縄文文化を巡る!   
 2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州)
上野原縄文の森・展示館(2020年2月15日)


 朝一番の『姶良市歴史民俗資料館』を出たのは10時半頃でした。駐車場で再びナビを起動して、次の行き先は『上野原縄文の森』です。朝方の移動は鹿児島市内へ入って九州自動車道を利用しましたが、次の目的地までは地道を選んでいます。
 姶良市歴史民俗資料館を出ると、直ぐに国道10号線を行きます。やがて左手へと案内が『上野原縄文の森』の案内が出てきました。取付道路へと入ると、ぐっと交通量は減ってきました。そして、
駐車場に車を停めたのが11時20分頃でした。

 今日は土曜日ですが、駐車場に車はボツボツとしか停まっていません。道を隔てた向こう側に展示館がありました。



 いつものように下記には、小生がこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。

【AMS法による区分】

草創期    15,000~12,000年間
早期      12,000~7,000年前
前期      7,000~5,500年前
中期      5,500~4,500年前
後期      4,500~3,300年前
晩期      3,300~2,800年前




【関連リンク先】上野原縄文の森 

  


 
 ・2月11日(火)  松山  ~岡山 ~博多 ~大野城(コミュニティバスで大野城心のふるさと館を往復) 博多  ~姪浜(経由) ~東唐津(泊)
 ・2月12日(水)  東唐津  ~(末蘆館)唐津  ~吉野ヶ里公園(タクシーで往復)  ~鳥栖(泊)
 ・2月13日(木)  鳥栖 ~新鳥栖 ~熊本 ~山鹿市(山鹿市立博物館まで往復) ~ 熊本城観光 ~ 熊本 ~鹿児島中央(泊)
 ・2月14日(金)  鹿児島中央 ~鹿児島県歴史資料センター ~鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~上野原縄文の森 ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)  霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)  ~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)   宮崎市  ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
【当初の計画】
 
 
 ・2月14日(金)  鹿児島中央  ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ ~鹿児島県歴史資料センター 鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)   霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)  宮崎市  ~上野原縄文の森 ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
 


 今日は朝一番で『姶良市歴史民俗資料館』の見学を終え、ここ、上野原縄文の森では夕方までの時間の余裕があります。只、昼食が取れるかどうかの確認が出来ていなくて一抹の不安はありました。もっとも、今朝は旅館での腹いっぱいの朝食でしたので、軽食で十分なのです。

 そんなことはさて置き、玄関ホールの台にはアルコール消毒液が置かれていて、受付のお嬢さんはマスク姿でした。先日来、『新型コロナウイルス感染症』の日本での感染拡大を心配しての予防策でしょう。まだまだこの時点では、九州各県での感染者はボツボツしか報告されてはいませんでしたので・・・。


 さて、ここ縄文の森では、『あっと、驚く』エピソードが二題あります。そんなエピソードの一つ目を紹介できるのは、一時間余り後。


 そして、いつものように展示品の紹介などについては、右写真で示す、『常設展図録』にもとづきます。以下に目次を書き出します。


1 9500年前の上野原
2 7500年前の上野原
   [トピックス展示1] 縄文クイズラリー
   [トピックス展示2] 火山灰は語る
3 南の縄文文化
   [トピックス展示3] 縄文の交流
   [トピックス展示4] 縄文時代の食事
4 考古学ギャラリー
5 考古学研究室
6 縄文ワンダーランド
7 映像コーナー
8 鹿児島県上野原縄文の森について


 



≪1 9500年前の上野原≫
 

9,500年前の上野原
鹿児島湾をのぞむシラス台地に
縄文人たちはいきいきと生活していた。

 約9,500年前、九州南部はブナやクヌギなどの落葉広葉樹を中心とした森におおわれ、今より寒い気候であったと考えられています。人びとは、複数の竪穴住居から成るムラを中心に、狩猟や漁ろう・採集など季節に応じた生活をしていました。

    

貝殻で文様をつけた独特の土器が、
九州南部にひろまった。

 上野原遺跡で使われていた土器には、貝殻で文様がつけられていました。口の形には、円形・方形・レモン形の3種類があります。このような土器は、九州南部に分布しており、文様や形などにこの地域の独自性がうかがえます。

     


  

  


