縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 「平城貝塚里帰り展」 於:御荘文化センター

平成30年3月1日(土)〜5月6日
 2018年3月17日(土)

 愛媛新聞の記事から、以下の紹介記事が目に留まりました。昨年来、この遺跡の常設の展示場(平城交流センター)には訪れていました。その際、「出土遺物の一部は、貸し出されたままでいます」と学芸員さんから聞かされていました。その遺物が里帰りするとの記事でした。


≪縄文時代の愛南知ろう≫として、
愛南町にある四国最大級の貝塚「平城貝塚」(縄文時代後期)で1954年に実施された第1次調査の出土品などを集めた「平城貝塚里帰り展」(町教育委員会主催)が、同町御荘平城の御荘文化センターで開かれている。5月6日まで。



四国最大級の貝塚「平城貝塚里帰り展」 第1次調査中心に70点   2018年3月14日(水)(愛媛新聞)

 愛媛県愛南町にある四国最大級の貝塚「平城貝塚」(縄文時代後期)で1954年に実施された第1次調査の出土品などを集めた「平城貝塚里帰り展」(町教育委員会主催)が、同町御荘平城の御荘文化センターで開かれている。5月6日まで。
 今回の展示品約70点は、第1次調査を担当した元愛媛大教授の故西田栄さんや県教育委員会が保管してきた。町が文化財の地元での活用を図ろうと、2017年に県教委に譲与を申請して許可され、60年以上の時を経て出土地に戻ってきた。
 首の部分に波が崩れるような文様が特徴的な「平城T式土器」や、イノシシの牙や貝で作った装飾品を展示。貝塚で見つかった埋葬人骨のパネル紹介や土器パズルコーナーもある。
 町教委生涯学習課の松本安紀彦係長は「平城貝塚は地元で意外と知られていないので、愛南町の歴史の深さに触れてほしい」と話している。
 開館時間は午前9時〜午後4時。毎週火曜日、4月21、22日は休館。問い合わせは同課=電話0895(73)1112。


 上記、新聞記事の切り取りを携えて、御荘文化センターへ出向きました。前日には、冬季タイヤから夏タイヤへの交換を済ませた愛車は、快調に松山道から宇和島道路へと走り愛南町へ入ると、須ノ川のレストランで昼食です。
 このレストランは、しばしば利用していますが、目の前には海水浴場があり、温泉施設があるレストランとなっています。ここは、旅行社のルートにも組み込まれているようです。言える事は、まず万人が驚くのは、受付の青い目(?)のご婦人に会った際でしょうね。

 御荘文化センターは、旧道を走っていると直ぐに分かります。このぐらいの町は、役場や警察署や郵便局・NTTなどが一所にあるとしたものです。


 文化センターはあまり照明が点いてなく、人影も見掛けません。ホールの案内にしたがって行くと、展示室は真っ暗でした。相棒が右手の扉を開けて、事務員に訪問の訳を伝え照明のスイッチを入れてもらいました。展示のケースの壁面に掲げられているパネルには、以下の文が書かれていました。



≪平城貝塚里帰り展に際して≫

 この度は、平城貝塚里帰り展に足をお運びくださり、心から御礼申し上げます。
 平城貝塚につきましては、これまで6度の発掘調査が行われてきました。しかし、町内で保管されてきたのは、主に第4次調査と第5次調査で得られた遺物でした。
 本年度より愛南町は、国宝重要文化財保存整備費補助金という、国の補助事業を活用し、平城貝塚そして町内に所在する埋蔵文化財の再評価に向けて動き始めました。
 これを契機に、町外で保管されてきた平城貝塚などの出土遺物を町内に戻し、その調査研究はもちろん、地域の宝そして地域を理解する為の教材として活用してまいります。

 この度の里帰り展は、本年度町内に戻った平城貝塚第1次調査と第3次調査で得られた出土遺物、そして昭和52年・昭和56年に出土していた資料の内、基礎的な整理作業が進んだものを中心に、展示しております。
 当町に戻るまで、長い期間にわたり保管と活用に取り組んでこられた愛媛県教育委員会と愛媛県歴史文化博物館に敬意を表すると共に、遺物を戻すことにつきましてご理解とご協力を賜わりました皆様に、心から御礼申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。


