【イネの起源】 
 

 【NHKスペシャル】日本人はるかな旅 第4集
「イネ 知られざる1万年の旅(2001年)」からの考察

 
 
 全く予期しない事が起こりました。小生が考察するネタが古すぎたとしか言えません。考察の前提としていたテーマが違っていたのです。現在の学問では解明されていないことが多い・・という事が、教訓です。日々、日進月歩という事でしょうか?以下に、小生の【≪私たちはどこから来たのか≫(隈元浩彦 著)からの考察の文中に下記を載せていましたが、偶然にも冒頭のNHKスペシャルの映像を見る機会があり、改めてこの稿を起こすことに相成りました



 ≪考察2 恵まれた環境と食生活≫

 『日本列島は、動かずとも食料に困らない恵まれた環境』だった事は、≪三内丸山遺跡≫などの集落跡からも、その痕跡を見出すことが出来ます。前項でも既に触れたとおり、日本列島の自然条件は大陸と比べて過酷な環境にあります。だからこそ、豊かな自然が豊かな森を育みその森で活かされた動植物は豊富に生育しています。以前にも触れたとおり、最終氷期が終わり温暖になった列島に緯度を変え、高度を変え未だに生息しつづけている動植物があります。その変化に富んだ自然環境が、縄文文化を生まれさせたものと小生は考えます。

 既述のとおり、先人が狩猟採集の放浪の旅から定住の生活に移った契機は、手軽に採取出来る豊富な恵み(森からは堅果・海からは魚介類を)等を得、また、穀物の栽培や家畜の飼育にあったものと思われます。そこでは、地球規模での四大文明と呼ばれる文明が発祥したのです。その文明の発達は、その土地土地で必要とした言語を有し、後には、意思の伝播手段として文字の発明にもつながります。それらの文化の交流は、縄文文化の終焉から、弥生文化の波及へと繋がるのですが、ここでは、縄文時代にも伝播してきたであろう≪稲=熱帯ジャポニカ≫に触れます。

 既に弥生文化の≪稲作=水田の普及≫が渡来人によりもたらされたことは学会などでも既知の事ですが、前記、熱帯ジャポニカの普及範囲やその年代、どのように大陸からわたって来たのかの詳細については諸説あるようです。そんな中、小生は≪中国・長江≫からの稲作の伝播と同様、≪稲=熱帯ジャポニカ≫も、長江あたりから縄文の中期には伝わっていたのではないかと考えます。それらを伝えてきたのは、≪難民≫であろうと推測します。狩猟・採集の旧石器時代の移動と違って、文明が起こった後の人々の移動は“争いが起こり、住処を追われた住人が新天地を目指す=今でいう難民”と云えます。つまり、集落毎の大規模な移動だと考えます。その際、食料持参で逃げ出すのは当然ですし、勿論、行く先々で食料を入手して移動するのは当然のことでしょう。

 中国大陸からだと、東シナ海を渡らないと日本列島には到達出来ませんが、海を渡って朝鮮半島を経由したのか、陸路で朝鮮半島を渡って来たのかは判りませんが、陸路を使う場合、何故、朝鮮半島で定住しなかったのかの説明がつかないのです。先にも述べましたが、定住生活で穀物の栽培をすることとなった事による争いは、その後王朝を生み、滅び・滅ぼされの歴史を繰り返すこととなります。

 縄文中期に伝播したであろう≪熱帯ジャポニカ≫は、小規模の伝播であり、伝播後も日本列島を緩やかに伝わり、後の≪稲=温帯ジャポニカ≫と弥生文化へと進む変革の波とは、規模が違っているものと思われます。そして、時代が下った後の大陸での争いは大規模な戦争だったに違いありません。そして、大量の難民が日本列島に押し寄せたのでしょう。



以下に【Nスペ】を引用しますが、(You Tubeはコチラから 
驚きましたねえ〜。上記、小生の指摘・疑問に応えてくれているじゃ〜ありませんか。この放送は2001年との事。



 

 番組の冒頭の「近年日本列島の稲作について、新たな事実が明らかになってきました。太古の米のDNA分析などから、これまで弥生時代から始まったと考えられてきた稲作が縄文時代に既に行われていたことが判ったのです」と、小生の疑問を晴らす形で始まった番組は、日本人が稲作と出合い弥生時代へと向かって行くこととなった契機を探す旅へと誘われて行きます。


 さて、近年は以下に示す時代区分が主流となっているようであり、縄文時代の時代区分を以降の文章の組み立て上、下記の区分を採用します。


【AMS法による区分】

  草創期  15,000〜12,000年前
  早期    12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前