森に生きた上野原の人びとは、
さまざまな石の道具を使っていた。

上野原遺跡周辺には落葉広葉樹を中心とした森が広がっていました。石器には、木の実などをすりつぶす磨石や石皿が多数あります。このほかに、木の伐さいや加工を行う石斧や、狩りの道具である石鏃なども出土しています。豊かな森の恵みを受けたさまざまな営みが想像できます。




≪2 7500年前の上野原≫


気候の温暖化による環境の変化のなかで、
人びとは多種多様な道具を生み出し、
生活を豊かにしていた。


日常生活に使われた道具
 このころになると九州南部はさらに暖かくなり、シイやカシなどの照葉樹林が広がると、その環境にあった植物や動物が増えてきました。
 上野原台地の人びとは、生活を豊かにするため、さまざまな形や大きさの道具を工夫して作り出しました。また首飾りや耳飾りを身につけ、土器には複雑な文様をつけるなどゆとりある生活を送っていたと考えられます。


台地に埋められた一対の壺形土器や
環状に出土した遺物のひろがりは
なにを意味しているのか。                    
【右写真:埋められた一対の壺形土器】





 
 
多種多様な道具


土偶
 人をかたどった土製品です。頭と両腕を簡略化し、乳房を小突起、肋骨を細い線で表現した女性像で、九州最古の土偶です。


古の美術品


発掘当時は西日本で最古の土偶でしたが、その後三重県の粥見井尻遺跡から縄文次第草創期の土偶が出土し、現在では九州で最古の土偶になっています。
 子どもを産み、育むために乳をのませる女性の姿は、やはり子孫繁栄・豊じょうのシンボルだったのでしょう。
 でも、どうして顔がないんでしょうね?
 粥見井尻遺跡の土偶にも顔がありません。


 記述にあるとおり、胴部だけの女性像には驚きました。上記の『粥見井尻遺跡』の女性像と、同様に滋賀県東近江氏永源寺のトルソー像も同様でした。

 一つ目の土偶は、
『指定された土偶2点のうち1点は、女性の上半身を表したもので、ほぼ完形です。大きさは縦6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmで、出土時には頭部と体部が分離していました。頭部と乳房は別の粘土を貼り付けたのち、接合部をなでつけていますが、腕は体上部左右端から粘土を引き出して表現されています』
 と、上掲の写真の記事となっています。








 続いての土偶(左、写真)は、
『滋賀県東近江市永源寺相谷町の「相谷熊原遺跡」で、女性をかたどったとみられる約1万3千年前(縄文時代草創期)の国内最古級の土偶が見つかり』
 と、双方とも1万3000年前のものとされています。同時に、発見された場所が滋賀県と三重県という燐県で、縄文中期以降の関東以北の縄文土器や縄文土偶が多量に発掘されている地域とは違っている点も、不思議な点です。






  


 


台地に埋められた一対の壺形土器
環状に出土した遺物のひろがりは
なにを意味しているのか?




神秘の世界

 埋められていた壺形土器(埋納土器)を取り囲むように、日常使われていたおびただしい量の土器片や石器などが環状に出土しました。
 その中には100m以上も離れていながらも接合する土器片が数多くあります。
 このことから、人びとがこの場で土器を創ったあと、まわりにその破片を置いた様子がうかがえます。


 


 上記、神秘の世界の展示パネルの傍らに、映像モニターがありました。そこのスイッチONで上左の映像が映し出され、当時の祀りの様子が映されます。このような演出は、該当の都道府県や市区町村の教育委員会の力の入れ方が垣間見えます。


≪トピックス展示2≫

火山灰は語る

6300年前、鬼界カルデラの大噴火による
すさまじい火砕流は海を越え九州南端をおそった


 火山灰層は特定の年代を示しているので、広い範囲の文化を相互に比較できます。
 約6300年前、鬼界カルデラが大噴火をしました。火砕流は海を越え、薩摩半島や大隅半島に達し、降灰は広い範囲に見られます。機械カルデラの火山灰(アカホヤ火山灰)は縄文時代早期後半の文化を全国的に比較できる地層となっています。

 

