縄文文化を巡る!  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・徳島編)
 加茂谷川岩陰遺跡
 2017年12月28日(木)
  
 加茂谷川に沿って集落の奥へと行くと、間もなく新田神社が見えてきました。道路脇に車を停め、神社へと進むと右手には案内標識がありました。以下に載せます。



徳島県指定史跡
『加茂谷川岩陰遺跡群』
            昭和48年8月21日指定

 四国山地から吉野川にそそぐ急流加茂谷川の渓谷に沿って点在する岩陰遺跡群。
 1969年(昭和44年)に新田神社近くの岩陰で縄文土器片が発見されたことが発端となり。1970年〜1973年(昭和45年〜48年)に当初発見された5ヶ所の岩陰遺跡のうち、1・2・5号岩陰の調査が行われた。
 1号岩陰は新田神社のすぐ裏山に位置し、粗い縄文を施した縄文時代中期の土器(船元式)や、後期の磨消縄文土器(中津子規)や北白川上層式の土器が出土した。また、動物骨片やハマグリ・シジミなどの貝殻、さらに安山岩製の石匙が表面採取され、中性・近世以降の土器・陶磁器も出土している。
 2号岩陰は1号の東30mに位置し、発掘区の西側で弥生土器のみを含む地層が確認され、東部に寄ったその下層から縄文時代前期や後期の土器が出土した。また、中近世の土器・陶磁器も出土している。
 5号岩陰は、宝伝岩陰とも呼ばれ、1・2号岩陰からさらに上流へ2qほどさかのぼった、加茂谷川支流に位置しており、楕円文・山形文・複合鋸歯文などをほどこした縄文時代早期の押型文土器とともに、1000点以上の動物骨片や貝類などが出土した。
 徳島の山間部における縄文時代の生活を考える上で、貴重な遺跡である。

          
徳島県教育委員会・東みよし町教育委員


 案内標識の右手の石段の道を昇っていくと、直ぐに岩陰らしい場所がありました。そこからも道(といっても、苔むした階段状の踏み跡の道)が続いていて、大きな岩陰らしい場所につきました。そこには何の案内もありませんでしたが、小生が知る“上黒岩岩陰遺跡”とほぼ同じようなシチュエーションでした。次項に町立歴史民俗資料館を訪問した際の様子をのせます。


 
東みよし町立歴史民俗資料館
 2017年12月10日(日)

 上述の遺跡の訪問に先立つ事18日前、町立歴史民俗資料館を訪れていました。

 町村合併で耳慣れない市町名が沢山出来ましたが、ここ東みよし町もその内の一つでした。今回の目的の地は、以前は三加茂町と呼ばれていました。ここでは、当初の合併の話し合いからは旧三野町と旧井川町が抜けて旧池田町などと合併し、新しく三好市の新設に加わりました。片一方の旧三加茂町と旧三好町の二つの合併でできた新しい町ということでした。
 寄り道はそれぐらいにして、この資料館の前の国道は50年近く前から通っていたのでしたが、今までは通り過ぎるのみでした。しかし、前述の遺跡への道(県道44号線)を走ると、景勝地の“深淵(みぶち)”へと行けます。その深淵へは、ず〜っと若い頃に遊びに訪れたような記憶があります。



展示室には、町内の遺跡から発掘された遺物が展示されていました≪展示は右図から左図≫

 

   

   

   


≪旧石器時代≫

  =三万〜一万年以前の石器=

ここに展示している石器類は、サヌカイトで作られたもので、三万年〜一万年も昔に使用されたと考えられています。
 右の方の大きい石器が、おおよそ三万年以前のもの、左の方の小さい石器は二万年程度前のものです。
 氷河期・日本が大陸と陸続きだった時代に南下してきた大型動物(マンモスなど)を捕獲するためには大きいにぎりづちなどの石器を必要としたのでしょう。また氷河期が終わってから、小形の敏捷な動物((シカやイノシシなど)を捕獲するためにヤリや弓矢などが必要となり、右のように直接手に握ったり、棒にくくりつけて使用していた石器が、ヤリの先や弓矢の先につけたりするために次第に小形の石器へと変わってゆきます。


【県下最古の石器】

  =二万年以上前から香川県(瀬戸内)と交流=

いちばん右側に展示(上図)しているナイフ形の石器は、東みよし町丹田で出土したもので約二万年前の美しく形成されたサヌカイト製の石器です。
サヌカイトは主に香川県下でしか産しない石材であり、東みよし町の山間部でサヌカイト製石器が発見されたことにより、二万年以上の昔から、香川県(瀬戸内)との交流・交易があったことをうかがい知ることができます。



≪旧石器時代≫ (右図下段にナイフ形石器)

 