 


 番組では、「朝寝鼻貝塚のプラントオパールは6,000年前のコメだった」ことが判明し、ノートルダム清心女子大学の高橋護氏は稲作について「縄文早期末か前期初頭に開始されて、途切れることなく今日まで続いている」と述べています。 そして番組はイネの起源を求めて、中国・雲南省を訪ねますが、この地のコメは4,000年前が起源とされ、日本列島の稲作はここより早く始まっていたことが判明しました。

 続いて、長江の中流域湖南省の玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から12,000年前のイナモミが発見されました。それから5,000年後、長江の下流域浙江省・河姆渡(かぼと)遺跡からは、湿地に乱立する杭の上に居を構え、大勢の人が住んでいたと思われる集落跡が掘り出されました。その河姆渡から掘り出された炭化米を佐藤洋一郎教授(静岡大学)がDNA解析した結果、“熱帯ジャポニカ”と判明したのでした。

 7,000年前の河姆渡の生活は、漁労民の人びとが生活していたことが窺える遺物が出土しています。河姆渡から東シナ海を隔てて800km余り、どのようにイネが渡って来たのかは現代の科学では解明し得ません。野生の植物が渡り鳥などにより伝わって来たり、潮流により流れ着いた椰子の実などとは違って、食料として栽培する事を目的としているのなら、目的をもって伝わったものと考えるのが自然な事でしょう。

 このことから、朝寝鼻貝塚へ渡って来たコメは長江由来だと云えるとのことです。


 前述の6,000年前という時代の出来事を列挙してみましょう。

 ・今から、7,000年から5,000年前が縄文のヒプシサーマルと呼ばれる時期。・・・(暖かくなった時期)
 ・縄文海進は、6,500年から6,000年前に最盛期と考えられています。この時期、海面は現在より5mほど高く。気温は、1〜2℃高い。
 ・喜界アカホヤ火山は、7,300年前のカルデラ噴火です。
 ・【北海道・北東北縄文遺跡群】の中では、垣ノ島遺跡・北黄金貝塚・大船遺跡・三内丸山遺跡・田小屋野貝塚・二ツ森貝塚。入江・高砂貝塚・是川石器時代遺跡などが該当します。

 【5,000年前頃に、古代エジプト・メソポタミア文明が始まる(以降、各地に文明が興る)】



以下に、前出の佐藤洋一郎教授の“稲のたどった道”をリンクします。 

 

中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分
布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調
べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島
では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
 
 6,000年前に九州から北上していった熱帯ジャポニカは、関東・北陸以北には広がって行かなかったようです。いみじくも、6,000年前頃から気温の冷涼化が始まったのは、冒頭の図のとおりです。一部の学者さんの人口推移などでは、この時期、関東・北陸以北で縄文社会が繁栄していて、三内丸山遺跡の例のように4,000年頃に忽然とその痕跡が消える・・と言われています。それら人口推移の根拠を出土遺跡と、それらの住居跡の規模から割り出された人口ですので、遺跡の発掘がなされていない地域には、縄文時代には人が住んでいなかった事が前提となっています。

 ちなみに、小生の住んでいる市の≪歴史民俗資料館≫の案内にも『当市に人が住み始めたのは、約2,000年前で・・』と、発掘された遺跡が弥生時代であることを根拠に断定しています。つまり、それ以前の遺跡の発掘が無いので人が住んでいなかったと言うわけです。当市から直線距離で数kmも離れていない地域で縄文遺跡が発掘されているにも拘わらずです。

 
 
 

 上図は、現在の日本列島に於ける森林分布図です。ここから、日本列島の気候分布が推し量れます。そして、冒頭の図の人口推移の図を併せて参考にします。縄文時代1万年が終焉を迎え、弥生時代の水稲耕作へと続く時代を一括りには論じることは乱暴と云えます。本稿で論じるイネの栽培と、気候が密接に関連すると思うからです。

 イネの栽培が(上述の朝寝鼻貝塚から出土のイネも、弥生時代の水稲栽培のイネも)広まり北上するのに気候変動が影響している事は当然です。そして、気候とも関連する気温は、高度が100m上がると0.6℃下がるといわれています。そして、上図のように緯度が高くなるにつれて平均気温も低くなっていますが、暖流や季節風などの地形なども影響を及ぼします。つまり、緯度や高度だけでは推し量れないものと云えますし、高い山へ押し寄せる雲による降雨量などの自然条件なども考慮されるでしょう。

