縄文文化を巡る!   
 2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州)
吉野ヶ里(2020年2月12日)

 今日はJRの『ローカル線の旅』が待っていた関係で、朝早くからの行動でした。それが功を奏したのか、予定していた電車の便よりも早く『吉野ヶ里公園駅』に着きました。

 末蘆館から唐津駅まで歩いて、吉野ヶ里公園までの行程は以下のとうり、

  
唐津(10:20)→久保田(11:22、11:38)→吉野ヶ里公園



 吉野ヶ里公園駅に着くと、外は雨が降り続いています。事前に得てた情報では、駅からはさほどの距離では無いとのことです。しかし、改札口で駅員に尋ねようとしても、オバサンが何か切符を見ながら駅員と話しています。何分待っても埒はあきそうもありません。相棒はエレベーターの前であきれ顔です。


 結局、コインロッカーもコミュニティバスの停留所の場所も分かりません。仕方なく、駅前のタクシー乗り場に停まっていたタクシーで移動することとなりました。(後日談:コミュニティバスは北口から出ていて、一日5便の100円バスとの事で、所要3分)
 駅(南口)からは、タクシーで5分も掛かりませんでした。

 吉野ヶ里公園の広大な駐車場には、殆ど車は見えません。タクシーは駐車場の入場をパスし、タクシーの乗降場所で停まりました。結局、12時過ぎに吉野ヶ里公園に着きました。駅前には食事の可能な店も目につかないままタクシーに乗ったので、「軽食でも食べれたら良いか」と相棒と話しながら来たのでした。雨が降りしきる中、正面の階段をスーツケースを持ち上げながら正面玄関へ着きました。

 右手に受付が見えましたが、左手にレストランの表示が目に入ったのでした。丁度昼時なのに、だれもテーブルに座っていません。窓際の席に荷物を置いていると、年配の夫婦らしき方が食券を買い終わったところでした。私たちは軽食で良かったのですが、『古代貝汁御膳』を購入。



 大きなレストランで席に座っているのは、先ほどの年配のペアと私たちだけの食事でしたが、私たちが食後のコーヒーを飲む頃には、10人余りの若者尾集団がどかどかと入ってきました。

 さて、売店の女性から入手したコインロッカーは、手荷物程度が入れれる程度の大きさで、私たちのような旅行者が持つスーツケースは入りません。結局、案内所の女性に「荷物を預かってもらう場所は無いですか?」と声を掛けました。女性は「こちらで預かりますから」と、引換券を渡されました。


いつものように、下記にこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。


【AMS法による区分】

草創期   15,000~12,000年前
早期     12,000~7,000年前
前期     7,000~5,500年前
中期     5,500~4,500年前
後期     4,500~3,300年前
晩期     3,300~2,800年前


【関連リンク先】 吉野ヶ里歴史公園 右図参照(クリックで拡大)
 
 ・2月11日(火)  松山  ~岡山 ~博多 ~大野城(コミュニティバスで大野城心のふるさと館を往復) 博多  ~姪浜(経由) ~東唐津(泊)
 ・2月12日(水)  東唐津  ~(末蘆館)唐津  ~吉野ヶ里公園(タクシーで往復)  ~鳥栖(泊)
 ・2月13日(木)  鳥栖 ~新鳥栖 ~熊本 ~山鹿市(山鹿市立博物館まで往復) ~ 熊本城観光 ~ 熊本 ~鹿児島中央(泊)
 ・2月14日(金)  鹿児島中央 ~鹿児島県歴史資料センター ~鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~上野原縄文の森 ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)  霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)  ~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)   宮崎市  ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
 
 

 小雨が降り続いている中、歴史公園センター(東口)で入場券を購入し、ゲートを抜けると『天の浮橋』と名付けられた橋を渡ります。ボランティアガイドのオジサンが園内周遊バスの乗り場の案内をしていましたが、私たちは自身の足の向くままの行動とします。

