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2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州) 西都原考古博物館(2020年2月16日) |
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既にスケジュール変更の件については、既報のとうり述べています。昨日、霧島温泉へ到着した後、一晩中雨が降り続いていました。そして、私たちが通された部屋は、とても『ツインルーム』と呼ばれるような部屋では無くて、4人部屋とか家族連れが宿泊出来るような部屋でした。 中国政府は、新型コロナウイルス拡散防止対策として、1月27日に『国内旅行会社に日本を含む、海外への団体旅行を当面中止するように指示』したの報がありました。ここ、霧島温泉でもキャンセルがあり、部屋に空きが出来たんじゃ~ないかと思います。 まぁ~、いずれの理由にしても、ラッキーです。尚、前記『新型コロナウイルス』に関する動きを下に記しておきます。 日本で最初のコロナウイルスの感染者は、1月15日。武漢市からの帰国者。 中国・武漢市は1月23日、空港や鉄道などの運行を停止する、事実上の封鎖措置を決めた。 日本在住の初感染者は、1月28日、観光バス運転手。(後日、バスガイドにも感染が発覚) 中国・湖北省で発行した中国パスポートを所持する人は特段の事情がない限り入国拒否は、2月1日。 〃 浙江省に滞在歴がある外国人の入国を拒否は、2月11日。 ホテルでの朝食を終え、出発。ホテルの近くにある『丸尾滝』へ寄ってみることとしました。ホテルを出て、交叉点を曲がると先を行くタクシーが案内標識に従って、目的の滝の方向へと先行しました。 タクシーは滝の手前で一時停止しましたが、私たちは傍らにある駐車場に車を停めて、展望所へ向かいました。昨日からの雨のせいか、滝の水は水量が多く、激しく流れ落ちていました。 滝の見学を終え、ナビには宮崎県の西都市の考古博物館を入力して、ナビケーションどうりに進みます。時間は9時15分でした。 いつものように下記には、小生がこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。 【AMS法による区分】 草創期 15,000~12,000年前 早期 12,000~7,000年前 前期 7,000~5,500年前 中期 5,500~4,500年前 後期 4,500~3,300年前 晩期 3,300~2,800年前 【関連リンク先】西都原考古博物館 |
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霧島温泉から、ナビは山越えの道を選んだようで、ず~っと、山の中を走ります。これは、国道223号線でしょうか。暫く走ると、やがて『宮崎自動車道の高原IC』へとカーナビは指示します。地理不案内の小生、従うほかに取る道はありません。 国道223号線 →(高原IC) 宮崎自動車道 →(清武JCT) 東九州自動車道 → 西都IC まだまだ雨の勢いは弱まりません。宮崎自動車道を宮崎市内方面へと向かいますが、市内へ入る手前の清武JCTで、東九州自動車道へと乗り換えて、一路進路を北にとって、西都市へ向かいます。 自動車道は、さほど交通量は多くなく快適に走れます。西都ICで降りて、目的の西都まではゆったりと走ります。西都ICで一般道へ降り、ふと、気付いたのは国道10号線という事。暫くナビに導かれて走ると、前方に何かのイベントの係員みたいな方が交通整理をしていました。そして、道の左右、前方・後方に古墳が見えてきました。その古墳を巡っている親子連れも見受けられます。我々のように、時間の制約があるものには、ゆったりと古墳巡りをしている余裕はありません。 後日、NHK総合テレビで放送された古墳特集で、この古墳群も紹介されました。事前に頂いた情報とは違って、遅れて放映された番組は、『あなたも行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル』≪3月24日(火)、pm10:00~【司会】恵俊彰,赤木野々花≫でした。古墳群といえば、直ぐに思い浮かべるのは大阪府の『堺市』です。しかし考えてみれば、わが市にも古墳はあります。規模の大小、古墳の多少はともかく日本全国に古墳はあります。 そんな古墳の中へと続く道を行くと、駐車場に着きました。11時半頃でした。見学の家族連れは、ボツボツといます。昨日と同様に、昼食は後回しにして入館手続きをします。しかし、入館料は『無料です』と、受付嬢。「小さな市なので、無料にしてたくさんの人にご覧いただいた方が良い」との考えだそうです。もちろん、写真撮影はOK。どこそことは言いませんが、この旅中、撮影禁止の考古館がありましたが、どうして、そういう差が出てくるのでしょうか。全く不可解。 |