 
 上記の展示パネルの説明文にも、購入した図録にも『約6300年前、鬼界カルデラの大噴火』と記されています。しかし、鬼界カルデラ噴火は、『7300年前』が正しい年代です。展示館にも図録にも間違った情報を堂々と載せているのは疑問に思います。このような間違いへの指摘は私のようなシロートでも可能です。全国にも“名にしおう”上野原縄文の森で、このような間違いを犯すとは残念です。


 ≪3 南の縄文文化≫


約一万年間続いた縄文時代
九州南部は、温暖な環境と度重なる
火山噴火により、独特な文化が形成された。



草創期

縄文文化のはじまり



土器と弓矢の出現は人びとの生活に
大きな変化をもたらした。

 約13,000年前の九州南部は、氷河期が終わり、温暖で湿潤な気候のもとに落葉広葉樹の森がひろがりました。この森の出現により、煮炊き用の土器や狩猟の道具である弓矢などが誕生し、やがて定住生活の兆しが見られるようになりました。まさに新しい時代の到来を告げる出来事でした。




  【13,000年前】  →  『10,000年前』  →


  →  【7,500年前】  →  『6,300年前』  →  【6000年前】


早期前半

集落の発達と独特の土器文化



竪穴住居や連穴土坑などが
定住生活を生き生きと物語る。

 早期前半には竪穴住居や連穴土坑、集石などで構成された遺構が多くみられます。この時期の集落では、貝殻円筒土器と呼ばれる九州南部独特の土器がもちいられました。





早期後半
華やかな土器文化と精神世界のはじまり



華やかな文様や多様な形の土器にみる豊かさ。

 上野原遺跡に代表されるように、鹿児島の縄文文化の中でもっとも多様な遺物がみられるのが早期後半です。この時期は、複雑で華やかな文様やさまざまな形の土器、土偶や耳飾りあるいは埋納された壺形土器など、縄文人の世界を表現する遺物が多いのも特色の一つです。




鬼界カルデラ大噴火



6,300年前、鬼界カルデラ大噴火は
九州南部に大きな影響を与えた。

 約6,300年前、屋久島の北にある海底火山「鬼界カルデラ」が噴火し、その火砕流は海上をわたって薩摩半島や大隅半島の中部まで達しました。右の地層は、その時生えていた樹木がなぎ倒された痕跡で、火砕流のすさまじさを物語っています。




 
さてこの時、「12時から映像コーナーで、VIDEOが始まります」と、受付に居た案内嬢が声を掛けて来ました。この場所で見学していた親子づれ(お孫さんかも?)も、この後、映像コーナーでは一緒にVIDEOを観ました。


≪7 映像コーナー≫
 

映像コーナー(常設展示室1:上野原縄文の世界)

 四季に彩られた上野原「の台地。豊かな自然が人びとの生活を包み込んでいます。
遥か彼方まで広がる青い空、小鳥のさえずり、川のせせらぎ、森の木漏れ日、虫の声・・・
私たちの心を和ませてくれる世界がそこのあります。
さあ、みなさんとともに、縄文ワールドへ!!


 広い映写室に私たち二人だけかと思っていると、先ほどの二人の子供連れの方と、単独の男性が入ってきました。結局、六名でシアターを拝見でした。なかなか見ごたえのある映像でしたので、後日、見つけた下のyoutubeを張り付けておきました。尚、リンク切れ等についてはご了承願います。

 (常設展示室1:上野原縄文の世界)youtubeは、コチラから 

【3F展望室】
 
 映像コーナーを出て、昼食タイムとしました。受付嬢に「軽食コーナーなどはありませんか?」に「3階に自販機コーナーがあります」との返事があり、エレベーターで向かいました。自販機には、軽食程度のものが揃えられていました。自販機コーナーの向こうの部屋はレストラン然としたスペースです。(3階にある展望室の配置図には、レストランと記されています)


 バルコニーへ出ると、外は雨が降っていました。少し見渡した後、部屋にもどろうとし、ふとドアの張り紙に目をやって、『えっ・・』と、思わず目が点になってしまいました。張り紙を以下に引用します。



  
上野原縄文の森
 
臨時休園のお知らせ
日頃より、上野原縄文の森をご利用いただ
き、誠にありがとうございます。
当園では、施設管理等のため、
令和
16日(日)から20日(木)ま
で、
休園いたします。
ご理解のほど、よろしくお願いします。



