縄文文化を巡る!
縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)
岩谷遺跡

上の写真は≪岩谷遺跡≫の配石遺構
 

県指定史跡 【岩谷(いわや)遺跡】 (指定年月日 昭和57年3月19日)


 岩谷遺跡は、広見川東岸の河岸段丘上にある縄文時代後期の遺跡である。この遺跡は上下2段に分かれており、どちらからも多数の縄文時代後期の土器や石器が発見された。特に下段の遺跡からは、直径4,5mの環状列石や組石等の配石遺構が検出されている。
 四万十川の支流である広見川は、勾配のきわめてゆるやかな河川で、淡水魚ばかりでなくナガエバ(アジの一種)等の海水魚も生息する豊かな河川である。このような自然環境や遺構を総合的に検討した結果、現在ではこの配石遺構は、豊漁を祈念した祭祠遺構ではないかと考えられている。出土遺物には、祭儀用と見られるペンダント風の石製装飾品も含まれている。
 東日本にはこのような配石遺構は多いが、西日本では数が少なく貴重である。
 

 昨年11月に、岩谷遺跡の出土遺物が展示されている鬼北町にある泉公民館に立ち寄ったのでした。しかし、陳列ケースは空っぽだったのです。愛南町の平城貝塚遺跡の出土品を展示している平城交流センターの場合と同じ結末だったのは、どうなんでしょうねぇ~。今回、たまたまネット検索に≪泉公民館の広報≫がヒットし、『長年にわたり、研究のため愛媛大学に貸し出されていた岩谷遺跡の展示品が、このほど泉公民館に戻ってきて、新しくなった展示棚に収められました』(2016年12月・2017年1月号)と載っていたのでした。
 さて今回は、事前の準備が万全だったので、昼時の訪問にも関わらず公民館の管理の方が対応して頂いたのでした。


玄関ロビーの展示棚の上には、鬼北町教育委員会のパネル(以下に引用)が掲げられていました。


≪岩谷遺跡(愛媛県指定史跡)≫

 岩谷遺跡は、今から約3500年~2500年に、この土地に住んでいた私たちの祖先が残した遺跡です。この遺跡は、工事の途中に発見され、昭和51年12月26日から翌年の3月22日までの述26日間にわたり発掘調査が行われました。その結果、縄文時代後期全般に及ぶ多量の土器片と縄文時代晩期後半の土器片少量が検出され、それに伴って多くの石器類も発見されました。
 また、岩谷遺跡で最も重要な発見は、広見川で採れる石を利用して形成された配石遺構(1~5号配石)が確認されたことです。配石遺構には、石を組んでいるもの(1・2号配石)や直径4mの円形に石を並べたもの(3号配石)、小さい石を集めたもの(4・5号配石)などが見られました。このうち、円形配石遺構(3号配石)では、環状に石を巡らせた中で火を焚いた痕跡が確認されています。これらの遺構の一部は、発掘調査で検出された状態で現地に展示されています。
 出土した土器・石器からは、約1000年間を通じて漁労や採集を主とした生活をしていたことが分かります。そしてこれらの配石遺構は、当時ここで暮らしていた人々が広見川の川魚の豊漁や、山野の動物、野草の再生を願って行った祭祀(お祭り)の場であったと推測されます。人々が長期にわたって定住し続けているのは、この土地がとても住みやすく豊かであったことを示すものです。人々はその豊かさに対して感謝の祈りをささげたことでしょう。
 こうした遺跡は、四国の中でも極めて珍しく、大変貴重なものであると評価され、昭和57年3月19日に愛媛県指定史跡に認定されました。この土地が豊かであった縄文時代の面影を垣間見れるこの岩谷遺跡を、末永く保存し、後世に伝えていきたいものです。
泉公民館の展示品
 
縄文土器
年代:縄文後期前半から半ば頃
特徴:磨り消し縄文といわれる文様を持ったものやその後に登場する緑帯文土器といわれるものです。


上記≪緑帯文土器≫については  
 
右写真(向かって左)・打製刃器(スクレーバー)
年代:縄文後期
特徴:昔の包丁です。肉を切ったり魚をさばくのに使われたと考えられます。ホルンフェルス使用。


右写真(向かって右)・石錘(狩猟・漁猟用品)
年代:縄文後期
特徴:漁をするときの網のおもりとして使われたと考えられます。石材は緑色片岩などがあります。
 
左写真 打製石鏃
年代:縄文後期

特徴:弓矢の矢の先端に付けられたやじりです。

右写真(右上) 尖頭器(狩猟・漁猟用品)
年代:縄文?
特徴:ヤリの先端として使われたと考えられるものです。岩谷から出土したものとされます。

右写真(右下) トロトロ石器(異形部分磨製石器)
年代:縄文早期(B.8,000~6,000年)
特徴:東日本から九州にかけて分布しますが極めて珍しい石器です。
岩谷C地点から出土したとされます。