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≪フロア図≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
入口の正面には、『日本遺産認定』のパネルが掲げられていました。『古代人のモニュメント -台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観ー (西都市・宮崎市・新富町)』と書かれています。受付を左手に奥へと行くとスポットライトに照らされる廊下が続いています。 受付の入り口は、フロアー図の上写真の左方になります。直ぐ先、右手には①のスペースがあり、足元から下の部屋が見える構造になっています。【西都原4号地下横穴墓】との案内があります。 直ぐ先に②のパネルが掲げられています。ず~っとスロープとなっていますが、直ぐに突き当たって右へと折れると、③の≪旧石器時代≫のコーナーとなります。 背景のボードには、解説の図とともに、説明文が書かれています。以下に、引用します。 |
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≪旧石器時代≫(②~④) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南九州での人々の生活は、今から五万年以前にまでさかのぼるが、姶良カルデラの噴火は、シラス台地を形成して南九州の地勢を決定付けた。 それは、 その後の南九州の歴史に、 深く大きな 抜き差し難い 影響を与えた。 噴火の規模が、いかに巨大であったかは、 場所によって五十~百メートルもの堆積を 示す火砕流であるシラスの量によって 想像をすることができる。 二万五千年前より古い 人々の生活の跡は、 この分厚いシラスの下に 眠っている。 火砕流は、谷を埋め、 埋め尽くして あふれだし、 台地を形成した。 だから、そのシラスを取り除けば、 今見る地形とは逆に(ポジとネガ とが逆転するように)深い谷や 低地が、元々の地形として姿を 現してくるはずだ ≪右写真は、三稜尖頭器、剥片尖頭器、 ナイフ型石器、石錘、掻器など≫ |
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そして、上の記述中にも記されている『姶良カルデラ噴火』については、小生は『2万9000年前の噴火であり、これを境として後期旧石器時代と呼ぶ』という論調を採用しています。これは、私見じゃなくて学芸員や考古学者の間でも既知の学説として認知されています。 昨日の鹿児島県の博物館も同様でしたが、ここ宮崎県でもこのように開館当初の解説のままに放置されているのは、如何なものでしょうね。 ≪石器から人間の行動に迫る≫ 当列右側のケース内に並んでいる石器は今から約2万年前頃の旧石器時代に使用されたものである。 列島においては酸性土壌が卓越するため遺跡からの有機質資料の出土は期待出来ない。礫群以外の遺構の検出も稀である。この時代の研究は、石器の形態や技法、その変遷に主眼が置かれていた。 一方、ある石器の「原点」をたどれば、人の手の加わっていない一個の自然礫の存在が浮かび上がる。一つの礫を打ち割って剥片と呼ばれる石辺を取り、さらに細かく加工して定型化した石器が出来上がる。その過程で細かな屑片が周囲に散らばり、礫の芯にあたる石核が残る。 左側の展示台にある最上段の自然礫や、最下段の石器は、そのような工程を象徴的に示している。 遺跡で発見されるそれらの剥片や屑片、石核の位置を記録し、接合関係をみることで、石器製作の工程や製作者の動きが復原できるかも知れない。 そのような、人間行動の解明を標榜する調査・研究の試みは、今、盛んである。 |