 臨時休園・・こんなことって、ありますか? 随分前から準備していたのも関わらず、昨晩、床に入ってから夜半に思い付いたスケジュール変更がこんな偶然を呼び込みました。このあたりの経緯については、前稿にくわしく書いていますので、ヨロシク。

















 昼食を終え、1階の常設展示室へ戻ってきました。もう13時になっていましたが、昼食休憩前の場所へと戻ります。

 


 ≪3 南の縄文文化≫ の続き
 

  →  【4,000年前】  →  『3,000年前』 



前期・中期
巨大噴火や海とのかかわり



巨大噴火は当時の人びとの暮らしに
どのような変化をもたらしたのか。

 鬼界カルデラの噴火の後、朝鮮半島から沖縄諸島まで
広がる尖った底や丸い底の土器、全国的に共通する形の
土器などがみられ人びとの交流も早期よりもさらに広域
なものになっていきました。鹿児島では、このころから
貝塚が見られます。



後期
多彩な交流



遺物からみる交流の広がり

 後期になると貝塚をはじめ遺跡の数が増加します。縄文の一部を擦り消した文様の土器が流入し始めるのもこの頃です。一方では、九州の南部を中心に用いられた土器が四国西部や五島列島、あるいは奄美大島や沖縄本島までその分布範囲を広げていきます。活発に交流した様子を示す証拠といわれています。



貝塚の分布


「貝塚」は当時の暮らしを伝えてくれる
タイムカプセル。

 鹿児島における縄文時代の貝塚は早期末から晩期にかけて見られます。貝塚では土器や石器とともに、骨角器や貝製品、動物や魚の骨など貝塚ならではの遺物も多く見られ、当時の様子をより詳しく伝えてくれる貴重な資料となっています。



晩期
稲作などの農耕は、南九州の人びとの生活に
どのような変化をもたらしたのか。



 晩期の遺跡では、土掘り具が多く出土したり、水田の跡や籾痕土器・穂摘み具が発見されるなど、農耕に関する遺構・遺物が見られるようになります。このことは縄文時代の狩猟採集社会から弥生時代の農耕社会へと移り変わる。まさに新しい時代の到来を告げる現象を示すものといえるでしょう。





 

 上記に『四国西部との交流』との記述に関連して、以下に小生が持ち合わせている知識からの考察を述べてみます。
 まず、
四国西部地域と南の島との交流については、愛媛県愛南町の平城貝塚出土の人骨DNA懐石の結果から
『平城縄文人骨は約3500年前の女性で、推定年齢は思春期の14~15歳。ミトコンドリアDNAの分析から、現代日本人(本州)に約7%しかいない「M7a」というグループに分類された』とし、『沖縄県石垣島の2万4千年前の洞穴人がM7aで、現在も沖縄県に特異に多いグループ』と研究発表しています。
 また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡からも、南の島々から渡って来たと思われる遺物が見つかっています。


 二つ目が、
磨消縄文土器です。右の写真が上記平城貝塚遺跡出土の土器です。


 
【下写真、平城3号人骨】



 
≪トピックス展示3≫

縄文の交流
1000kmを超える物・技術・情報の交流
縄文人は私たちの想像をはるかに超えた
ネットワークを形成していた。



 鹿児島では縄文時代の各時期にわたって、東日本や四国・九州北部・南西諸島など他地域の土器や石器、土製品などが多く見られます。また、鹿児島を中心として分布する土器が北は山陰、南は沖縄で見つかるなど広域的な交流があったことがわかります。その交流範囲は1000km以上にも及びます。


鹿児島へ運ばれた土器など
1 ひすいの玉(西之表市現和巣遺跡)
2 松ノ木式土器(鹿児島市山ノ中遺跡)
3 船元式土器(鹿屋市榎木原遺跡)
4 喜念Ⅰ式土器(金峰町上水流遺跡)

 ≪奄美諸島の縄文文化≫
 

 →  【奄美大島の縄文文化】



奄美大島では、九州と密接に交流しながら
独特の文化が築かれた。



 縄文時代の奄美大島の人びとは、身近で採れる貝や動物の骨を加工し、首飾り・腕輪などの装身具、狩りや魚ろうの道具など生活に必要な道具として使用していました。



奄美大島のくらし


 縄文時代の奄美大島の人びとは、砂丘や洞穴などで生活していました。森では狩り、木の実拾いなどをし、海では魚や貝を採って、豊かな食生活を送っていました。また人びとは、髪飾り・首飾りや貝輪など数多くの装身具を身につけていました。


