り組んだ場所に営まれています』と紹介され、現場は国道196号線のバイパス工事に伴って、発掘されたものだそうです。
 
 氏家氏の講義は≪瀬戸内地域の旧石器人の暮らし≫の表題で、いつもの講演と同じくプロジェクターを使っての講演でした。以下に戴いたレジメの概要を記します。



≪瀬戸内地域の旧石器人の暮らし≫

(1)「旧石器人」とは?

●人類が誕生した最初の時代のことを指しているが、これまで日本ではさまざまな名称でよばれてきている(第1図)

●時代名称の使用経緯と長所・短所(第2図)
@「旧石器時代」

A「先土器時代」

B「岩宿時代」

●時代名称をどのように考えるか?
@日本史としてとらえるならば・・・

A世界史としてとらえるならば・・・



 
さて、旧石器時代から新石器時代へと移行して行った歴史の中、日本列島では世界に先駆けて縄文文化が花開きました。その先進的な文化の契機については、ここでは省きますが、以下に≪Wikipedia≫から新石器時代について引用します。


新石器時代】

新石器時代(しんせっきじだい)は、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。新石器時代は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始され、銅器時代もしくは青銅器時代に、また地域によっては直接鉄器時代に入り、治金述の成立によって金属による道具が広まったときに終了した。ただし、生産段階と道具が対応しない地域も存在する。

この時代には主に磨製石器が使用されるようになったが、打製石器の使用も継続している。



 つまり、旧石器時代には、大概、打製石器を使用していたということです。



 


(2)日本最古の時代(遺跡)を探る流れ

●日本最古の時代の研究はどのように進められてきたのか?(第3図)
@神話から原始の世界へ(明治時代以降)(第4図)
 〇記紀の伝承知識から、発掘調査による科学的な解明へ → モースの大森貝塚の発掘調査
  ただし、神話に基づいた天孫民族の征服による建国史観は維持されていたため、列島における先住民族は何者かを解明することが目的となる。
    *坪井正五郎・・・コロボックル説
    *鳥居龍蔵・・・アイヌ説 など

A化石人骨を追いかける(大正〜昭和前半)(第5図)

B最古の道具(石器)の発見と追及(昭和後半〜現在)

 明治以降、欧米からの新しい学問が入ってきました。その中に進化論などとともに、開国した日本列島へ学者などが次々と訪日しました。その中には、モースのように日本に人類学や考古学の礎を根付かせる人々も訪れていたのでした。
 東京帝国大学で教鞭をとり、後の日本での考古学者や民俗学者を輩出することとなったのですが、第二次世界大戦が終えるまで、天皇の祖先が日本を創ったという皇国史観が信奉されていたため、長らく、先祖の解明には障害となっていたようです。

注:「記紀」とは、古事記及び日本書紀の事。




(3)氷河期と旧石器時代

●日本列島に人類が暮らすようになったのは、約4万年前頃のことである。その頃の地球は現在とは異なった環境下にあった。
@気候(第8図)
 〇ボーリング調査による過去の気候復元
  氷河(総面積5km2以上の氷塊)が大陸の多くを覆っていた時期を解明→最も新しい氷河期は「ヴェルム氷河」(約7万年〜1万5千年前)
 〇旧石器時代=氷河時期である
 ★全期間にわたって寒冷な気候が続いたわけではなく、気候の上下が繰り返されていた。→最も寒い時期で平均気温が現在より、マイナス9度、暖かい時期だとマイナス4度と考えられている

A地形(第9図)

B植生(第9図)

C動物(第10図)


 




 8図に示す如く、4万年前から最寒冷期の2万年前にかけて、日本列島は寒冷となって行きます。当然の如く、9図のように、地形や植生も現在のような姿とは遠く、海面も130mも低下して行ったとのことで、日本海への海流の流入も無く、瀬戸内海も広大な湿地であっただろうと、いわれています。それは、瀬戸内海の底引き網にとらえられたナウマンゾウなどの骨からも証明されているのです。


