縄文文化を巡る!
 2017年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)
 
 北海道から青森へ移動して、計画段階では八戸へ向かい青森の三内丸山遺跡と白神山地のトレッキングの予定でしたが、今回の“7日間のフルムーンパス”では困難な事が判明しました。結局、三内丸山遺跡を見学後に白神山地のトレッキングで計画し直したのですが、宿泊予定の曜日の関係で以下の行程で函館→弘前→深浦町(不老不死温泉泊)→弘前→青森(三内丸山遺跡)・・帰着。と最終決定したのでした。
 
【関連リンク先】 特別史跡 三内丸山遺跡
 
上記サイトからの三内丸山遺跡を以下に引用

≪三内丸山遺跡へようこそ≫

 特別史跡三内丸山(さんないまるやま)遺跡は日本最大級の縄文遺跡です。発掘調査によって当時の自然環境や生活、ムラの様子などの解明が進められています。遺跡は通年で公開され、自由に見学することができます。

 三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。
 平成4年からの発掘調査で、堅穴住居跡、大型堅穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘抗、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
 また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土、石、の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
 ヒョウタン、ゴボウ、マメ、などの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
 平成12年11月には国特別史跡に指定されました。

 
 
 
・5月11日(木) ホテルひろめ荘~大沼(撮影)  新函館北斗  ~ 新青森  ~弘前(泊)
・5月12日(金) 弘前  ~深浦町・十二湖ウォーキング(撮影)~  不老不死温泉(泊
・5月13日(土) 不老不死温泉  ~十二湖登山口~崩山トレッキング  弘前(泊)
・5月14日(日) 弘前  ~青森(三内丸山遺跡) ~青森(泊)
・5月15日(月) 青森  ~新青森  ~東京~岡山~松山
 
 北海道での一日目の遺跡巡りを終え、青森県へと移動しての弘前市の考古館では「閉館中です」の“空振り”で始まりました。翌、12日はスケジュールどおりに白神山地へと向かいました。白神山地については、事前にガイドブックなどの入手しようと本屋さんに出向いたのですが、適当なガイドブックを探すことは出来ませんでした。また、ネットでの情報収集も旅行会社や“ツーリング企画”などの情報ばかりで、必要としているゴールデンウィーク明けの白神山地の情報にヒット出来ないままに現地へと着いてしまいました。・・準備不足は否めません。

 やはり、現地の林道の情報では、“5月下旬まで閉鎖”の看板に出合ったのでした。仕方なく、予定変更の12日に“十二湖ウォーキング”で13日の崩山トレッキングへと変更でしたが、やはり、準備不足は昼食に表れたのでした「コンビニで・・」の、コンビニに出合いませんでした。最後の頼みの「十二湖の駐車場にある売店に何かあるだろう」も「今日は水道工事があって、軽食は出来ません」と言われ「弁当類は扱っていません」とのつれない返事・・・。

 そんなトラブルの珍道中でしたが、14日の三内丸山へのバス便は「既に観光地化しているから、バスターミナルへ行けば簡単!」と“高を括っていた”のですが“そうは問屋が卸さない”と、朝の時間でも一時間間隔でした。結局、青森駅前のバスターミナルを10時発のバスに乗りました。
 

遠景に八甲田の山々が映える三内丸山遺跡
 
 10時半、三内丸山遺跡前でバスを降りると、目の前に≪縄文時遊館≫がありました。入場料は無料でした。取り敢えず≪さんまるミュージアム≫の見学です。ミュージアムのガイドは10時半から(午後は1時半)でした。既に何名かの人たちを従えて説明していました。私たちも、ガイドのお嬢さんの案内を聞きながら、後からついて行く事としました。以下に展示物の紹介をします。
  
≪縄文時游館≫ ≪縄文ミュージアム≫
 
≪縄文ポシェット≫ ≪木柱≫
 
≪人骨≫ ≪縄文土器≫

 
≪土器≫ ≪石槍・石鏃≫

 
≪土版≫ ≪鹿角製ハンマーなど≫
 
≪針≫ ≪刺突具≫
 
≪錐≫ ≪玦状耳飾りなど≫
  
  
   

≪土器≫ ≪土偶≫
  
≪ミニチュア土器≫ ≪装身具など≫
 
≪漆塗り土器≫
≪大型板状土偶(重要文化財)≫

まつりに使われた数々の道具、自然の豊かな実りを祈る
土偶は土で作ったヒトガタのことで、最小で約4cmのものから最大で約30cmのものまであり、大きさ形ともにバリエーションが豊富です。出土する土偶は板のように平たく十字架をしたものがほとんどです。これは円筒土器文化特有のもので、このような土偶を「板状土偶」とよびます。胸とおへその表現があることから女性を表していると考えられています。重要文化財に指定されている大型板状土偶は大きさが約32cmあり、頭部と胴体部分は約90mも離れた場所から見つかりました。ほとんどの土偶はこのように壊された状態で発見されています。

後略
 『さんまるミュージアム』での見学を終え、縄文時游館にあるレストラン“五千年の星”にて昼食です。午後からの遺跡見物の定時ガイドは“エントランスホールの受付横に集合”との掲示がありました。出発時間は13時でした。これは、無料の定時ガイドで団体などは予約も出来るようです。ガイドは、日本語以外でも可能のようでしたが、詳細については判りません。以下に、三内丸山遺跡の概要をリーフレット「特別史跡 三内丸山遺跡」より引用します。
 