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≪旧石器時代~縄文時代≫(⑤~⑩) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
地球は、人類の歴史を さらに遥か凌駕する 気の遠くなるような単位の 歳月をかけて 徐々に現在までの 環境を整えてきた。 氷河期と温暖化を繰り返しながら、 陸地と海はその形を変えてきた。 その時期、列島弧は大陸と陸続きとなり、人々は 北からのその道を渡った。 やがて、気候の温暖化により徐々に海水面は陸地を 覆いはじめ、大陸から切り離され列島弧は、 文字通りの孤島となった。そして、その最も著しい 時期には、さらに海岸線は現在の平野をも海の底 として内陸に押し寄せた。 自然に抱かれて、人々の生活は 始まった しかし、人間とは最もか弱い動物だから、その柔らかな手では、木をなぎ倒し、木の実を磨り潰すことも、鋭い牙を持つ獣や空を翔る鳥たちを獲ることもできなかった。 器は、遠い昔の人びとからの 伝言板である。 いろいろな形をした器、その多様さは単なるものの 形の変化ではなく、人間生活そのものの多様さの 反映である。 こうして南九州には、 いち早く成熟した土器文化が 花開いていった。 人間は、何時の頃から 定住生活を始めたのか。 自然と生活との周期を、自ら計画的に 調整することができない自然まかせの 状態の中では、人々は食料などを求めて 移動を繰り返えさなければならなかった。 定住生活のためには、自然条件や四季折々の 周期を熟知し、集落周辺の一定範囲の中で、 生活を支える諸基盤(水や食料の確保に 留まらず、土器作り、石器作りの材料 調達、薪集めなど衣食住に関する事柄 など)を整え、さらに不足する部分を 交易という形で、集落相互に補い合う ことが必要となる。 南九州では意外に早い段階で、 定住生活が始まったと 考えられている。 次は、④のコーナーです。長い長い氷河期の終焉は、日本列島という特異な風土を形作って行きます。この列島は、地震、火山、台風が襲い掛かります。そんな時期の先人たちは、上記の生活を始めたのでした。 |
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≪早熟な土器文化の発見≫ 土器は煮炊きの道具として出発し、最初の形は、口の大きな深い鉢であった。それから口のすぼまった壺という形の器を生み出すまでには、縄文時代の後期までの永い年月を必要とし、東日本を中心とした地域で多様な器が生み出された、と定説があった。ところが、それをさかのぼる遥か昔、土器の誕生から程なく、南九州においてすでに壺や注ぎ口を持つ土器といった多様な器が誕生していたことが分かったのだ。 そのきっかけを作ったのは、都城市丸谷町の小学生だった。下園遺跡と呼ばれることとなった土地の削り取られた土層の中から、完全な形の土器が顔をのぞかせているのを発見し、それを都城市教育委員会に届けた。彼らの最大の功績は、土器を発見したことは勿論、見つけた物を独り占めにせず、正しい判断のできる人間の手に委ねたことだった。 それが、確実に6,000年前にさかのぼる壺形土器であったことから、これまで南九州の考古学で課題とされてきた事柄が、一挙に解決した。従来、「弥生の壺」として総合博物館に所蔵されてきた野尻町漆野原出土の土器や、永い間考古学研究者たちを悩ませ続けてきた、どう見ても壺の口としてしか復元できそうもない土器の破片、でも早期に壺形土器があったとは考えられなかったから、その結論を先送りにしてきた一連の謎の土器の破片も、自信を持って壺形土器なのだと認識することができるようになった。 発見とは、いったん糸口をつかむと、次から次へと続く、鹿児島県国分市上野原遺跡からは、正式な発掘調査の手続きを経て、2個並んだ状態で壺形土器が検出されるなど、その類例は増え続けている。 ⑤のコーナーは、南西諸島とつながる文化を紹介しています。ここでは『貝文土器』という名称で紹介しています。 |