 前述の熱帯ジャポニカがいつ頃・何処まで普及していたのかについては、発見される遺跡のプラントオパール分析が進むのを待たざるを得ませんが、前項でイネが栽培され始め普及し始めた頃、北東北では栗の栽培が行われていた事が判明しています。つまり、縄文人は既に食料の栽培に着手していたのです。採集ではなくて栽培が始まっていたのです。
 世界四大文明は、それぞれ大河の流域で生まれ、農業や牧畜での定住生活が始まり、文明が興ったのですが、それらに先んじて、大陸の端っこの日本列島で始まった縄文文化は、驚くべき出来事だったことでしょう。


 さて、右図の時代区分表は弥生時代の早期についての年代較正です。九州北部の弥生早期は、従来から云われてきた説より500〜600年ほど早くなっています。しかし、日本の歴史区分表を作る場合には、何時からが弥生時代でいつからが古墳時代だというように、日本列島の北から南までを一括りで表現してきた『教科書』的表現が誤りなのでは無いでしょうか。


 右図の如く稲作の普及も同様に北へと普及していったものと考えられます。そのことは、小生がこの稿で述べたい「熱帯ジャポニカ」が普及して行ったのは、数千年に渡って北上していったのではないか?
 しかし、その間の気候の変動は北上を許さなかったし、北の縄文文化の“栗の栽培”文化の終焉を迎えざるを得なかった、冷夏の季節に遭遇せざるを得なかったのではないのでしょうか。
 

 さて番組では、長江流域の江蘇省・南京郊外の地層より年代の違うコメを取り出し、『7,000年前から5,500年前の4種類の炭化米の中で5,500年前のコメが現在のコメに近い事を突き止めている』とし、湿地で生育したイネの方が沢山獲れることから、水田で耕作されることとなったことが、温帯ジャポニカへと進化したと考えられています。

 また、温帯ジャポニカは3,000年前には朝鮮半島の南端まで達し、トンサム洞貝塚出土では縄文土器が多数発掘されていて、この地に縄文人が来ていたことを裏付けています。韓国の考古学者は『縄文時代に交流があり、交易に訪朝した縄文人が水田の技術を持ち帰ったのではないか』との見解を述べています。

 佐賀県の菜畑遺跡から日本最古の水田遺跡が発見された。しかし、ここから出土された土器が縄文土器だったことから、縄文人が水田を作っていたことが判明した。つまり、渡来人によって水田が持ち込まれたのでは無く、縄文人により水田が持ち込まれ、渡来人の流入とは関連しない・・と番組では結論付け、上図の時代区分の裏付けとなりました。また、水田稲作の北上は2,000年前には本州最北まで達していたことも裏付けられています。

 番組は最後に青森県田舎館村出土の2,000年前の炭化米に熱帯ジャポニカが混じっていたことが判明し、日本全国の弥生遺跡から出土したコメからも、熱帯ジャポニカの米粒が混じっていることが判ったのでした。佐藤教授は、温帯のイネと熱帯のイネを混ぜて植えることによって、交雑種のイネの成長が両者より1ヶ月も早く実ることを発見しました。このことが、緯度の高い本州最北端の水田での稲作を可能とした・・と述べ、現在では最北の地の北海道・遠軽町で稲作が可能となった事を伝え、番組を締めくくりました。


 
 
≪考察 何故、渡来人は日本列島へ渡って来たのか?≫

 本稿の主題は、冒頭の≪考察2 恵まれた環境と食生活≫の小生の疑問点が解明されたことにありました。イネの伝播と熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの関係性が十分に解明され、説得力のある番組でした。

 さて番組中、解明されない問題点・・≪渡来人は何故、日本列島に押し寄せたのか≫については、植物学者では解明できません。そして、韓国の考古学者の「交易に訪れた縄文人が水田の技術を持ち帰った」などの憶測では、何ら説得力に欠けるものでしょう。この件については小生の
【日本人を科学する】の主張が説得力があります。朝鮮半島から種もみを持ち帰ることが出来ても、ノウハウや技術は持ち帰れません。このような異文化の交流については人的交流が伴うもの思います。水田耕作という新たな文化をもたらしたのは、少人数の人たちではなく多数の難民だったという小生の提起こそ説得力があるものと考えますが、このことは、小生も触れているDNA分析こそがその拠り所なのだと考えます。


 日本列島で稲作が始まった年代については上述の通り、新たな遺跡の発掘から証明されます。