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2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州) 大野城心のふるさと館【発掘された日本列島 2019】(2020年2月11日) |
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今回の九州への遺跡巡りは、【発掘された日本列島 2019】が博多で催されているとの事なので、その開催中に訪れるように企画したのでした。 この『JRフルムーン夫婦グリーンパス』を利用しての旅は、さまざまなトラブルに遭遇する旅となっています。昨年の北海道行の際の地震騒ぎは、まだ記憶も冷めやらないのですが、小生の郷里の愛媛県も一昨年は豪雨災害に襲われました。日本列島を襲う様々な自然災害は、2011年の東日本地震が起きて以降、毎年のように大災害に見舞われています。 そして九州と云えば、2016年の熊本地震、翌2017年の九州北部豪雨と相次いで自然の猛威が襲ってきました。今回の旅でも、その被害の様子を目の当たりにすることとなりました。 いつものように、下記にこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。 【AMS法による区分】 草創期 15,000~12,000年前 早期 12,000~7,000年前 前期 7,000~5,500年前 中期 5,500~4,500年前 後期 4,500~3,300年前 晩期 3,300~2,800年前 【関連リンク先】 大野城心のふるさと館 |
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今回のスケジュール表は上記となりました(この言葉の意味については追って明らかとなる)が、新幹線に乗っている時間の短いことには驚きでした。岡山(10:08)から博多(11:54)まで2時間も掛かりません。そして、弁当の販売も止めてしまっています。もちろん、これはコロナウィルスの流行前から決まっていたことでした。 そんなこともあって、昼前に着く新幹線ということでもあり、今回初採用の『駅弁デリ』を利用することとしました。 |
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≪駅弁は、岡山駅に乗り込むと直ぐに社内販売のお嬢さんが届けてくれました≫ |
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さて今回の旅は初日から展示館を見れるように、日程を組んでいます。それは、思ったよりも最初の目的地が近かったことが理由です。 松山(7:20)しおかぜ8号→(9:59)岡山(10:08)さくら549号→(11:54)博多 博多では、鹿児島本線(6番ホーム)の羽大塚線に乗り換えて2駅目の大野城で降りる便を利用して、駅からはコミュニティーバスが出ています。 博多 12:02 12:12 大野城 12:06 12:25 12:23 12:33 上記乗り換えの件は、大野城へと往復して再び博多から唐津まで移動する予定ですので、博多駅で荷物を預けてからの行動としました。駅員さんにコインロッカーの場所を尋ねると「一旦、改札を出てそちらの方にあります」と右手の方を指しますので、改札を出て探します。案内の場所へ行くと、旅行者らしい人が空いているロッカーを探している様子です。私たちの場合、大型のロッカーを見つけなければなりませんが、空きのロッカーが見つけれません。駅構内の他の場所も探しますが、同じく空きのロッカーが見つかりませんでした。 いつまでもロッカーを探す訳にもいきませんので、早々と「それなら、荷物は大野城駅で置いていこう」と、入場しました。結局、次の電車は12時23分発になってしまいました。大野城駅に着き駅員さんにロッカーの場所を尋ねると「コインロッカーはありません」と、つれない返事です。仕方ありません。ゴロゴロと、スーツケースを引きずりながらバス乗り場へ向かいました。待つこと20分(30分毎)ほどで『100円バス』に乗り込むと、程なく『大野城まどかぴあ前』に着きました。バス停へ降り立つと、案内表示が見当たらないので、通りかかったお嬢さんに尋ねると「そちらです」と指さす先は、道路を挟んでバス停の向かい側でした。 |
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バタバタと、珍道中となってしまいましたが、何とか最初の目的の『大野城こころのふるさと館』へ着きました。スーツケースは早速「こちらで預かりますので、お帰りの際にはこの札をお見せ下さい」と受付嬢が言います。 まずは、3階の展示室へと向かいました。後で判ったことですが、展示室に展示されている遺物は、年代別でも地域別でも無く陳列されていたのです。しかし小生がここで紹介していくのは、購入した図録の順ともなる年代別とします。尚、下記のフロアー図の番号がそれに該当します。 |
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≪旧石器時代≫ | |||||||||||||||||||||||
私たちは3階から回り始めましたが、フロア図のとおりには写真での紹介はしません。3階は①を除いて⑧から⑳までの展示となっています。 前述のとおり、まずは≪新発見考古速報≫から 【旧石器時代】 ≪① 墨古沢遺跡≫の紹介パネルが架かっています。下に引用します。 ■概要:日本列島における人類の歴史は、約38,000年前の後期旧石器時代に始まることが確実です。人々は遊動し狩猟をしながら、簡素なテント状の住まいや岩陰などで暮らしていたとみられます。各地で使用する石器に違いがあり、環境の違いに応じた生活を営んでいたとみられます。 ■今回展示する遺跡:千葉県の墨古沢(すみふるさわ)遺跡は、34,000年前の石器づくりの跡である石器集中部(ブロック)が61ヶ所、円を描くように配置されています。ブロック脇にテント状の住居があったと考えられることから、これは「環状ブロック群」と呼ばれる大型集落と考えられます。 |