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⑤のパネルの解説の一部を、抜き出します。 貝は、貴重な品物としての 特別な位置を得た。 南島を数珠のように つなぎながら、 貝をもたらす海上の 道は形成された。 ⑥のパネルは、「東アジアとの交流」とのテーマで、解説されています。また、右写真のパネルは、縄文人と弥生人の頭蓋骨の形質の違いの解説をしています。 進めばよいと、 古老から聞いた。 海に漕ぎ出せば、 人はみな勇者になれる。 ⑦のパネルは、「漁撈(海の民)」とのテーマで解説されています。次の文を抜き出します。 ≪縄文海進と弥生小海進≫ 南九州の南端から照葉樹林が広がり始める。照葉樹林は北進しながら、やがて6,300年前に気候温暖化のピークを迎え、同時に海面も上昇する。それを「縄文海進」と呼ぶ。その後、5,000年~4,000年前の縄文時代中期には、気候は不安定になり、3,000~2,000年前の縄文時代晩期から弥生時代全期にかけて、やや冷涼な気候となる。「弥生小海進」と呼ばれる海面の後退が見られ、日向灘に平行する砂丘列が形成される。 ⑧のパネルは、「狩猟(山の民)」のテーマで解説されています。下は、パネルからの引用です。 乾いた葉音が森を揺らす。 水を溜め、 大きく呼吸をして、 生き物たちを どっしりと抱いている。 森は全てを包み混む、母である ⑨のパネルは、「祭りと祈り」のテーマの解説があります。下の項に「土偶」を載せています。九州地方では希少なもののようです。 このコーナーは、通路を突き当たった場所にあります。以下には、上掲のパネルから引用します。また次のセクションの、土偶(左写真)は、高千穂町・陣内遺跡から出土した縄文時代後期から晩期のものという事です。また右の写真は、同遺跡から出土の『十文字石器』です。 異睨である。 人間にとって最も不可思議な存在は、 人間そのものであったに違いない。 身体を抽象化して、模す行為の中に 生まれたのが土偶である。 土偶は、自然とつながる人間を表現している。自然への入り口こそ、人間存在そのものであった。決まって土偶の一部を欠損する事実は、自然につなぎ留められたいと思いながら、逆に自然から突き放されようとする人間の板挟みの状態を表しているのではないか。 つまり、縄文時代において、飢餓は日常に隣り合わせた危機であり、彼らはその危機意識の中で縄文の祭りを生み出していった。土偶もその一つである。 そして、南九州には、 土偶が存在しない。 土偶祭式の欠如は、 その意味では温暖で 豊かな南九州の気候風土が 約束したものなのだ。 |
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⑩のパネルは、「南九州の縄文土器」のテーマの解説があります。パネルの解説文を下に引用します。 縄文のムラは、広場を 中心として円形あるいは 輪を描くように形成された。 環状集落は、 文字通り家族を単位とする。 家々の「輪」であり、 人間の「和」の 具体的な姿だった。 でも、現代を生きる私たちは、遠くその事を忘れて、久しい年月を費やしたものだ。何とか私たちは、それを取り戻そうと努力したが、果たして君たちに実りをもたらしたであろうか。 「南九州の縄文土器」のパネルには、『化学変化と土器』『恵みの森・照葉樹林』『最古の調理・石蒸し(集石遺構)』『蓄えの知恵・燻製(炉穴)』などの解説文もあります。 小生、南九州の縄文文化で興味を引くのは、9000年以上も前の縄文集落と文化、そして、ず~っと後の時代(縄文後期以降)に見られる、南の島々との交流にあります。 まず、昨日も訪れた鹿児島県・上野原遺跡の縄文遺跡の規模から想像できるのは、この時代の集落が『ここが唯一無二である』という訳は無いでしょう。『北海道・北東北の世界遺産登録』を目指している各遺跡群や、関東・甲信越の豊かな縄文遺跡群などを例にとるまでもなく、ここ南九州地域での縄文文化は、後に北九州から広がりやがて弥生文化へと花開く素地である・・と、考えます。 その事に思いを及ぼすと、小生は、『縄文時代の早期に起こる鬼界カルデラ噴火(7,300年前)によって、南九州の縄文人は死滅した』という論証には、疑問を抱かざるを得ません。勿論、上野原などでは火砕流や噴石で一網打尽だったでしょう。しかし、火山灰が降り注いだ地域の集落では、その地で生き延びたまでとは断言しませんけど、『災害から逃れて生き延びた』のではないかと考えます。 そんな思いを巡らせながらの見学は続きます。 |
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≪弥生時代文化≫(⑪~) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以降は、弥生時代の展示となり、フロア図にある番号とともに写真だけの掲載とします。尚、冒頭に張り付けている『展示室案内図』から、番号の順に抜き出して再掲します。一部特定できない写真がありますが、ご了承願います。 |