 旧石器の晩期に、急激な気温の上昇によって覆っていた巨大な氷が解け始め、それによる海水面の上昇により、瀬戸内海にも海水が流入し、閉ざされていた日本海にも2万年後には親潮や対馬暖流と呼ばれる暖流が流れ込むこととなりました。もちろんそれらの変化は、この時代の旧石器人には考えられない季節を迎えることとなるのです。


 日本海へ流れ込む潮流など【過去1万年間の北陸沖海水温の高精度復元】  コチラから 


(4)瀬戸内地域の遺跡

●瀬戸内地域では群馬県岩宿遺跡(1949年)の発見から5年後に発見された香川県井島遺跡の発掘調査以後、現在まで多くの遺跡が見つかってきている(第11図)
*発見された遺跡の数
  徳島 63 香川 86 愛媛135 高知 33
  岡山 243 広島 133 (2010年調べ)

@遺跡分布の偏りの原因
 〇見付けやすい地形かどうか
 〇旧石器時代に興味を持つ研究者の数
 〇土地開発の偏り

A遺跡分布の特徴(第12〜14図)
 〇島の周辺 → 平坦な尾根筋の拡がる島
  備讃瀬戸地域 芸予諸島東部地域 など
  代表的な遺跡 井島遺跡、羽佐島遺跡、花見山遺跡(香川)、金ヶ崎遺跡(愛媛)
 〇川の周辺 → 河岸段丘の発達した地点
  徳島県吉野川流域 愛媛県中山川流域 肱川流域 など
  代表的な遺跡 日吉谷遺跡、坊僧遺跡(徳島)、宝ヶ口T遺跡、高見T遺跡(愛媛)
 〇石材産地の周囲 → サヌカイト採取地点
  香川県五色台周辺地域
  代表的な遺跡 国分台遺跡、中間西井坪遺跡(香川)
 


 まず瀬戸内地域に限定しての遺跡という事では、2万年を超える時代の事。その時期、瀬戸内海は海では無かったという事です。その海では無い場所に住んでいた形跡を、海になってしまった今、見付けるのは大変な事でしょう。東京や大阪など、都市部では、四国などとは違って開発の規模が違っています。

 例えば、香川県や愛媛県の旧石器時代の遺跡の発見は本四架橋や四国山地の裾を縫う高速道路の建設に伴う工事などの際に発見、発掘されています。そこは、「何故、こんな山中に」というような山の中で発見されています。徳島県の場合も同様に、阿讃山地の裾の吉野川左岸沿いで見つかっています。四国では、里山から四国山地の山深くまで植林されてしまっています。全国的に見ても、各地方別で四国地方は特別に植林の割合が多い地域なのです。そんな土地柄では遺跡が発見される例は偶然の賜物と考えられます。





(5)使われた道具

●狩猟採集が生活の糧であった旧石器時代の遺跡から発見されるのは石器が中心であり、その中でも狩猟活動にともなって使用された道具類が出土する。
@道具の種類
 〇狩猟具(第15・16図)

 〇加工具

A利用された石材(第17図)

B道具の変化と狩猟の方法
 〇前半期(約4万〜3万年前)
  ★使われる石器が西日本と東日本の二つの地域に大きく分かれる。
   *比較的温暖な気候で西日本は落葉樹林が発達 → 中小獣を中心とした狩猟
   *やや冷涼な気候の東日本は針葉樹林が拡がる → 大型獣を対象に含む狩猟
 〇後半期(約3万年〜1万5千年前)
  ★日本列島内でいくつもの小さな地域に分かれて異なる形状の石器が作られる
   *九州、瀬戸内・近畿、中部・関東、東北、北海道 など
    ・再寒冷期に入って瀬戸内平原が出現し、大型獣を含む動物群が生息
  ★瀬戸内地域は大型槍を中心とした狩猟が盛んとなる
 


 前半期で触れている西日本と東日本とで狩猟具が違っている点については、小生は合点がいきます。話は少々逸れますが、時代が下がって、縄文時代の土器についてです。この土器の種類の違いも、その使用する用途にあったものと考えます。土器の種類についても単に装飾などの違いだけではなくて、実用に即したものと考えます。それは、調理する動植物が東西や、年代により違っていたのが理由だろうと考えるものです。