 最初に訪れたのは『弥生くらし館』です。尚、小生が博物館などを巡っている契機は、縄文文化にこそ興味がわいたのが最初だという事は、述べました。そして、今朝からの菜畑遺跡と、吉野ヶ里公園についても、主には弥生時代以降の遺跡です。



 弥生くらし館に入ると、下に示す案内とともに、壁面一杯に飾られていたのが魏志倭人伝でした。


【魏志倭人伝をよむ】

 邪馬台国を語る場合、わが国の伝をのせる中国正史を読めといわれます。その中で最も忠実(史実ではないか?)に近いといわれるのが通称『魏志倭人伝』で、日本古代史に関する最古の資料です。この二千字余りの文学資料は、いうまでもなく『三国志』の中の『魏書』東夷伝倭人の条をさすものです。魏が滅んだ後、晋の歴史家の陳寿が撰したもので、3世紀の後半頃に成立しました。
 倭の嬢王卑弥呼の魏との通交、卑弥呼の死。宗女壱与(台与)の王位継承、そして彼女の通交と、これらのことが魏の景初三年(239)から正始八年(247)を含む、250年代頃までのこととして述べられています。『魏志』の成立まで、あと30年ほどの時代です。
 さて、撰者・陳寿の、」倭人伝が末尾につく「東夷伝」の撰述目的は、大きく二つあるようです。一つは、四夷(南蛮・北秋・東夷・西戒)の変に備えるための「軍事情報」の収録です。二つは、「風俗」の収録です。習慣、生活、制度など、各地の詳細で様々な情報を取りまとめています。
 いずれにしても、邪馬台国については、『魏志倭人伝』の発する二千字余りの文学資料を基本としながら、考古学の発掘調査成果、それに『古事記』・『日本書記』・『風土記』などの多くの分野の研究成果を統合しながら、総合的に研究を進めていくことが必要と思われます。

 
 

 上記で、一部の考古愛好家の『古事記』『日本書記』の記述がさも史実かのように語られることに対して、『魏志倭人伝をよむ』が正史として扱われていることが好ましく感じます。しかし、この史跡公園を見て廻って、改めて感じる事が何点かありました。そんな『新たな考察』については、後述する機会があるものと思います。



 【南の一家】

 


 【南のムラ】

 


 【「国」の蔵と市】

 


 


  

 さて、【弥生くらし館】を出ると、遺跡の広場を巡ります。男性が一人先を歩いていきましたので、後をついていきます。まずは【祭壇】と名付けられている小高い場所です。そこからは、公園の外のJRの線路なども望めます。そして、復元住居が点在する方へと足を向けます。

 先ほどの人も、住居を覗き込んだりしていました。この住居群は【南のムラ】と名付けられていました。集落の中、道が続いていて【やよいのみち】と名付けられていました。環濠を抜けると道路標識が建っていました。環濠
の脇にはさながら砦のように木の防護柵が巡らされています。

 そして高床の造りの倉が立っている場所に出てきました。そこには【倉と市】と名付けられていました。ぐるっと一回りして、先ほどから見えていた櫓の場所へと向かおうとしますが、環濠に邪魔されて、そこへは【倉と市】の入り口まで戻りました。環濠の規模は大掛かりなものでした。さながら、戦国時代の城を彷彿とさせます。



【南の一家】

この一家は農作業をしながら、祭壇での儀式の手伝いや、西側の出入り口の警護をしていました。



「南のムラ】

環濠集落の南部にある「南のムラ」は、庶民が暮らすムラです。人々は農耕や生活に必要な様々な道具作り行いながら、北内郭や南内郭の支配層の生活を支えていました。


【「国」の倉と市】

南内郭の西側にあるこの地域は、吉野ヶ里の「国」の倉と市7があったと考えられています。倉は、厳重に壕と柵で区画され重要な物資を収める倉、税を収める倉、市にかかわる倉などがあります。市は、南や西の広場で開かれ、各地からたくさんの人が集まります。中央には、市を管理する建物もあり、その二階では太鼓と旗で市の開催を知らせます。