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【日本最大級の旧石器時代の集落】 |
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掘り出された各種石器 |
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≪縄文時代≫ | |||||||||||||||||||||||
続いて②のコーナーは2階で展示されている 【縄文】 ≪②縄文≫のコーナー及び≪白神山地東麓縄文遺跡群≫の紹介に移ります。前項と同様に展示パネルから以下に引用します。 ■概要:土器の使用が始まり、日本列島各地でそれぞれ独自色の強い装飾性豊かな土器(縄文土器)が作られました。人々は穴の上をXXで覆う竪穴建物で定住に近い生活を送り、狩猟・採集や漁労、地域によっては簡単な栽培などを営みました。人々の間には基本的には身分の格差はなかったと考えられています。土偶や石棒などさまざまな祈りのための道具のほか、耳飾りやペンダントなどの装飾品があり、豊かな精神文化を持っていたことがわかります。 ■今回展示する遺跡:青森県の白神山地東麓縄文遺跡群は、縄文時代初頭の草創期から、終末の時期である晩期まで、1万年の長きにわたって連綿と営まれた17遺跡からなります。中期の大型建物や石棺墓、後期の環状巡る掘立柱建物群、晩期の日時計状の配石墓など、当時の生活やX制、精神文化を示す遺構が豊富です。長野県のエリ穴遺跡は、縄文時代後期(約4,000年前)から晩期(約2,400年前)を中心とする集落です。居住域の中には墓域や祭祀施設があり、集落北端の低地に向かう斜面の廃棄場からは、2,643点におよぶ土製耳飾をはじめとする大量の遺物が出土しました。 一部、パネルの文字の判別が困難な箇所があり、そこは、Ⅹ印としました。 |
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≪板状土偶≫ ≪四脚付土偶≫ |
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②のコーナーは、上に載せたフロアー図のように続いています。 【白神山地東麓縄文遺跡群】 驚きました。各種石器類や土板、土偶や土器が展示されていました。そして人面付き土器については、初めてみる土器でした。同じ青森県で有名な遮光器土偶とは違って、妙に生々しい表現です。 勿論、遮光器土偶も発掘されています。そして、用途がはっきりしない、足の部分だけが掘り出された土偶は、半端ない大きさです。はたして全身像が造られていたものか、元々、足だけなのかは解りません。 |
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≪発掘された日本列島 2019≫図録よりの転載 |
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上記に掲載されている白神山地東麓縄文遺跡群には驚きました。各遺跡は、同じ段丘上(岩木川右岸)に位置しながら、縄文時代の草創期から晩期に至る一万年余りに渡る遺跡だということです。青森県には、先日も報道されている『世界遺産』登録を目指す遺跡が知られています。それらの殆どは、数千年の繁栄の後には、突然、途切れていると聞きます。 小生が驚いたのは、その長さだけじゃありません。ここ本州の最北端ともいえる西目屋村という片田舎で、最終氷期から温暖な気候へと向かう縄文草創期から気が遠くなる時期、集落での生活が営まれていたという事です。 |
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今回購入した図録には、上掲のように各遺跡の配置が載せられています。そして、豊かな森の恵みが支えた大遺跡群 と、次に続く紹介文で始まっています。 ■縄文時代1万年の歴史を示す遺跡群 平成15~27年に実施した津軽ダム建設事業に伴う発掘調査によって、世界自然遺産白神山地のふもとにある縄文遺跡群の様相が一挙に明らかになりました。遺跡群は白神山地東端に位置し、岩木川右岸の河岸段丘上にその多くが立地します。発掘調査で見つかった遺跡は17遺跡で、縄文時代の開始期にあたる草創期から終焉の晩期まで、縄文人がこの地を連綿と利用していたことが分かりました。出土した遺物は、段ボール箱にして1万5000箱以上にのぼります。そのうちの一部の遺跡を紹介します。 |
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≪各種人面付き土器と土偶≫ |
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上に載せた土器や土偶をご覧頂ければ、「それって、いつ造られたの?」との疑問が湧くのは仕方ありません。上段の注口土器は、何を注いでいたのでしょうか? また、下左の土器は正面からは分かりかねますが、腰を下ろした上で、下肢は前方に出して膝を曲げた状態となっています。また、下右の土器は、表面に光沢がある土器です。そして、顔の造作が纏っているのが仏像の表情か? とも思われる造作となっています。もっとも、この時代に仏教は生まれていませんでいたが・・。 |
