愛媛県生涯学習センターサイトより、データベース『愛媛の記憶』愛媛県史
原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)からの引用
4 岩谷遺跡での遺構と遺物
配石をめぐらした集団祭祀の場
北宇和郡広見町岩谷遺跡のA発掘区第三上層(伊吹町式土器期以降に比定)からは、広範囲にわたる配石遺構が検出され、この遺構中からは数多くの遺物も発見された。
検出された配石遺構は、A二区の第一号・第二号配石(組石状)遺構、三区の第三号配石(円環状)遺構、四区と五区にまたがった第四号配石(円環状)遺構、六区の第五号配石(円環状集石)遺構の五例であり、七区でのそれは有意的なものに思われず、上流部にあたるA二区~六区からの流石または散石と考えられた。
これらの配石遺構の下部には、いずれも土坑的な遺構が存在しなかった。特に四区では、遺物、礫石の出土が多く、焼土も検出され、礫石の分布は定形的ではないが、第三号配石遺構に似たものであった可能性がある。第四号配石遺構はその一部であるとも考えられる。
これら配石遺構のなかで特に注目されるのは、第三号配石遺構である。ほぼ直径四・六メートルの円周上には、整然とした列石を留める。竪穴の掘込みは認められず平地式であり、配石床面はやや西方に傾き下っている。この円環状列石内の北隅部分には、最大長約五〇センチ、幅と厚さ三〇~四〇センチ大の円柱状の河原石が、いくらか放射状に並べられている。これを立石とみるか、主柱倒壊時、下部からせり上がったものとみるかは、この配石遺構の性格をきめる重要なカギとなる。発掘調査団では、A二区でほぼ同様の組石状遺構が二基確認されていることから、立石とみる見解が強く、この配石遺構は祭祀的性格の強いものとされている。一方、列石南側周縁の一部に突出した配石があり、拳大の石が多数集積しており、遺構への入口を示す部分と考えられることや、西側周辺に半周するように柱穴状ピットが存在することから、なんらかの住居的造築が成されていたことは疑いない。
配石遺構からの遺物
これらの配石遺構からは、約五〇〇〇点以上に及ぶ縄文土器片、生産生業と関連する打製・磨製石斧、磨石、石皿、石錘、石鏃、凹石など多様の石器が検出された。
≪以下略≫
冒頭の写真が、配石遺構が出土した写真です。今は、『岩谷遺跡公園』として、保存されています。このような遺構は、北海道などの縄文遺跡から大規模な“環状列石”と呼ばれる遺跡が発掘されています。北海道(森町)の鷲ノ木遺跡からは、環状列石の隣に竪穴墓域も発掘されています。
ここ岩谷遺跡で発掘された配石遺構は祭祀的性格の強いものと推測さられているのですが、当然、近隣には住居があったものと思われます。しかしこればかりは、当てもなく探すことは適いません。縄文人の大集落が掘り出されている、北海道・北東北の縄文遺跡群も、1,000年~1,500年の痕跡を残した後、忽然とその足跡を消しています。
この事は、旧石器時代の“獲物を追った放浪生活”とは、全く違う意味を持つ住居変更が繰り返されていたことを意味しています。
そして数千年の時を経て、新たな文化を手に入れた子孫が造った
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