縄文文化を巡る!
 2017年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)
 2017年5月9日(火)〜5月15日(月)
  今回は、函館を中心とした遺跡巡りしか計画出来なかった。北海道には、下図の如く『洞爺湖町』や『伊達市』『千歳市』などに≪世界遺産登録を目指す≫遺跡があります。これらの遺跡の訪問については次回、時機が許せば訪れることも可能でしょう。
 函館市縄文文化交流センターに展示されている“大船”“垣ノ島”の両遺跡から出土した遺物は、大規模集落跡から出土されたもので、大量の出土品とともに、当時の縄文人の生活様式なども詳細に窺えるものです。

【関連リンク先】 史跡 大船遺跡
           史跡 垣ノ島遺跡
 
 
上図は世界遺産登録の取り組み/北海道・北東北縄文遺跡群のwebサイトより引用
 
  ・5月10日(水)   森町(鷲の木遺跡)  〜函館市(大船遺跡)〜ホテル泊

 次の目的地へは鷲ノ木遺跡を後にし、顕著な姿の駒ヶ岳の東側を噴火湾沿いに南下します。計画段階の当初、新函館北斗〜森町〜南かやべの距離感が分からなくて、一泊での余裕のある計画を取っていたのだが、準備をする間に『ひょっとすると、鷲ノ木遺跡をまわって、大船遺跡まで行けるかも』とも、密かに考えていたのでした。森町の遺跡発掘調査事務所を出て、国道5号線から国道278号線へと右折すると、噴火湾沿いの道となった。しかし、レンタカーに入力した≪大船遺跡埋蔵文化財展示館≫の連絡用電話番号で案内する場所と、道路にある案内標識とが違っていることに気付いたのは、バイパスにある≪縄文文化交流センター≫に着いた後でした。

 結局、≪大船遺跡埋蔵文化財展示館≫の連絡先電話が≪縄文文化交流センター≫だったのが、その間違いの発端で、先ほど通り過ぎた案内標識の場所まで引き返したのでした。地理に不案内な上、初めて操るレンタカーのカーナビ操作でのトラブルは仕方ありません。
 車で5分ほど引き返した≪大船遺跡埋蔵文化財展示館≫には、森町の遺跡発掘調査事務所と同様に、受付のオジサマが一人のこじんまりした事務所でしたが、丘陵状の広場には発掘された縄文遺構が鎮座していました。
 



大船遺跡は太平洋に面した海岸段丘上に立地し、
縄文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年〜紀元前2,000年頃)の大規模な集落遺跡です。
100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛土遺構があり、
その南西には墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群が確認されています。

 

≪大船遺跡埋蔵文化財展示館≫
  
 以下に、函館市教育委員会発光のパンフレット≪大集落 大船遺跡≫からの抜粋・引用 
   
【国指定史跡大船遺跡の概要】
 大船遺跡は大船川左岸の海岸段丘(標高42〜47m)にあります。遺跡は縄文時代中期(約4,500年前)を中心とした集落跡で、平成8年度に調査した約3,500uから、92軒の堅穴住居跡と盛土遺構などが発掘されました。遺跡の主体部が西側に広がっていることから、遺跡全体は非常に大規模な集落になると予想され、平成13年8月に、71,832uが国の史跡に指定されました。
 遺跡の特徴は、住居の規模が極めて大きいことと、集落の密度が非常に高いことです。一般的な堅穴住居跡は、深さ0.5m、長さ4〜5m程の大きさですが、大船遺跡では、深さ2.4m、長さ8〜11mの大ダ田住居も発掘されています。住居の規模から、安定した縄文の生活が窺えます。


【出土したいろいろな遺物】
 出土した遺物は約20万点で、その多くが住居跡に廃棄された遺物です。試掘調査の結果、盛土以降には膨大な遺物が包蔵されていることが分かりましたが、現在は未調査のまま保存しています。
 出土遺物の中には、土器や石器の他に、ミニチュア土器や漆器・垂飾など、精巧なものも発見されています。また、当時食料としていたクジラ・マグロ・シカなどの骨も出土しています。墓坑からは副葬された個体土器や「10歳前後の男の子」と鑑定された歯も見つかっています。
 こうした多くの出土遺物からも、縄文の精神や文化を知ることができます。
   

 大船遺跡を後にして、再び、国道278号線のバイパスにある函館市立の縄文文化交流センターへと戻った。ここは、道の駅と併設されている施設でした。駐車場へ入ると一台の乗用車から何かを抱えて建物へ入って行く人を目撃したのですが、バイパスへの交差点の道路の延伸方向で10名ほどが発掘作業中らしい集団と、何らかの関連があるのでしょうか?
 ここは入場券を自動販売機で購入するシステムで、受付の若いお嬢さんに迎えてもらいました。