      平成30年3月1日
      愛南町教育委員会
      教育長 中村 維伯





以下に展示遺物を紹介します

≪平城貝塚第1次調査−平城T式の世界−≫

 考古学においては、新しく発見された土器について、それが発見された遺跡の名前をつけることがあります。

 西南四国の縄文土器では、伊吹町式(宇和島市伊吹町遺跡)の他、宿毛式(宿毛市宿毛貝塚)、片粕式(土佐清水市片粕遺跡)などがあります。

 平城貝塚でも、平城式と名前をつけられた土器があります。これはT式とU式に分けることができるのですが、両者の関係を巡り、全国に知られた存在となっています。

 平城T式の器の形は、胴部がやや張る深鉢形を基本とします。その文様は、磨消縄文を基調とし、胴部は三角形の大まかな意匠の内で波が渦巻くような文様を描きます。

 最も特徴的なのは、器の頸の部分に、波が浜に打ち寄せてその頭がまさに崩れていくような意匠であって、この意匠は平城T式の後に続く土器に引き継がれています。

≪平城貝塚第1次調査−鐘崎式の世界−≫

 鐘崎式は、福岡県宗像郡宗像市に所在する鐘崎貝塚から出土したことから名前がつけられた土器です。

 九州を中心に、その分布の拡がりが確認されています。四国では、太平洋沿岸の高知県にその主要な分布があり、大月町尻貝遺跡や、南国市田村遺跡群での出土がよく知られています。

 他には、滋賀県で出土した事例があり、極めて広い分布の拡がりを持つ土器であるといえます。

 鐘崎式の器の形は、胴部が大きく張る深鉢形を基本とします。その文様は、磨消縄文を基調とし、胴部は平城T式と似た意匠となっています。

 平城T式と大きく異なる点は、器の頭の部分に把手が付いていることで、そこに施された文様は、平城T式の波頭状文を継承しているとして理解されています。
≪平城貝塚第1次調査−平城式の外の土器−≫

 これまで見てきた通り、平城T式と鐘崎式は、器の形や文様に共通した部分があります。両者を時間の流れの中で考えた場合、平城T式の存在があって、鐘崎式が生まれた、という風に考えることができます。

 しかし、この考え方では理解できない土器が幾つかあり、これらについて「平城式の外の土器」として展示しています。

 斜めの台の上に展示してある4点は、いずれも器の口の外側に、凹んだ線と点で構成される文様を施しています。また胴部の文様は、平城T式と同じ磨消縄文であるものの、その意匠は全く異なっています。

 平たい台の上に展示してある2点については、上の個体の意匠は、細い繊細な条線を左右交互に施したもので、京都府の遺跡から出土したものに似たものがあります。
 下の個体も上の個体と似たような意匠であると思われ、香川県の遺跡から出土したものに似たものがあります。

 
 
≪平城貝塚から出土した土器以外の道具≫

 土器の他には石器や、動物の骨や角または牙を利用した道具、そして貝を利用した道具があります。

 イノシシの牙を利用した装飾品は、牙の根元に孔を開けています。これについては、これまでの類例の調査から、男性の耳飾りであった可能性が高くなってきました。
 動物骨を利用した装飾品は、何枚も同じ部品を連ねて、首や胸を飾った道具の可能性を考えています。

 貝を利用した装飾品は、手首を飾る貝輪であって、女性が身につけたもののようです。
 魚骨を利用した針は、漁に使う網などを繕う道具であったのかもしれません。

 一点だけ石器を展示していますが、これは石斧の一種です。小形であり、上下に刃先がある特異なものです。木や獣骨または角などに小細工を施すことを目的とした道具であった可能性が高い、と考えています。

≪平城貝塚から出土した土器以外の道具≫

 昭和62年に、平城貝塚での開発時に出土した道具です。所在はまだ分かっていません。
 鹿の角を加工したもののようで。女性の髪を飾るための道具として考えられます。
 角を削ってこの長さにし、頭には線を刻んで文様を施しています。また、孔をあけていますので、もしかしたらここに房のようなものをつけていたのかもしれません。平城人のオシャレを考える上で貴重な資料です。

 
 
 上掲の鹿の角の加工品が行方不明だそうです。この写真が撮られてから半世紀が経っています。このような話をあちこちで聞きますが、どういう管理なのでしょうか。

 後の欄でも触れますが「某大学にて保管している」などの話は酷い話で、まだ「どこそこの博物館所蔵となっている」と日の目を見ている方がまし・・、なのかもしれません。


 

≪平城貝塚第3次調査出土器≫

 昭和47(1972)年に、四国銀行御荘支店横で行われた家屋の取り壊しと駐車場建設工事に先立って、調査が行われています。以下が、概要報告における出土品です。
 ・平城式土器片 150点
 ・石器類 21点
 ・石 錘  2点
 ・土 錘  1点