 【南内郭】

 



 

 

 
 
【南内郭】は、防護柵の中にありました。物見櫓が四方に建つ中、この『ムラ』の主が住んでいたものと思われます。以下に解説板より引用します。


【南内郭】

南内郭は吉野ヶ里の「国」の「大人」たちが暮らしながら、「国」の政治を執りおこなっていた場所と考えられています。要所に物見櫓があり、広場を中心に「王」や「大人」の竪穴住居や煮炊屋、集会の館があります。「大人」たちの中で、最高の権力者が「王」と考えられています。
 





【北内郭・北墳丘墓・中のムラ】


 

 

 


 南内郭を出て『ひみかのみち』を進むと、中のムラと呼ばれる場所ですが、こちらは素通りとしました。続いては、北内郭ですが、工事の業者さんが屋根の葺き替え工事をしているようでしたので、こちらもパスします。戻ってきた年配のペアは、食堂で私たちより先に注文していた夫婦で、すれ違いざま挨拶を交わしたのでした。続いて甕棺墓列と呼ばれる場所ですが、こちらも大規模な足場が組まれていて詳細には見れませんでした。墳丘らしい場所を北側へと回り込むと、入り口があり受付らしいコーナーには男性が座っていました。墳丘墓の中へ入ると、公園では初めて、たくさんの人が見学していました。食堂で出会った若い人たちの集団でしょう。



【北内郭・北墳丘墓・中のムラ】

環濠集落の最も北にあるこの地域は、吉野ヶ里の「国」の、まつりごと(祭りや政治)の中心であったと考えられています。北に歴代の王の墓があり、その南にまつりごとを行う」北内郭の西側に特別な倉庫群と北内郭の行事を補佐する人たちが住む、中のムラがあります。




  墳丘墓には、下のパネルが掛けられていました。小生、随分大掛かりな墳丘墓の規模には驚きました。弥生時代以降の古墳時代ならまだしも、それに先立つ弥生時代にこのような大掛かりな墳丘墓が造られていたのですね。これから想像するに、冒頭にも引用した【魏志倭人伝】に登場した卑弥呼の墓は、大規模なものであることは間違い無いでしょう。またこの場所からは、そんなに離れてはいない場所に存在していたものとも思えます。



【北墳丘墓の発掘と保存整備】

概要
北墳丘墓は、平成元年と平成4年の2回に分けて発掘調査が実施されました。平成元年3月に開始した発掘調査では、トレンチと呼ばれる溝を段丘に掘り、甕棺7基と銅剣5本、ガラス製菅玉等が多数出土しました。これらの出土品が注目された結果、4月からは、遺跡の全容解明のための確認調査が実施されました。また、平成4年には、北墳丘墓の再発掘が行われ、新たに甕棺7基と銅剣3本などが出土しました。
(以下、略)


 



 先の卑弥呼の記述に関連して『倭国大乱』について、記しておこう。いつものように、Wikipediaよりの引用です。


倭国大乱  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。

概要

女王国ではもともと男子を王としていたが70〜80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の正史『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』「東夷伝」に記述されている。ただし、三国志は、単に「乱」であり、「大乱」でない点に注意が必要である。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)

「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」

其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

『後漢書』卷85 東夷列傳第75

「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」

桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

以下の3正史の記述は上記2書の単なる引き写しである。

『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭

『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國

『北史』卷94 列傳第82 倭國

三国志も後漢書も、争乱の時期を2世紀後半としている。



 以上は中国の歴史書からの引用ですが、この時代には現在の日本列島に住む人(我々の祖先である人々)は、文字を持っていませんでしたので仕方がありません。この時代からおよそ500年後(古事記:712年、日本書記:720年)に、記されている書物が最古の記録とされています。ちなみに、仏教の伝来はそれに先立つ513年というのが通説となっています。


 小生が古事記や日本書記の記述を頭から信用していないのは、500年前の出来事を記憶している人が居るのだろうか? という事です。現在の出来事に例えれば、500年前の出来事は?