 ここには≪国宝・中空土偶≫がケースの中に鎮座し、美術館などでそれぞれのコーナーで監視する方と同様の佇まいで、迎えてくれたお嬢さんが目を光らせていました。
   
≪展示の様子≫

 
≪漁猟≫ 石錘・釣針・銛頭・ヤスなど
  
≪狩猟≫ 石鏃・石槍・石錐・つまみ付きナイフなど
 
≪採集≫ 縄文土器など
 
 

 
≪漆工品≫ ≪アスファルト≫
 
≪石刀≫ ≪石偶≫

 
≪足形付土版≫
  
≪国宝 中空土偶≫
 
国宝「土偶」(場内案内板による
1975年の夏、農作業をしていた地元の主婦によって偶然発見されたものです。中が空洞に作られた「中空土偶」に属しています。また、“南茅部の中空土偶”という意味から「茅空(カックウ)」の愛称でも呼ばれています。中空土偶としては国内最大で、造形的にも優れていることから1979年に重要文化財に指定され、その後2006年に実施した出土地点の発掘調査を経て、2007年6月8日に北海道初となる国宝に指定されました。 
  
≪函館市縄文文化交流センター発行のハンドブック≫よりの引用

【漆】
 漆工芸は縄文時代を特色づける技術です。世界で最も早く漆を利用し、芸術といえるまで完成度を高めます。縄文時代の終わりとともにその技術は急速に衰退し、その後再興して現代の漆工芸の礎となっています。特に赤色顔料としてベンガラ(酸化第二鉄)や水銀朱を使う事、黒漆の上に赤漆を塗布する技術は現代にも通じています。
 漆工技術の種類としては、糸に漆を塗って加工した「漆糸製品」が最初にに現れ、次に土器や木器に漆を塗る「陶胎漆」「木胎漆」、カゴや編み物に塗る「監胎漆」と発展します。なかでも漆糸は縄文時代だけに見られる技法なので、日本の漆文化のルーツを考えるうえで最も重要なものといえます。


【アスファルト】
 アスファルトは石油鉱床地帯に産出するもので、世界的にも最も古くから利用された鉱物資源です。メソポタミアでは建物の補強として、エジプトではミイラづくりなどにも使われていました。日本では、日本書記に「燃ゆる土」として越の国(新潟)から天智天皇に献上したことが記載されており、江戸時代には「草生水」と呼ばれていました。
 縄文時代には、その膠着性を利用して、壊れた土器の補修や弓矢の矢柄と石鏃の接合など、主に接着剤として使われていました。特に水に溶けない性質から、釣針と糸の結び目の補強、銛先と柄の接合など、漁具での使用が目立っています。これらのアスファルトは秋田産や新潟産のものなどがあります。当時の希少なハイテク材です。


【翡翠】
 ヒスイは、日本に最もなじみのある宝石であり、その利用の歴史は縄文時代にまで遡ります。原産地については長らく不明でしたが、現在は縄文時代の遺跡から出土するヒスイのほとんどが新潟県糸魚川市姫川周辺のものであることがわかっています。原産地発見の経緯については、古事記や万葉集の記述から推理したというエピソードもあります。
 縄文時代には、勾玉のペンダントや小玉を繋げたネックレスなど、装飾品や威信材として交易の重要なアイテムとなっていました。ヒスイの母岩は白色で、その中に光沢のある碧色があり、その姿はまるで春の訪れとともに雪の中から若草が萌え出るように見えます、縄文人は、そこに生命の伊吹を感じたのでしょうか。


【足形付土版の謎】
 足形付土版は、亡くなった子どもの足形や手形を粘土板に写し取り、住居内に吊して亡くなった子どもを偲び、親が亡くなった際に一緒に埋葬されたと考えられます。
 しかし、この足形付土版が見られるのは、時期的には縄文時代早期末から前期初期であり、地域的には渡島半島南東部(函館)と石狩低地帯(千歳・苫小牧)に限られています。その後、中期から後期にも類似の土版が散見されますが、これらは出土状況や土版の形態から異なる用途であると考えられます。
 なぜ、限られた時期、限られた地域だけにこの風習が現れたのでしょうか。謎は深まります。




  
  今回の北海道での遺跡巡りは、噴火湾の南側の函館の近郊遺跡のみでした。いずれ、訪れる機会も持てるだろう日には、事前の学習は必要だと感じる旅でした。
  
【資料集】 

北海道・北東北の縄文遺跡リーフレットシリーズ1 「史跡大船遺跡」
北海道・北東北の縄文遺跡リーフレットシリーズ2 「史跡垣ノ島遺跡」