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≪エリ穴遺跡≫ | |||||||||||||||||||||||
続いて③のコーナーは、ガラスケース一個だけの小スペースの場所でした。 【縄文】≪③ エリ穴遺跡≫ のコーナーです。図録では≪表情豊かな土偶 縄文人の精神世界を示す≫と≪多種多様な遺物 縄文人の祈りと暮らしを物語る≫の項へと続きます。 展示のパネルには どんな遺跡かな? 松本盆地の東縁に一する縄文時代後期(約4,500年前)から晩期(約2,400年前)を中心とする集落です。居住域の中には墓域や祭祀施設もある一方、集落北端の低地に向かう斜面は廃棄場として利用され、大量の遺物が出土しました。 くわしくみてみよう 出土品のなかでも、土製耳飾は日本最多の2,643点に及びます。その作りなどから、様々な地域の影響を受けていることがわかります。儀礼を行うために周辺集落から持ち寄られ、使用後に廃棄場へ残したと考えられます。 くわしくみてみよう ほかにも、「顔面付き分銅形土製品」のつくりには、広い範囲の影響が確認できます。エリ穴遺跡の出土品からは、甲信地域の縄文時代後・晩期文化が他地域のさまざまな文化との交流の上に出来上がったことがうかがえます。 |
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前項の白神山地から南下して、本州のど真ん中の甲信地方の遺跡です。この地域はについては、土器はもちろんのこと土偶についてもユニークな遺物が掘り出されています。またどういう訳か、いくつかの遺跡で大量の遺物が掘り出されてもいます。そのことは何を意味するのかは不明です。 |
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【日本最多!多彩をきわめる土製耳飾り】 |
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≪弥生時代≫ | |||||||||||||||||||||||
続いて④と⑤のコーナーは、 【弥生】≪④ 郡遺跡・倍賀遺跡≫ で、2階の部屋へ入口を入ったコーナーに飾られています。 郡遺跡・倍賀遺跡は、茨木市の茨木川沿いの河岸段丘から発掘されたとの説明です。この茨木市は小生が大阪へ転勤となって、赴任した地でもあります。地図を確認すると、名神高速道路の茨木ICの直ぐ近くに位置しているようです。茨木市内から茨木ICへと向かい、国道171号線を利用して高槻方面へと右折して、橋の手前の場所のようです。 このような市街地に開発が終わった現代、大規模な弥生遺跡が発掘されたことは驚きです。下のパネル写真を載せるのみとします。 ≪160基以上の方形周溝墓をもつ弥生のムラ≫ |
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郡遺跡・倍賀遺跡から発掘された遺物 |
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≪⑤ 山ノ口遺跡≫ 弥生時代のコーナーには、もう一つ別の遺跡が展示されていました。それは鹿児島県の大隅半島の錦江湾に面した遺跡です。 錦江湾に面した遺跡の紹介ですが、小生は行程上にある弥生遺跡でないと、わざわざ足を延ばすことはしません。帰宅後、購入した図録を見ていて河口貞徳氏に触れていますが、彼の名は15日の上野原縄文の森を訪れた際に『河口コレクション』のコーナーがあり、この際に目にしていたのでした。 |
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≪砂浜に残された弥生時代の祭祀遺跡≫ |
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≪古墳≫ | |||||||||||||||||||||||
続いて⑥のコーナーは、 【古墳】≪⑥ 金蔵山古墳、⑦ 行基平山頂古墳≫ 小生が興味を持って見学できるのは弥生時代までで、古墳以降の時代については、現在は興味を持てません。暫くは、それぞれの展示の様子のみの紹介とだけさせていただきます。 |
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⑥ 金蔵山古墳 ⑦ 行基平山頂古墳 |
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≪古代≫ | |||||||||||||||||||||||
⑧ ≪青谷横木遺跡 仏形、農業に関する木簡≫ ⑨ ≪ケカチ遺跡 歌刻書土器≫ 『さて、これ以降の歴史区分については今まで使用されている表現とは違っています。古代→近世→近代という大括りな区分です。一般に使用される区分は 飛鳥→奈良→平安→鎌倉→室町→安土桃山→江戸→明治→大正、というような変遷で論じられている場合が大半です。その違いは何? 何をもって区分しているのか? っという事となります。つまりは、前者はその時代の生活様式などでの区分であると言えます。対して後者は、日本を治めていた人物が住んでいた地方(場所)などが主な区分であり、明治以降については天皇の代で区分されています。 古代は、3階展示室へ入ると左手に『青谷横木遺跡』、右手には『仏形、農業に関する木簡』が展示されていて、⑨として左側の『ケカチ遺跡』と右側には『和歌刻書土器』と、別々の展示棚に展示されていました。 |
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⑧ 青谷横木遺跡 ⑨ ケカチ遺跡 |