 ・骨 針  3点
 ・貝 輪  1点
 ・骨角器  4点 その他貝類、獣骨、魚骨

 今回展示したのは、比較的大きな土器の破片12点です。第1次調査で出土した土器と同じものもありますが、器の形や文様において異なるものが多く見られます。

 これにより、平城貝塚を残した縄文人が持っていた土器の文化は、第3次調査を通して、4つ以上あることが考えられます。


≪昭和52年出土土器≫

 平城貝塚の範囲内で、家屋の玄関を改修した時に採集された土器です。

 正式な発掘調査によるものではないのですが、第1次調査や第3次調査で主体的に出土した土器とは大きく異なります。

 薄手の土器で、頸の部分が大きく屈曲します。また、胴部の文様は、縄文地に凹んだ線で文様を施しています。その意匠は、線で描いた三角形様の模様の中に、「S」字状の文様を施すものです。口の部分に突起を作り出すものもあります。

 これらは、第5次調査を指摘され、長年にわたって平城貝塚の調査研究に取り組んでこられた犬飼徹夫先生により、「平城上層式」と名付けられ、土佐清水市片粕遺跡で名まえがつけられた片粕式の影響を受けて発生したものとして理解されています。

≪昭和56年出土土器≫

 平城貝塚第4次調査が同じ年に行われていますが、これらの土器はその調査によるものではないようです。

 おそらくは、水道工事であるとか、個人宅の庭先を整えた時に採集されたものと考えられますが、詳細についてははっきりとしていません。

 土器の破片がこれまで見て来たよりも小さいものが中心なのですが、付着している白い物質より、貝塚から出土したものであることが伺えます。この白い物質は、貝のカルシウムが溶けたもので、英語で「トラバーチン」、日本語では「石灰華」と呼びます。

 上から三段目の左端の土器には、それがはっきりと付着しています。ちなみに、この土器に開いている丸い孔は、「補修孔」といい、土器が割れても破片と本体の両方に孔を開けて、紐で結わえ付けて使い続けた証拠として理解されています。

 
≪平城貝塚から見つかった埋葬人骨について≫

 縄文時代の貝塚では、貝塚を作った縄文人が葬られ、現代になって発掘されることが少なくありません。これについては、死者の再生を願う行為とする研究があります。

 貝塚においては、貝自体に含まれるカルシウムが、埋葬された縄文人の骨を酸性の土壌や水分から守る働きをするため、それが現代まで残ることが多いのです。

 平城貝塚における確実な事例としては、現在のところ15人分の埋葬人骨が発見されています。かなり昔に出土したものの、それを哀れに思った当時の人が、丁寧に埋葬し直したという記録もあることから、貝塚に埋葬されている縄文人の数は15人分を越えるものと思われます。

 平城貝塚においては、第4次調査で発見された第3号人骨がよく知られています。これについては、骨の特徴から縄文人のものであること、そして十代前半の女の子のものであることが分かっていました。

 10年程前から、人骨を更に深く調べることのできる科学分析の手法、例えばどんな食生活を送っていたのかが分かったり、1万年を超える縄文時代の中で、どの時期に生きていた人なのかが分かる技術が確立されるようになりました。ここ最近は、その制度が向上してきています。

 本年度、その手法を用いた分析を第3号人骨について行い、新たな情報を手にすることができました。
 今回は、その新たな情報について展示すると共に、新潟大学で保管されている人骨についても、その所在の確認と保管状況、そしてどのようなことが分かってきたのかについて調査を行いましたので、併せて紹介いたします。

 



 平城貝塚の埋葬人骨は、新潟大学の医学部に保管されています。小片保という人類学の先生がご健在の時に、日本全国から古い人骨が研究のため、先生の手元に集まってきました。
 愛媛県からは、久万高原町の上黒岩岩陰遺跡や、西予市の穴神洞穴などのものがあります。
 平城貝塚の埋葬人骨は、当時の関係者から小片保さんに研究をお願いして、今に至っています。(パネル左写真)
 これが、新潟大学医学部に保管されている、平城貝塚の埋葬人骨の一覧表になります。すべてで11人分の埋葬人骨となります。
 この中で、B群の人骨番号8とされている人骨が、今後非常に興味深い事例となると考えています。
 性別は女性である可能性が高く、十代前半に亡くなっています。しかも『仰臥伸展位』という、大人と同じ埋葬のされ方をしています。(パネル中写真)
 3箱の中で、これがその人骨に該当する可能性が高いと判断しました。骨が他のものに比べて細く小さいことがその証拠です。
 実は『仰臥伸展位』という大人と同じ埋葬のされ方をしている10代前半の女性というのは、平城貝塚ではもう1人います。
 それが、第4次調査で発見された第3号人骨であり、この人骨は、平城公民館平城貝塚展示室で展示されています。(パネル右写真)