右写真(中央) 有孔垂飾品(装身具・祭祀用品)
年代:縄文後期後半
特徴:緑色の滑石で作られたペンダントです。お祭りに使われたのではないかと考えられています。

右写真(左端) 石錐(狩猟・漁猟用品)
年代:縄文後期
特徴:石錐は、あなを空ける道具と考えられます。
 
左写真 磨製石斧(樹木伐採用品)
年代:縄文後期

特徴:木を伐るための斧として使われたものです。石材には緑色玄武岩などが使われています。


右写真 磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)・叩石(たたきいし) (採集用品)
年代:縄文後期
特徴:堅果類(ドングリなど)を磨り潰したりするために使われたと考えられる石器です。
 
写真 打製石斧(土堀り具)
年代:縄文後期後半
特徴:土を掘るための道具と考えられるものです。石材は頁岩(ホルンフェルス)が使われています。

右写真は、ペンダントの拡大写真です。
  

下のパンフレットは、鬼北町教育委員会編です
 
 
 

愛媛県生涯学習センターサイトより、データベース『愛媛の記憶』愛媛県史
 原始・古代Ⅰ(昭和
57年3月31日発行)からの引用

4 岩谷遺跡での遺構と遺物

 配石をめぐらした集団祭祀の場

  北宇和郡広見町岩谷遺跡のA発掘区第三上層(伊吹町式土器期以降に比定)からは、広範囲にわたる配石遺構が検出され、この遺構中からは数多くの遺物も発見された。

  検出された配石遺構は、A二区の第一号・第二号配石(組石状)遺構、三区の第三号配石(円環状)遺構、四区と五区にまたがった第四号配石(円環状)遺構、六区の第五号配石(円環状集石)遺構の五例であり、七区でのそれは有意的なものに思われず、上流部にあたるA二区~六区からの流石または散石と考えられた。

  これらの配石遺構の下部には、いずれも土坑的な遺構が存在しなかった。特に四区では、遺物、礫石の出土が多く、焼土も検出され、礫石の分布は定形的ではないが、第三号配石遺構に似たものであった可能性がある。第四号配石遺構はその一部であるとも考えられる。

  これら配石遺構のなかで特に注目されるのは、第三号配石遺構である。ほぼ直径四・六メートルの円周上には、整然とした列石を留める。竪穴の掘込みは認められず平地式であり、配石床面はやや西方に傾き下っている。この円環状列石内の北隅部分には、最大長約五〇センチ、幅と厚さ三〇~四〇センチ大の円柱状の河原石が、いくらか放射状に並べられている。これを立石とみるか、主柱倒壊時、下部からせり上がったものとみるかは、この配石遺構の性格をきめる重要なカギとなる。発掘調査団では、A二区でほぼ同様の組石状遺構が二基確認されていることから、立石とみる見解が強く、この配石遺構は祭祀的性格の強いものとされている。一方、列石南側周縁の一部に突出した配石があり、拳大の石が多数集積しており、遺構への入口を示す部分と考えられることや、西側周辺に半周するように柱穴状ピットが存在することから、なんらかの住居的造築が成されていたことは疑いない。

 

  配石遺構からの遺物

  これらの配石遺構からは、約五〇〇〇点以上に及ぶ縄文土器片、生産生業と関連する打製・磨製石斧、磨石、石皿、石錘、石鏃、凹石など多様の石器が検出された。

≪以下略≫





 冒頭の写真が、配石遺構が出土した写真です。今は、『岩谷遺跡公園』として、保存されています。このような遺構は、北海道などの縄文遺跡から大規模な“環状列石”と呼ばれる遺跡が発掘されています。北海道(森町)の鷲ノ木遺跡からは、環状列石の隣に竪穴墓域も発掘されています。
 ここ岩谷遺跡で発掘された配石遺構は祭祀的性格の強いものと推測さられているのですが、当然、近隣には住居があったものと思われます。しかしこればかりは、当てもなく探すことは適いません。縄文人の大集落が掘り出されている、北海道・北東北の縄文遺跡群も、1,000年~1,500年の痕跡を残した後、忽然とその足跡を消しています。

 この事は、旧石器時代の“獲物を追った放浪生活”とは、全く違う意味を持つ住居変更が繰り返されていたことを意味しています。

 そして数千年の時を経て、新たな文化を手に入れた子孫が造った
興野々寺山遺跡へは、コチラから