 一方、狩猟具の違いで前半と後半で分かれる時期は、蛤良火山の噴火の前後ということです。下記にその噴火の概要を引用しましたが、先人が日本列島で生活して以降の最大規模の火山ではないでしょうか。調査のように、霧島市周辺で30メートルの火山礫が積もったとすると、その周辺の地域では人間は死滅したと考えざるを得ません。しかし、九州中北部から瀬戸内海にかけての旧石器人は、この火砕噴火以降も生き延びていたようです。



【蛤良火砕噴火】(Wikipediaより)

長岡ら(2001)によれば約2.9万年前、Smith et al.(2013)によれば約3万年前、地質学的には比較的短い期間(数ヶ月以内)に相次いで大噴火が発生した。一連の噴火は総称して姶良火砕噴火と呼ばれ、噴出物の総量は450-500km3と推定されている。

はじめに現在の桜島付近で大噴火が発生し、軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。続いて数回にわたって火砕流(妻屋火砕流、垂水火砕流)が発生し、カルデラ周辺に粒の細かい火山灰が降り積もった。ここで一旦、数ヶ月程度活動が中断した後、破局的な巨大噴火が発生した。

この噴火は現在の桜島付近で始まった。次第に火道が拡張されるとともに岩盤が粉砕されて空中に放出され周辺に落下した。粉砕された岩塊(亀割坂角礫)は現在の霧島市牧之原付近を中心とした地域に最大30メートルの厚さで降り積もり、中には直径2メートルの巨礫も含まれている。

最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の軽石や火山灰が一度に噴出した。素材となったマグマは温度が770-780℃、圧力が1600-1900気圧であったと推定されている。噴出物は巨大な火砕流(入戸火砕流)となって地表を走り九州南部に広がっていった。一方、空中に吹き上げられた火山灰(姶良Tn火山灰)は偏西風に流されて北東へ広がり日本列島各地に降り積もった。関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされる。

 日本列島に於けるカルデラ噴火と、被害は・・・ コチラから 



(6)移動する瀬戸内の旧石器人

●石器の原料となる石材は、その多くが採れる場所が限定されているため、石の運ばれた範囲や消費のされ方を調べることで、人の移動を読み取ることができる。
@サヌカイトの分布から見た旧石器人の移動範囲

A石器の形から見た旧石器人の移動範囲(第19・20図)

B推定される瀬戸内地域の旧石器人の行動
 〇サヌカイト原産地を拠点とした誘導生活
 〇古瀬戸内川とその支流に沿うような東西方向の移動(第21図)
 〇見晴らしのよい地形を利用した狩猟活動
  松山平野と吉野川上流(第22図)


 右図の分布図にあるとうり、瀬戸内技法と呼ばれる石器が全国各地で見つかっています。まだまだ定住生活を送っていなかった狩猟・採集の旧石器人の移動範囲が推し量れます。




(7)旧石器人のイエ
●石器以外の遺物が残りにくい日本では、どのような住まいで暮らしていたのかは不明な点が多い、

@旧石器人の住居とは?(第23図)

A遺跡から見つかる生活の痕跡

B住居の周囲での活動を復元する(第24・25図)


 住居については、縄文の竪穴住居のようにはその痕跡が掘り出されていないようです。勿論、洞窟や岩陰で寝起きしていた場合は、貴重な遺物として残されているのでしょう。しかし、瀬戸内海は海に沈んでしまっているし、四国の山中は、植林されてしまっている現状では、偶然に大型公共事業が起きて発見されるのを待つしかありません。




(8)今後の課題
●謎の解明に向けては以下の課題を深く掘り進めていくことが重要である

@瀬戸内の旧石器人はいつ? どこからきたのか? 何者なのか?

A使われる石器はどのように変遷したのか?

B石器製作に使われた石材はどこのものを使っていたのか?