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2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州) 唐津市松蘆館&菜畑遺跡(2020年2月12日) |
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この稿は、本来は縄文遺跡を巡る旅について述べることを主旨としています。しかし、今回は九州への旅を企画しました。その際、九州と云えば古都大和(奈良県)と同様に『邪馬台国論争』などと、古代以降の遺跡や遺物に目が行ってしまいます。そんなこともあって、今回については弥生遺跡についても訪問しました。 そして、今回紹介するのが『菜畑遺跡』です。 昨日、ホテルでチェックインの際に応対したのは異国の方でした。一応、日本語で応対してくれました。もちろん、隣には日本人の男性が手助けしていましたが、予約通りに受付が終ろうとした時『宿泊料金は、前払いでお願いします』というではありませんか。一瞬、何を言っているの? と、小生。相棒が横から『払っている筈よ』との助け舟。そうです、事前に旅行社へ申し込んだ際に既に支払い済みなのです。 勿論、何かで確認したフロントのオネーサンは『済みませんでした』と平謝りです。手続きを終え、エレベーターへ向かう前にフロントの横に居たオジサン・オバサン(もちろん地元にお住いの日本の方)に『末蘆館へは、タクシーでどのくらいで行けますか?』と尋ねるも、『解らない』との応えでした。その際、頂いた「市内観光地図」にはその松蘆館は、載っていたのでした。 いつものように、下記にこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。 【AMS法による区分】 草創期 15,000~12,000年前 早期 12,000~7,000年前 前期 7,000~5,500年前 中期 5,500~4,500年前 後期 4,500~3,300年前 晩期 3,300~2,800年前 【関連リンク先】 松蘆館の案内サイト 末蘆館リーフレット(PDF) |
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朝から雨模様。さて、チエックアウトを終え、フロントでタクシーをお願いすると「待機しているタクシーがいる」との事で、玄関前に向うと、丁度、タクシーは着きました。運転手に「松蘆館まで行くのですが、唐津の駅に荷物を預けるので寄ってもらえますか?」には、OKの返事。 駅のコインロッカーの件については、昨日は情けない経験をしていたので、唐津駅には事前に問い合わせをしていました。駅員は「コインロッカーがありますけど、こんでいる場合は一杯の場合もあります」との事なので「以前の手荷物一時預かり所のような所は無いでしょうか?」には、「こちらへ言って貰えば、預かります」との緑の窓口の電話でのお嬢さんの応対でした。 コインロッカーには空きがあり無事に預けることができ、そこから松蘆館までは直ぐの距離でした。タクシーから降りる際「この道を真っ直ぐに行くと、駅に着きます」との案内でした。朝方からの雨は、少し小降りとなっていました。 |
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ここ菜畑遺跡は、弥生時代の始まりを600年以上も時代を遡ることとなった遺跡です。つまり、小生らが学んだ時代は、弥生時代とは紀元前300年頃に始まったとされていました。それを、紀元前900年まで遡ることとなる学説が認められる事となるのです。次に入館の際に頂いた末蘆館の図録から引用します。 ごあいさつ 中国江南地方で体系化された水稲栽培は長江河口沿岸を北上し山東半島沿岸へ伝わり、朝鮮半島を経て、唐津の菜畑遺跡へ、それまでの定説より100~200年古くさかのぼり、縄文時代晩期中頃(今から2,500~2,600年)に伝わりました。 市が行った、昭和55~56年の菜畑遺跡の調査は、日本における稲作の起源と稲の道について上記の事実を証明する画期的なものでした。唐津が誇れるものとして虹の松原、曳山、唐津焼のほかに新たに日本文化の原点稲作発症の地として菜畑遺跡が加わりました。 遺跡の調査から2年後の昭和58年5月に菜畑遺跡は早くも国の史跡に指定され、平成2年10月には、遺跡公園と歴史博物館・末蘆館が完成し一般に公開されました。 末蘆館の常設展示場には、市の重要文化財に指定された。菜畑遺跡の多くの貴重な出土品を展示し、大型の菜畑遺跡のムラ地形模型、縄文人と弥生人の生活状況を表現した竪穴住居ジオラマや生活復元図、絵画、ビデオなどによって遺跡のようすを分かり易く説明展示しています。特別展示場には、邪馬台国の門戸としての末蘆国の青銅器を中心としたクニグニの代表的出土品の展示も行っています。 遺跡公園には、菜畑遺跡2号住居跡を復原した北部九州の円形竪穴住居や日本最古の水田跡や出土種子復原した 縄文の森も整備しています。復原水田では古代米の栽培実験を行い、春と秋には田植祭と収穫祭をおこなって、市民、並びに観光客の皆さんがくつろぎ、語りあえる場となっております。 また、例年秋には末蘆国、弥生時代の王墓の秘宝を東京、大阪などの博物館から里帰りさせ特別展示会を開いてきました。施設・文化財案内のパンフレット等や特別展ではそのつど特別展図録を作成し好評をえてきましたが、菜畑遺跡の展示や特別展示場に常設している展示品についての解説の図録は無く、来場者からは展示図録作成の要望が強く出ていました、 このたび、これにおこたえするために末蘆館の展示図録を発刊したしだいであります。このうえは、より多くの市民・観光客の皆さんに利用していただくことを祈念いたします。 平成5年3月 唐津市末蘆館 上記は、唐津教育委員会作成の図録からの引用ですが、以下に、【Wikipedia】からも併せて引用しました。 菜畑遺跡弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡、紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。 花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。