 平城貝塚第3号人骨について、昨年末までに分かっていたことは、以下の通りです。

 ・骨と骨格は、縄文人の特徴を示している。
 ・十代の女性のものである。
 ・出産した痕跡は認められない。
 ・抜歯などの、成人であることを示す身体的特徴は認められない。
 ・頭の側で大きな礫が幾つか発見されており、これは埋葬された時の風習として考えられる。
 ・胸から数多くの小魚の骨が出土しており、これは現代の“お供えもの”にあたるものとして考えられる。
 ・左側の肋骨の側から、スクレイバーと呼ばれる石器が出土しており、生前の彼女の持ち物として考えられる。


 平城貝塚第3号人骨について、昨年末に新しく分かったことは、以下の通りです。(※国立歴史民俗博物館の教授である山田康弘先生の研究)

 ・骨に含まれる炭素14という物質の年代測定の結果、平城貝塚から出土する土器の年代に相応わしい年代値が出た。

 ・骨に含まれる炭素/窒素安定同位体の比率を比べることによって、主に海産物を食べていたことが分かった。

 ・未成年であるが、『仰臥伸展位』という、“成人の埋葬の仕方”で埋葬されている。

 平城貝塚第3号人骨の少女は海産物が大好きで、亡くなってからもお供え物をされたり、大事にしていた物と一緒に葬られたり、大人と同じ埋葬の仕方をされており、ムラの中で大切な存在であった可能性が極めて高いと思われます。
 新潟大学に保管されているB群の人骨番号8の縄文人も、同じような存在であったのかもしれません。



 先に引用のとおり、少女の人骨が2体も出土するのはどういう事なのでしょうか。それも、2体とも同様に丁寧に埋葬されていたという事です。どうして若い娘さんが葬られたのかは、判らないままの方がミステリアスで良いのかも?

 しかし解明してほしいのは、当時の人々の生活様式などであります。縄文集落と云えば、四国地域では三内丸山遺跡に代表されるような遺跡から当時の生活の様子が再現される、というような大規模な集落跡が未だ発掘されていません。そのことは、四国地方でも弥生以降の遺跡では大規模な集落跡が発掘されているのと比べ、大きな違いがあります。

 今回展示されている出土遺物には、完全な形で発掘された土器類は見つかっていません。前述の中部地方以北(東日本)での、大量に発掘される土器の量と比べ、土器片しか見つからない四国地方の遺跡の差は、一体、何なんでしょう。ここで一考、現代なら不燃物の処理に「埋め立てゴミ」として大量に埋設処理をしています。もしも明日、大規模な噴火に遭って全ての人々が死に絶えてたとしても、文字を始めとした記録媒体が残されているので、現在の我々の生活を再現することが可能です。そんな記録の残っていない“有史以前”の出来事を推測することは非常に困難を伴います。

 しかし、集落跡から大量の土器などの生活道具が見つかる事の方が不思議と考えるのは無茶なのでしょうか。大量の埋蔵物の発掘が、先程例に出した“捨て場”だとしたら不思議ではありませんが、真に“捨て場”だとしたら“大量のかけら”の筈で、大量に復元出来る土器が掘り出せるのが不思議・・との感想なのです。

 さて、長年使っていた集落を廃棄する場合にその契機が、事前に住まいを準備出来る場合と、移動する場所が不確定の場合とで、前記、生活道具を持参するか否かが分かれるのでしょう。そして、ある時期だけの集落跡の遺跡と、“複合遺跡”と呼ばれる縄文時代から弥生時代、そして近代まで続く集落跡が見つかる場合があります。その違いは何でしょうか。


 不明な点の解明は、解明できなくてもよい場合もあります。これは、人によっても異なるとは思いますが、1万年以上の前の事・・ミステリアスなこととして後世に残されることもアリかな。



帰路、松山自動車道で工事中の≪中山スマートIC≫で見つかった『高見T遺跡』へ寄る事としました。

 その様子は、コチラから