≪トピックス展示4≫

縄文時代の食事

新鮮な食事を多様に調理し、驚くほど豊かな
レパートリーをもっていた。




食材と調理

 縄文人は豊富な食材を生のまま食べたり、あるいは焼いたり、煮たり、蒸したりさまざまな方法で調理して食べました。
 それは季節によって異なる食材をおいしく食べる方法を工夫しただけでなく、長く保存するための知恵でもありました。集石や連穴土坑、炉などがあります。



縄文人は季節に応じて山の幸を調達し、さまざ
まな工夫をして保存食糧としていた。
採集と貯蔵

 縄文人は四季折々の植物を食材としていました。春にはゼンマイ・ワラビなど、初夏にはヤマモモ・ノイチゴなどを採集しました。秋はドングリ・クリなどの木の実を埋めたり、あるいはいぶしたりして保存しました。冬にはヤマノイモを掘ったり、シメジやマツタケなどのキノコを採集しました。



多彩な道具と仕掛け、縄文人は自然とともに生
きていた。
狩猟と魚ろう


 槍や弓矢などを使い、あるいは、“わな”や落とし穴をつくって、山にいる多くの動物を捕えました。また、網や釣針・モリなどを用いて海や川にいる魚も捕らえました。時には迷い込んだクジラやイルカなども食料にしていたようです。海や川にいるハマグリ・シジミなどの貝や、カニ・エビなども食べていました。



 食べる事(生物が生きる事)と進化とは、密接に関連するものと思います。人類の進化の始まりは火を手にした事だと言われています。人類以外は、煮たり焼いたりの調理は出来ません。また、獲物を追って大陸の端っこまで進出して行きました。そればかりか、海を渡って遥かに遠くまで行きます。渡り鳥ならまだしも、海の向こうには島や大陸がある事が分かっていたかのように、です。

 食料調達の方法は、氷河期の旧石器時代人以来、渡って行った行き先で変わっていったものと考えられます。行きついた先の環境によって、調達する植物も動物も魚や鳥さえも違っています。ましてや、ナウマンゾウとイノシシやシカとでも捕まえる方法が違ってきます。人類が獲物として捕まえないのは、役に立たないからなのです。


≪4 考古学ギャラリー≫
 

火山の歴史とともにたくましく生きた
先人の歩みを、今、考古学を通して知る。

   
 

森と海と火山
   
旧石器~縄文時代の鹿児島



 九州南部には姶良カルデラの厚い噴出物層(シラス)があるため、旧石器時代の様子はほとんどわかっていませんでした。しかし、種子島から、30,000年前の礫群や磨石・石皿などの食料加工具、また、各地からナイフ形石器や細石器が発見されたことによって、この時代のことがすこしずつわかってきました。その後、13,000年前に土器が出現し、縄文時代が始まりました。




シラス台地と稲作農耕
   
弥生時代の鹿児島


 約2,500年ほど前、朝鮮半島から日本へ稲作農耕が伝わり、九州南部へもほぼ同じころに伝わってきました。しかし、鹿児島ではシラス台地が広範囲にあり、稲作に適する土地が狭かったためあまり広がりませんでした。台地上には竪穴住居や掘立柱建物などからなる集落が台地につくられました。

 【以下、略】


 上の文章中の稲作農業の開始年代については、小生の『今回のフルムーン旅行』で、二日目の訪問地の『菜畑遺跡(末蘆館)』での訪問でも記していますし、小生のホームページの最初の項でも引用しています。もちろん、九州北部へ伝わった水田稲作が、全国へと伝わっていくには数十年~数百年かかったものと考えられます。

 縄文時代の始まりも同様に云えます。縄文土器が造られたのは、まず、最初は何処で造られたのかは、私たちでは知り得ません。しかし、日本列島の何処かで最初に造られて、どこかへと伝播し、拡散していった事は確かです。


≪5 考古学研究室≫ ≪6 縄文ワンダーランド≫

(上の二項は略します)


