縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・鬼北の弥生集落跡
 2017年6月19日(月)
 ≪興野々寺山(おきののてらやま)遺跡≫の事は、事前に泉公民館の館報に載せられていたのですが、こことの位置関係などは判りませんでした。公民館の管理の方に行き方を教わり、向かいました。住宅地図で確認した『お寺の裏ですね』へは、迷わず直行でした。お寺の裏にあるその場所は、岩谷遺跡の場所からは直線距離で1kmほどでした。
 
  
 
 
≪興野々寺山(おきののてらやま)遺跡活用ひろば案内≫の立て看板には、以下が書かれていました。

 興野々寺山遺跡は、弥生時代の集落跡です。北から四万十川最大の支流広見川、西から三間川が流れ、南で合流し、松野町方面へと流れています。山と川に囲まれた台地の上という、人が生活するためには、たいへん条件のよい場所だといえます。
 ここは地元で土器がたくさん出るところとして昔から有名でした。弥生時代の遺跡は、今のところ、町内では唯一、西南四国でも数少ない貴重な遺跡です。そのため、その内容を把握して保護することを目的に、平成22年度から約3カ年かけて発掘調査を行いました。


 発掘調査では、竪穴建物9棟と北側に弧状に廻された大小2条の溝などが確認され、たくさんの土器も出土し、弥生時代後期前半から週末期の集落跡であることがわかりました。また、ここで確認された竪穴建物はどれも平面包茎状のプランで、1辺3m前後と非常に小さく、明確な柱をもたないという、とても特徴的なものでした。
 弥生時代の西南四国地域は、「西南四国型土器」と呼ばれる独特な土器に代表される独自の文化を形成していました。当時の人々の暮らしぶりや生活の実態は多くの謎に包まれていますが、それらを解消する手掛かりとして大変貴重かつ重要な遺跡であるといえ、今後、その解明が期待されます。


 発掘調査で確認された遺構は、厚さ30cmの保護土で全体を覆って保存しています。この「活用ひろば」は、発掘調査で得られた情報をもとに、当時も暮らしを体験したり、昔の人びとに学ぶ場として整備を進めたいと考えています・


      鬼北町教育委員会
 
  
 
 さて、興野々寺山遺跡が縄文の岩谷遺跡から目と鼻の先の距離でした。しかし、取り出された遺物の年代が大きく違っています。洞窟や岩陰などと違って、どの時代にどの場所に住居を移して生活するのかは解りかねるものです。山歩きをしていますと、たかだか100年前の住居跡や軌道跡などさえ、大自然の中に埋もれてしまっているのです。いずれにしろ、寺の裏山から発見された遺構は後の時代までこの地域の集落が代々、生活の場所として受け継がれてきた事は明白です。
 
以下は、興野々山寺山遺跡のパンフレットです