応仁の乱(1467~1477)が起こって、1489年に銀閣寺が完成しています。織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も生まれていません。


 つまり、文字の無い時代(記憶媒体が無い時代)に、500年前の出来事は判りようがありません。もっとも、文字などで残っていても、その出来事が正確なものかどうかは不明ですが・・。真実を語っているのは、掘り出された遺物から明かされた事実のみでしょう。

 
 

【展示室】は、入場口の東口へと戻る途中の南内郭への入り口の横にあります。相変わらず雨が降りしきる中、瀟洒な建物があり中には一人留守番の方がいました。

 展示室内は、こじんまりとした展示となっていました。壁面に掲げられたパネルに以下の案内がありましたので、引用しておきます。



縄文と弥生の時代区分

 縄文・弥生の時代区分は、研究者によって諸説あり、学問上のもんだいとして現在進行的な課題といえます。
 一例として、縄文土器が作られ、使われていた時代・文化を『縄文時代・文化』、弥生土器が作られ、使われていた時代・文化を『弥生時代・文化』、とした区別方法があります。
 また、縄文時代の生活様式の狩猟や漁労を中心とし、それによって培われた時代・文化を『縄文時代・文化』、その後、水稲稲作が、大陸から伝わり、発展していき、それによって培われた時代・文化を『弥生時代・文化』とする考えかたなどがあります。他にも様々な、研究や考え方があります。
 稲作に関する遺物・遺構が縄文時代の晩期後半(終わり頃)に当たる時期の遺物からも見つかっています。
また、稲作農耕は日本全体に一斉に伝播したわけではないので、地域によっては、土器の変革に重きをおいた区分方法をとる地域もあります。弥生人と呼ばれる大陸からの渡来系(渡来人と縄文人との混血人も含む)の人々の出現に伴い、文化の発展が促されていきました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壁面に掲げられたパネルには、『稲作のはじまりとムラの誕生』→『ムラの発展と戦いのはじまり』→『戦いのはじまり』→『吉野ヶ里首なし人骨の謎』→『新たな技術の導入と首長の出現』→『首長の出現』→『はなやかな装い』などのパネルとなっています。

 吉野ヶ里公園の東口のゲートを出たのは、15時45分になっていました。実に三時間余りの見学となりました。入場の際に預かってもらったスーツケースを受け取り「次のコミュニティーバスは何時ですか?」と尋ねると「今日のバスは、終わりました」との返事で、仕方ありません。タクシーを呼んでもらったのでした。
 後日、バスの時刻表を確認すると、

  
吉野ヶ里公園駅北口   吉野ヶ里歴史公園    吉野ヶ里公園駅北口
     8:37   →   8:39    9:08  →   9:12
     9:47   →   9:49   10:18  →   10:22
    10:59   →   11:02   11:28  →   11:32
    13:09   →   13:12   13:38  →   13:42
    14:19   →   14:22   14:48  →   14:52


 でした。タクシーで駅へ向かい、吉野ヶ里公園から鳥栖までは普通電車に乗りました。さて、明日は新幹線にて熊本へ向かいます。鳥栖駅に到着してまず確認するのは、明日の朝の新幹線(新鳥栖発:8:13)へ乗るには、鳥栖発の電車の時刻は何時の便に乗るのか? という問題です。

 確認が済めば終了で、準備万端。後はホテルへ直行で今日の全行程は終了です。



尚、今回のフルムーンの旅に出る前から騒動となっていた『新型コロナウイルス禍』により、日本各地否、世界各国が大騒動となっています。

後日、吉野ヶ里遺跡公園のホームページにて


【2/29日(土)~3/15(日)  一部施設を除く  屋内施設閉鎖及びイベント中止】

のお知らせが発表されました。