一方、種子は第12層以下ではアリノトウグザ水湿性植物の種子が多く出た。 遺物の土器は、それまで最古の水田跡とされていた板付遺跡の夜臼式土器(柏崎式土器)よりも古い「山の寺式土器」あった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。 上記のように、前段で引用(平成5年版)の記述とは違って、菜畑遺跡の水田跡は紀元前930年に遡ることが確認されました。もちろん、ここで行われた水田稲作が日本列島を東進・北上して行ったことが伺えますが、これらの技術が東北地方まで達するには以降、数百年の年月を要したのも事実でしょう。 末蘆館は、落ち着いた雰囲気の佇まいでした。1階ホールから2階の階段への通路脇には、ケースに飾られた炭化米が飾られていました。末蘆館の名前の由来は『末蘆の国』からきているそうですが、下に【Wikipedia】からの引用をします。 末ら国末盧國(まつろこく/まつらこく)は、『魏志倭人伝』で記述されている国の一つであり、魏の使者が津島、壱岐を経由して、本土に最初に上陸する倭の地である。松浦(古くは「まつら、末羅」)の音写とする説が有力。 |
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で さて、案内に従い2階へと階段を上がると、左手のスペースから回っていくと、最初に掲げられたパネルは『菜畑遺跡の発見』と発掘調査など詳細が記され、当時の発掘の様子の写真なども掲げられていました。 部屋の中央には、発掘された遺跡のジオラマが展示されています。 展示パネルは、『菜畑のムラ』『炭化米と水田』『農具』『食事と食器』と飾られています。その前には、それぞれの遺物が陳列棚に展示されていました。 |
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水田稲作や当時の農具や生活で使用した食器類に続いて、弥生の生活様式の様が紹介され、『畜産』『畑作』『狩猟』『採集』「漁労」『まつり』『すまい』『倉庫』と順に飾られています。続いて、『木工技術』『その他の技術』などが展示されています。 これら常設展示は、前述の図録に載せられているものばかりです。展示場では、各コーナーで案内のテープを聞くことも出来ます。 |
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続いてのコーナーでは、桜馬場遺跡からの出土品が展示されていました。以下に展示パネルから引用します。 まつろ国王の宝モノ ~桜馬場王墓出土品のご紹介~ 桜馬場遺跡では、昭和19年の防空壕堀削時に、大量の副葬品をもつ甕棺墓が発見されました。この副葬品の一部は、防空壕の埋戻しの際に失われていましたが、平成19年度の発掘調査時に再発見され、その全容が明らかになりました。 平成の調査で出土した遺物群は、平成29年4月11日に佐賀県の重要文化財に指定されました。 今回の展示ではこの佐賀県指定品を主に展示しています。 |
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末蘆館の展示は2階のみでした。2階の窓からは展示館の周囲の様子を見ることが出来ます。すぐ前に見える復元住居あたりでウロチョロしている人が見えます。また、雨脚は少し酷くなったり晴れ間が出たりしている様子が窺えます。 上記写真にある甕棺や復元住居は、縄文時代とは大して変わりが無いように見えます。しかし根本的な違いがあるのは、稲作を手に入れたことでした。 この種の博物館は、出来上がった時期の最新研究で案内されています。しかし、今の時代、30年前の最新の研究が全てにおいて現在も通用するとは限りません。新たな研究発表がある機を捉えて、書き換えることも必要かと感じました。そのことは、例えば『ごあいさつ』の中の記述の『唐津の菜畑遺跡へ、それまでの定説より100~200年古くさかのぼり、縄文時代晩期中頃(今から2,500~2,600年)に伝わりました』の部分などです。 |
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末蘆館の外には、当時の風景を再現するように木が植えられ、水田が復元されていました。その水田に、以下の建て看板の案内がありました。 菜畑遺跡で発見された日本最古の水田は小規模(10㎡~40㎡平均で20㎡~30㎡程度)なもので谷にそって細長く広がった谷水田と考えられています。 深い湿田で土盛の畦と水路が掘られおそらく赤米がみのっていたことでしょう。 さて、復元遺跡などを見て廻っても「こうゆうものか!」と思うぐらいで、さして感慨はありません。やはり復元していても、現実的では無いからなんでしょうね。縄文時代の一万年余りをドラマや映画で見る機会もありません。日本で言えば、せいぜい平安時代あたりでしょうし、海外ではエジプト文明の頃でしょうか。 さて水田跡ですが、小生は何故このように小さく区切る必要があったのかが分かりません。現在の日本でも、小さく区切られた棚田は見受けられます。しかし、それは、山深い急こう配の場所を開墾して水田を作っている場合です。その環境でしか作ることが不可能な田なのです。 対して、こちらの環境からは説明出来ません。 |
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末蘆館は、10時頃には見終えました。雨はすっかり上がった様子。小生がトイレを借りている間に、相棒は末蘆館の図録を手に入れていました。図録を発行している博物館では入手するのが常です。しかし聴くと、ここは無料で頂けたとの事でした。 朝方のタクシーの運転手は「駅まで歩いて15分くらい」との言葉のとうりに、唐津駅には10時15分頃に着きました。予定していた電車は 唐津(11:44)→久保田(12:45、12:56)→吉野ヶ里公園(13:14) でしたが、急遽、直ぐ後に来る電車へと変更することとしました。改札でフルムーン切符を提示し「次の電車で久保田で乗り換えて、吉野ヶ里へ行けますか?」との問いに「大丈夫ですよ」との事でした。結局、 唐津(10:20)→久保田(11:22、11:38)→吉野ヶ里公園(11:55) で、旅を続けます。 |
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