 さて、鹿児島県については前項の姶良市のホームページのお知らせを載せました。前回のアップから数日を経て、毎日のように感染の拡大が報道されています。尚、以下は4月6日現在の情報です。

* 「太古の森を歩く!森さんぽ」開催中止のお知らせ
5月3日(日)・4日(月)・5日(火)に開催予定でした「縄文の森春まつり」は新型コロナウィルス感染拡大をうけまして,中止致します。どうぞご理解くださいますようお願いいたします。


* どんぐり倶楽部ボランティアガイド中止のお知らせ
4月18日(土)実施予定の考古学講座第1回「太古の森を歩く!森さんぽ」(どんぐり倶楽部共催)は新型コロナウイルスの感染拡大をうけて,開催を中止いたします。
 どうぞご理解くださいますようお願いいたします。


* どんぐりイベント「ふれあい体験」中止のお知らせ
 当園復元集落休憩所にて行われております,どんぐり倶楽部によるボランティアガイドにつきまして,新型コロナウイルス感染拡大防止のため,3月31日(火)まで中止させていただきます。
 ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

※今後の国の方針や感染拡大状況等に応じ変更になることもあります。

* 体験学習館閉館延長のお知らせ
 3月21日(土)実施予定のどんぐりイベント「ふれあい体験」は新型コロナウイルスの感染拡大をうけて,開催を中止いたします。
 どうぞご理解くださいますようお願いいたします。


* 【体験学習館閉館のお知らせ】
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため,体験学習館を閉館する措置を取っています。以下のとおり閉館期間の延長をお知らせいたします。

 体験学習館の開館を楽しみにお待ちいただいた皆様には大変申し訳ございませんが,ご理解いただきますようお願いいたします。
 ■体験学習館の閉館期間(3月12日時点)
 2月29日(土)~3月31日(火)
 ※今後の国の方針や感染拡大状況等に応じ変更になることもあります。

 ■展示館ご利用の皆様へ
 ・当館入口に手指消毒液を設置しておりますので,手指の消毒をお願いいたします。
 ・咳エチケットをお願いいたします。
 ・定期的に換気を行っていますので,ご理解とご了承をお願いいたします。
・職員がマスクを着用している場合がございますので,ご理解とご了承をお願いいたします。


*一日縄文人体験 第6回「縄文ポシェットを作ろう」中止のお知らせ
 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため,今後2週間程度,体験学習館を閉館させていただきます。
 再開については,あらためてホームページ上でお知らせいたします。
 なお,展示館につきましては,入館時の手洗い・消毒を確実に行った上でご覧いただけます。
 ご理解とご協力のほどよろしくお願いいたします


*新型コロナウイルス感染症対策へのご協力について(2020年2月23日)
 2月29日(土)実施の一日縄文人体験 第6回「縄文ポシェットを作ろう」は新型コロナウイルスの感染拡大をうけて,開催を中止いたします。
どうぞご理解くださいますようお願いいたします。




*臨時休園日のご案内(2月16日~20日) 
【2020年2月15日】
 新型コロナウイルスの感染拡大をうけて,ご来園の皆様には下記についてご留意いただき,ご理解とご協力をお願いいたします。
 ○アルコール消毒薬をご使用ください
 ○咳やくしゃみをする際は,ハンカチや袖で口・鼻を覆ってください。
 ○感染予防のため,スタッフや職員がマスクを着用していることをご了承ください。

ご理解とご協力のほど.よろしくお願いいたします。



*令和2年2月16日(日)~2月20日(木)は臨時休園日のため上野原縄文の森は休園いたします。

 ご理解の程よろしくお願いします。



 上記、上野原縄文の森のメッセージは、2020年2月16日の臨時休館以降の『お知らせ』を順に引用しました。
 小生らが訪問した2月15日付けの『ご案内』では、新型コロナウイルスへの対応などが書かれています。尚、小生らは2月18日までのフルムーンの旅で、今回訪れた九州での初感染は『2月20日に福岡県で初感染者を確認』でした。しかし、次稿ではビックリするような出来事に出くわしてしまいます。
 その事件の詳細については、次稿(上野原縄文の森ウォーキングマップの、スタンプラリー)にて書きますので、ヨロシク。