≪竪穴建物(復元)≫
床は地面を彫り込んでつくりました。中央には炉があります。これまでに550棟以上見つかりました。15棟を復元しています。


≪大型竪穴建物跡(復元)≫
長さ15m以上の大きな竪穴建物跡が見つかりました。復元したのは縄文中期のもので、長さ32mです。これらは集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋などの説があります。


≪大型掘立柱建物(復元)≫
6本柱の長方形の建物と考えられます。柱穴は直径・深さとも約2mで、他の建物跡と比べて規模が大きく、穴の間隔はすべて42mでした。
中には直径約1mのクリの柱が残っていました。


≪掘立柱建物(復元)≫

地面に穴を掘り、柱を立てた建物跡です。遺跡中央部分でまとまって見つかりました。高床式の建物と考え、復元しました。


≪盛土≫
・南盛土
大量の土器や石器、土器やヒスイ製の玉などが土と一緒にすてられ、約1000年間で丘のようになりました。ここでは発掘時の様子を見ることができます。
・北盛土
たくさんの土器や石器が土と一緒にすてられた場所です。ここではこわれた土器が広がっている様子が見学できます。


≪大人の墓(土坑墓)≫
大人は、地面に掘られた墓に埋葬されました。墓は道路をはさんで向かい合うように配置され、約500基見つかっています。


≪子どもの墓(埋没土器)≫
子供は、土器に入れて埋葬されました。穴をあけたり底を抜いた土器の中に握りこぶし大の丸い石が1~2個入れてあるものもあります。これまでに、800基以上見つかっています。


≪環状配石墓≫
廻りを大きな石で丸く囲われたお墓です。道路跡の南西側に沿って見つかっています。石を縦と横に規則的に置いています。縄文時代中期につくられました。

≪北の谷(泥炭層)≫
この谷はゴミすて場でした。
水分が多く空気からもさえぎられていたので、木製品や漆器、動物や魚の骨、植物の種子などが残っていました。


土木工事-道
造成して作られた大規模な道


 
≪大型掘立柱穴≫ ≪大型堅穴住宅≫
 
 以下は、三内丸山遺跡ガイドブック『さんまる探訪』からの引用です。

≪交流・交易≫ 海路で遠方と交流していた縄文人
 遠い地域と交流・交易を行っていました。新潟県のヒスイ、岩手県のコハク、秋田県のアスファルト、北海道などの黒曜石が出土しています。
 黒曜石は加工しやすく鋭い刃先が得られることから、石器の材料として古くから利用されていました。また、産地ごとに成分が異なるため、科学分析によって産地を推定することができます。日本海側を中心に各地の黒曜石が搬入されており、前期では比較的近い場所から原石や製品として持ち込まれ、中期になると、遠方のより良質の黒曜石が利用されるようになり、製品として持ち込まれたようです。また、産地ごとに器種の違いもあるようです。
 ヒスイは約700km離れた新潟県糸魚川周辺から持ち込まれました。原石、未完成品、製品等が出土していることから、ムラの中で加工され、周辺のムラへの分配、供給されたものと考えられます。隣の近野遺跡からは1kgを越えるような原石が見つかっています。当然、運ぶ際には舟が使われ、日本海を往来したようです。コハクは太平洋側に産地があり、原石として持ち込まれ、加工されたものです。
 アスファルトは鏃を矢に固定される時に、接着剤として使われました。日本海側の油田地帯が産地と考えられます。
 他に北陸地方の影響を受けた土器が出土しています。
 
 今回、北海道・北東北の縄文遺跡を見学したのですが、やはり「何故、北海道・北東北を特定しての世界遺産登録を目指しているのか?」の疑問を払拭するだけの答えは見出せませんでした。それは遺跡や遺物が、縄文時代一万年余りのある特定の時期に限っての「縄文文化圏」を強調しているからではないでしょうか?
 私たちの祖先が、どういうルートを辿ってきたのかは別にして、北海道や東北地方に住みつき、上記のようにお互いの特産物を入手しながら交流するという事は、物の交換に留まらないで人の交流も行われていたものと思われます。縄文遺跡を生んだ縄文文化が日本列島のどこで生まれたかは判りません。世界四大文明と呼ばれるメソポタミア・エジプト・インダス・黄河は、大河沿いの肥沃な土地で農耕・牧畜などの定住生活が可能となった条件の下、花開いた文明でした。
 しかし、縄文文化はそういう文化圏とは異にしているのです。狩猟・採集の生活は、季節により(それは、四季や雨季・乾季に拠らず)異動しながらの生活です。人だけでなく、草食動物や肉食動物もまた、餌(食料)を求めて異動しながらの生活をしていました。しかし、縄文人の狩猟・採集文化は定住しながらの生活を選んだのでした。それは、日本列島の四季と変化に富む気候が可能としたのは言うまでもありません。また、その変化に富む気候に対応して来た事が、一万年に及ぶ縄文時代の間の気候変動にも対応が出来た所以でしょう。

 また、この気候変動こそが北海道・北東北の大集落が移動した要因なのだと考えられます。
 
【資料集】

パンフレット「三内丸山遺跡-縄文時代の大規模集落-」
リーフレット「特別史跡 三内丸山遺跡」
北海道・北東北縄文遺跡リーフレットシリーズ7 「特別史跡三内丸山遺跡」