≪加茂谷川岩陰遺跡群≫

 加茂谷川岩陰遺跡群は、加茂谷川流域に沿って点在する、縄文時代から近代にかけて利用された岩陰遺跡である。この遺跡は、一九六九((昭和四四年)に田中猪之助氏と北川右二氏等によって、旧三加茂町西庄小伝にある新田神社に隣接する岩陰において、縄文時代後期の土器片が発見された。これが加茂谷川岩陰遺跡群の考古学調査の端緒である。その後一九七〇〜一九七三年、徳島県教育委員会・三加茂町教育委員会(当時)同志社大学により、当初発見された五ヵ所の岩陰遺跡群のうち、一・二・五号岩陰が合同調査された。
 一号岩陰は、加茂谷川右岸にある新田神社のすぐ裏側に位置し、海抜二四〇メートルを測る。東西一五メートル、高さ六メートル前後の結晶片岩の岩盤がそびえ、テラスの幅一〇メートル、沢との比較差八・五メートルで、南西向きの良好な岩陰を形成している。遺物は、粗い縄文を施した縄文時代の中期の土器(船元式)や縄文後期の磨消縄文土器(中津式)や北白川上層式や土器が出土した。動物骨片やハマグリやシジミなどの貝殻も出土しており、さらに安山岩製の石匙が表面採集されている。中世、近世以降の土器・陶磁器も出土している。
 二号岩陰は一号岩陰の東八〇メートル・比較差一五メートルに位置し、南西向きで、テラスの幅五・四メートル、沢との比較差は七・五メートルを測る。遺物は発掘区の西部で弥生土器のみをふくむ地層が確認されており、東部に寄ったその下層からは縄文時代早期や晩期の土器が出土した。
また、中世の土器・陶磁器も出土している。この岩陰では、石片をふくむ砂質土が重複して堆積しており、数度にわたる氾濫を受けていると考えられる。
 五号岩陰は宝伝岩屋ともよばれ、一号・二号からさらに上流へ二キロメートルほどさかのぼった西庄谷東に所在している。加茂谷川の本流から東にわかれた支流をさらに二〇〇メートルほどのぼると、その右岸に良好な岩陰が形成されている。標高四九六メートル、テラスの幅三・五メートル、沢との比高差十五メートルで南西に向く。遺物は楕円文・山形文。複合鋸歯文などをほどこした縄文時代早期の押型文土器ともに一〇〇〇点以上の動物骨片や貝類が出土した。また、中世・近世の土器類も出土している。縄文時代の岩陰遺跡が、四国では少ないなかで加茂谷川岩陰遺跡群、生活の痕跡がわかる貴重な遺跡として注目されるところである。




≪縄文時代早期≫ 右図、中から

 


≪縄文時代中期・後期≫ 左図から

    



≪阿蘇山の火山灰(約6000年前噴火≫

 


≪弥生時代≫ 左図から

 


左図 ≪勾玉の原石≫

   

 受付カウンターにあった訪問ノートには、今日の日付けで二人の名が記されていました。その中には関西方面からの訪問者がいました。私たちも愛媛から来たと伝えて、受付にいた係の人と暫し歓談をしました。彼女は「県の博物館に貸し出しているものもあります」とのことでした。そして、下の写真が後日訪れた際の『加茂谷川岩陰遺跡』の出土品です。

 また、徳島県の旧石器時代の遺跡や縄文遺跡については、瀬戸内地域との交流が見逃せないとのことです。
12月16日の氏家氏の「瀬戸内地域の旧石器人の暮らし」・・コチラから  


右の遺物は、徳島県立博物館に展示(12月28日、見学)されており、以下の記載があります


  同志社大学の調査

 1969(昭和44)年、東みよし町西庄の新田神社の岩陰で、地元の田中猪之助と北側右二が採集した縄文土器がきっかけとなり、町教育委員会が大学に依頼して調査が進められました。1970(昭和45)から3回の調査があり、早期から晩期にかけての遺跡とわかりました。加茂谷川岩陰遺跡群は1号、2号、5号岩陰が県指定史跡となりました。
 また、1971(昭和46)年には、鳴門市大麻町で森崎貝塚が発見され、こちらも同じように大学が調査し、中期から後期にかけての貝塚とわかり、県指定史跡になっています(常設展示参照)。



《縄文時代》

  =西日本三大岩陰縄文遺跡として貴重=
   【東みよし町の加茂谷川岩陰縄文遺跡群】

縄文時代は土器の形成により草創期(縄文以前、紀元前一〇〇〇〇年〜紀元前七〇〇〇年)、早期(紀元前六〇〇〇年)、前期(紀元前四〇〇〇年)、中期(紀元前三〇〇〇年)、後期(紀元前二〇〇〇年)、晩期(紀元前一〇〇〇年〜紀元前二〇〇年)の六時期に分けられている。
 縄文時代は、大自然の中で野生の動植物・木の実などを食糧として生活が営まれた自然社会である。
 東みよし町内を流れる各河川、特に猪之谷川(毛田)、加茂谷川の上流には縄文人の残した遺跡が点在している。東みよし町役場から約四キロメートル加茂谷川をさかのぼると「加茂谷川岩陰遺跡群」がある。海抜二〇〇メートル〜五〇〇メートルの範囲に巨大な結晶片岩でつくられた岩陰群で、その中で生活した縄文人の残したものが発掘調査によって明らかにされている。
 ここに展示している土器破片は縄文時代の早期から晩期に至るすべての時代を通しての土器片であるが、このように縄文人が連綿として、居住しつづけたと考えられる遺跡は、全国的にも珍しく、西日本では広島県の帝釈天、宮崎県の高千穂峡の各縄文遺跡に加えて東みよし町の加茂谷川岩陰遺跡群の三つをもって西日本の三大縄文岩陰遺跡といわれ貴重な遺跡である。もちろん四国では初めてで、西日本の縄文時代とくに吉野川流域の遺跡群のなかの標識遺跡になりうるだけの価値が認めらている。
土器片のほか、石器類や当時の人々が食したであろう貝やけものの骨なども出土しており、食生活やそれを得るための苦労の程がかんぜられる。


注:文中の歴史年代については、小生は以下のように統一して利用しています。

【AMS法による区分】

  草創期  15,000〜12,000年前
  早期    12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前

 


【おまけ】 下に、上記と関連するであろう論文をリンクします

     日本における洞窟遺跡の研究   −縄文時代草創期を中心として-