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正面は⑨(祭りと祈り) 下は、⑧(狩猟(山の民)より奥側 |
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⑬弥生の祭り(青銅器)よりスロープ側 ⑬弥生の祭り(青銅器) ⑫花弁状間仕切住居 ⑮瀬戸内系土器 ⑪穀壁(伝串間出土R) ⑪穀壁(伝串間出土R)より ⑯弥生の共同作業 ⑰山間部の弥生土器 ⑰山間部の弥生土器、⑱地下式板石積石室墓 |
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上記、弥生時代以降についての紹介については割愛部分が多くなっています。その時代については、今のところは小生の興味を覚えるところではないので、ご勘弁願います。尚、以上の紹介については冒頭の配置図の下写真についてでした。続いての紹介は、配置図の上写真を廻る事となります。 |
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≪古墳時代以降≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前史(旧石器、縄文、弥生時代)以降のスペースは、真ん中の大スクリーンを中心として展示されていました。スロープを奥へと進むと、地下式横穴墓(この横穴墓は、入り口から続く廊下のスペースから覗くことが出来た)など、古墳から出土された文化遺産が飾られています。 この頃には、スクリーンの前に陣取った小さな子供を伴った家族連れの人達や、年若い女子なども訪れていました。 |
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2019年度 ≪宮崎県立西都原考古博物館企画展Ⅱ≫ |
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企画コーナーについて、近年のウルシ文化についての興味はありません。小生の唯一、興味を持つのはその起源なのです。以下に、その解説の部分を切り取って載せます。 【Ⅱ“Japan”の源流】 ~縄文時代~ 列島最古の漆製品としては、北海道垣ノ島B遺跡の装身具が有力な候補であり、縄文早期(9,000年前頃)にさかのぼる。確実なものでは、石川県三引遺跡の漆塗櫛をあげることができる(7,000年前頃)、福井県鳥浜貝塚からはウルシ自然木の枝が出土し、最近の年代測定では、12,000年前(縄文草創期)という結果が得られた。 ウルシの存在や漆利用に関するこれらの証拠は、縄文人が列島に自生するウルシに注目し、漆のさまざまな可能性を発見したことを示すのだろうか? 最近の植物考古学の成果によれば、事の運びはそう単純でなかったらしい。 ウルシの天然分布域は中国大陸に求められ、朝鮮半島や日本列島では人為的に植栽されてもののみが認められる。後者では、人間が管理し手を入れない限り、周囲の植生が優勢となり、ウルシは自生できないのである。古環境のデータからも、1万年前の列島に天然ウルシが自生した証拠は見つかっていない。 (以下略) 上の解説で興味深いのは、中国大陸由来のウルシの木が、12.000年前に渡ってきていたとの研究結果が出されている点です。これは、渡り鳥が運んできたものでもなく、勿論、人と共に偶然に渡って来たものでは無いという事です。人が意図して運んできたものです。食料ならまだしも、ウルシの木を携えて大陸から移動してきたのは何故なのでしょうか?食料や家族、仲間たちと同じ価値を持つものと考えていたのでしょう。 当時、未だ文字を持たない祖先は、どのような価値観を持っていたのか、興味深々です。 |
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最後のコーナーとなる㊱~㊸の項は、出口に向かって部屋の端っこに並んでいます。そのコーナーは『考古学研究室』と名付けられています。 下写真は、【竪櫛付着頭蓋骨(女性)須木上ノ原 地下式横穴墓群】 |