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≪中世≫ | |||||||||||||||||||||||
⑩ ≪岩櫃城跡≫ 急峻な地形に囲まれた真田氏ゆかりの城 |
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≪近世≫ | |||||||||||||||||||||||
⑪ ≪東宮遺跡≫ 浅間山噴火による“天明泥流”で埋まった村 |
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≪近代≫ | |||||||||||||||||||||||
⑫ ≪富山城下町遺跡≫ “幻の東京オリンピック記念盃”が出土 |
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≪特集Ⅰ≫ 復興のための文化力 福島の復旧・復興と埋蔵文化財 |
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私たちは、案内に従ってエレベータでいきなり3階へ昇って会場を見て回り始めたので、唐突に現れた≪特集Ⅰ≫には驚きました。以下にパネルを引用します。 特集 Ⅰ 福島の復旧・復興と埋蔵文化財 東日本大震災から8年が経過しました。東北の沿岸各地でにぎわいを取り戻す町が増える一方、福島県には福島第一原子力発電所事故の影響により、復旧・復興については道半ばという地域があります。 福島県沿岸部は、海の道と陸の道によって各地と結ばれ、極めて個性的な文化を育んできた魅力ある地域です。本特集では、この地域の豊かな歴史文化を多くの人に知って頂くため、縄文時代から近代まで15遺跡を紹介します。本展示がこの地域に対する関心を高め、また福島県に生まれ育った方々にとってふるさとの魅力を再確認する機会となれば幸いです。 この3階の会場は、古代→中世→近世→近代と続いて展示されていて、右手のコーナーに旧石器時代の展示がありました。そんなこともあって、振り返れば、あまり熱心にはこのコーナーを見ていなかったことと思います。 |
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≪13 史跡真野古墳群の周辺遺跡他≫ ≪14 七社宮遺跡、大堀長井屋窯跡≫ ≪15 郡山五番遺跡、陳場沢窯跡群≫ ≪16 南沢遺跡、梨木平遺跡≫ ≪17 小浜代遺跡、滝川製鉄遺跡≫ ≪18 代遺跡、合張遺跡≫ ≪19 柳町川遺跡≫ |
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≪⑳ 特別報告≫ 平成28年熊本地震に伴う復旧・復興事業 |
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≪特集Ⅱ≫ 記念物100年 守り受け継ぐために |
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さて今日は、大野城ふるさと館で開催中の【発掘された日本列島 2019】を見終わったら終わりではありません。入口横の軽食コーナーで一休みをし、受付でスーツケースを受け取ると、博多駅までは、100円バスで向かいます。 バス停で待っていると、すぐ前の道路で警官が乗用車を追いかけています。直ぐ先に信号機があるので、当然、車は警官に導かれて向かいのスペースへと消えて行きました。直ぐ先にある横断歩道で別の警官に呼び止められていた人に聞くと、横断歩道での交通違反の取り締まりを行っているのだそうだ。こんな取り締まりは初めて出合ったので驚いたのでした。 そんなことはさておいて、無事にコミュニティバスで大野城駅へ戻り、博多駅へJRで戻ってきました。博多からは東唐津までの電車に乗り換えですが、まずは、地下鉄空港線で姪浜までは地下鉄で、その先、唐津まではJRへと乗り換えなしで向かいます。 当初計画段階では、時間に余裕があれば『板付遺跡』の見学も予定していましたが、やはり、公共交通機関を利用しての移動の場合、時間的に余裕がありません。博多から唐津への電車は、一時間から一時間半の余裕をもって、早い時間の移動となりました。 博多(15:56)→東唐津(17:24) 東唐津からホテルへは、タクシー利用としました。実は、計画段階では唐津駅の近くのホテルを予定していましたが、目的のホテルが予約で一杯となっていました。それが、先日来の新型コロナウイルスの流行により、中国当局による「団体旅行の禁止」指示以降の予約のキャンセルで、事情は一変したものと思えます。これらの情報がもう少し早ければ、小生らの行程も変更されていたものと思えます。 |
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重要なお知らせ 臨時休館 【新型コロナウィルス感染症拡大防止】大野城心のふるさと館臨時休館のお知らせ 更新日:2020年03月16日 国内外で新型コロナウィルス(COVID|-19)の感染症拡大の防止のため、2月29日(土曜日)から3月31日までの間、臨時休館とさせていただきます。それに伴い、上記期間に予定しておりましたイベントにつきましても中止もしくは」延期とさせていただきます。 なお、状況によっては、変更となる可能性もありますのでご了承ください。 最新状況につきましては、大野城心のふるさと館ホームページ及び公式SNSにてお知らせします。 ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解くださいますようよろしくお願いいたします。 |
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