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12時50分頃には展示室を見終えました。今回の九州行の博物館巡りで、二日目の吉野ヶ里公園以外は、訪れた博物館などではまともな昼食を取れませんでした。ここ西都原考古館についても同様なのかと思っていました。 ところが偶然にも屋上のスペースにラウンジ“眺”で軽食があるとの情報を得ました。勿論、私たちは『ランチ DE 古代(右写真)』を戴きました。このラウンジでは、障害のある子たちが、マスターのようなお年寄りと一緒に働いていました。 レストランから、屋外に出ると、広大な森が広がっている様が窺えます。駐車場と、朝方、走ってきた道路とその周りに並んで建てられている古墳の数々が垣間見えます。 |
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さて2月15日の鹿児島県から、2月16日は宮崎県を巡っています。前稿でも載せましたが、今回の九州行の間は、行く先の該当の県では『新型コロナウイルス』の感染者は出ませんでした。幸運にも、小生が帰郷後に次々と感染者が広がって行き、下記のような『お知らせ』が発出されています。 西都原考古博物館 【ラウンジ「眺」休業のお知らせ】(令和2年4月10日更新) 新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、令和2年4月11日(土曜日)~5月10日(日曜日)まで、ラウンジ「眺」を休業いたします。営業再開は5月12日(火曜日)を予定しておりますが、新型コロナウイルスの感染状況により延長する可能性もあります。 【企画展Ⅰ関連講座中止のお知らせ】(令和2年4月10日更新) 新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、令和2年5月16日(土曜日)に予定しておりました企画展Ⅰ関連講座は中止となりました。 【開館のお知らせ】(令和2年3月26日更新) 新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、臨時に休館しておりましたが、令和2年3月27日(金曜日)より開館することとなりました。 入館にあたっての留意事項や、館内の施設およびサービスのご利用にあたってご協力をお願いしたいことがございます。詳細は下記のpdfをご覧ください。 【開館時間のお知らせ】(令和2年3月29日更新) 当館では、令和2年4月1日より下記のとおり、開館時間を変更することとなりましたのでお知らせいたします。 なお、本館の開館時間の変更に伴い、付随する施設の開館時間、営業時間につきましても変更となります。 本館共々これまでと変わらぬ御利用を賜りますようよろしくお願いします。 記 1 変更する開館時間 変更後 開館:午前9時30分 閉館:午後5時30分 (変更前 開館:午前10時 閉館:午後6時) 2 本館と併せて開館時間が変更となる施設 ○ 西都原古代生活体験館 変更後の受付時間 午前9時30分から午前11時15分まで 午後1時から午後4時まで ○ 1階ミュージアムショップ 変更後の営業時間 午前10時30分から午後4時30分まで 【臨時休館のお知らせ】(令和2年3月5日更新) 昨夜(3月4日)報道されましたように、宮崎県内で新型コロナウィルスの罹患事例が発生しました。これに伴い、博物館・古代生活体験館とも本日(3月5日木曜日)より当面3月末日まで休館いたします。 皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。 【イベント中止のお知らせ】(令和2年2月27日更新) 新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、以下のイベントを中止させていただきます。 2020.3.7(土)午前 「西都原考古博少年団 解団式」 2020.3.7(土)午後 「西都原古墳群を歩く」 なお、2.27現在、博物館・古代生活体験館ともに開館しております。 また、今後の状況によっては、臨時休館になる可能性もございます。 尚、上記情報は4月17日現在の情報です。昨日、全国へ『緊急事態宣言』が発出されました。取り敢えず、5月6日までの時限なのですが、もちろん、先の事は誰も予測は出来ません。 そこのところは、ヨロシク。 。 |
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