縄文文化を巡る!  
 2019年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)
手宮洞窟保存館小樽市総合博物館(2019年6月20日) part-1

 北海道の遺跡巡りの大変さはその広さからきます。例えば一つの地域で何ヶ所かを巡るとします。その場合、レンタカーが必要ですが、続いて次の地域へと移動する場合はJRを利用しての移動となってしまいます。今回、そういう計画で実行しました。その結末については、後日の課題として活かされるでしょう。

 さて、東室蘭からは特急に乗り、札幌で小樽行きの快速に乗り換えて、という行程で小樽に着いたのが10時45分。取り敢えず、宿泊予定のホテルにスーツケースを預けに行きます。そして、今日の目的の『小樽市総合博物館』へは、駅前からバスで向かいます。バス停には、乗車チケットの自動販売機がありましたが、目的の行き場のバス停名が見当たりません。直ぐ横にあった案内所で、相棒がチケットの購入と乗り場を確認すると「樽石ビル前のバス停で、11時24分発の高島3丁目行きの2番のバスに乗って、総合博物館で降りてください」と、マイクで早口で伝えてくれました。

 案内されたバス停へ向かい、小生が手持ちのプリントアウトを見直すと、確かにそのように書かれているではありませんか。当初、準備していたバス便(駅前の3番乗り場から高島行き)は毎時50分発となっていて、案内所で案内された次発の便(11時24分発)で良かったのでした。私達の場合、小樽駅に10時45分に到着する便なので、最初から10時50分には間に合わなかったのでした。



 そんな小さな行き違いは、意に介さなくても大丈夫です。今日は小樽市内のみを予定していたのでした。バスは、15分ほどで小樽市総合博物館前に着きました。このバス停で降りた乗客の内、若い女性は制服らしき服装なので、仕事中でしょう。


【関連リンク先】 
小樽市総合博物館 本館及び運河館  手宮洞窟保存館



 
 
・6月17日(月) 松山  ~岡山 ~東京 ~新函館北斗 ~函館(泊)
・6月18日(火) 函館  ~洞爺  ~有珠山トレッキング 洞爺湖温泉(泊)
・6月19日(水) 洞爺湖温泉 (撮影) ~入江・高砂貝塚~北小金貝塚~東室蘭(泊)
・6月20日(木) 東室蘭  ~札幌~小樽  ~小樽市総合博物館・手宮洞窟保存館
 ~小樽(泊)
・6月21日(金) 小樽  ~札幌~大麻(北海道埋蔵文化財センター) ~札幌 
 ~函館(泊)
・6月22日(土) 函館  ~新函館北斗  東京  ~佐倉(泊)
・6月23日(日)  (国立歴史民俗博物館)佐倉  ~東京  ~岡山 
 ~松山
 

 


 総合博物館の受け付けでチケットを購入しますが、「運河館と手宮洞窟保存館も入れる共通券がありますが・・」と言われ、500円で購入。確か?レストランとかがあるという情報を眼にしていたのを思い出し「館内で食事が出来ますか?」には「館内では食事は出来ませんが、外へ出て頂きますとイタリアンのレストランが御座います」と仰るじゃ~ありませんか。

 正面入り口の左側にトレインカフェ風に見えていたのが、レストランでした。そこで、ランチを注文しました。ここへは、博物館へ来るのじゃなくて、車で食事だけに来る常連さんもいるようでした。ランチを食べ終えた頃、停電が起きたようで、一部の電灯以外は消えてしまい、窓から見える外の信号や該当も消えたようでした。

 停電は十数分で回復しました。その頃には、食後のコーヒーも終え、まずは、手宮洞窟保存館へ向かいます。


 いつものように、下記にこのサイトで使用している時代区分を載せておきます。


【AMS法による区分】

草創期   15,000~12,000年前
早期     12,000~7,000年前
前期     7,000~5,500年前
中期     5,500~4,500年前
後期     4,500~3,300年前
晩期     3,300~2,800年前






 昼食前に購入したチケットを提示し、洞窟内に入ります。まず洞窟の紹介が映し出されていましたので、次に転記ます。





 手宮洞窟の保存の歴史

 手宮洞窟が発見されてから、いろいろな人達がこの洞窟を訪れました。明治時代には開拓使の榎本武揚(1836~1908)、大森貝塚(東京都)を発見したアメリカの動物学者エドワード・S・モース(1838~1925)、イギリスの地震学者ジョン・ミルン(1850~1913)などがこの洞窟を紹介しました。
 このため、この洞窟はいち早く全国的にしられるようになり、それ以後、市と市民の手によって現在まで大切に守られてきました。


 スライドによる説明は、洞窟内の数か所で見ることが出来ます。暗い洞窟内の事、足元の灯りに導かれて進みますが、洞窟の奥の広くなっている場所の後ろ側にも陳列棚がありました。そして、洞窟の岩面に描かれている絵は・・・。



 手宮洞窟の彫刻について

 34の彫刻について、文字説を唱える研究者が過去において多くみられましたが、フゴッペ洞窟の研究が進むにつれて、現在では、絵画であるという見方が考古学界の意見となっています。ある学者は、「狩猟生活や狩りに関係ある仮装した人の絵であろう。」としています。
 彫刻された絵は頭に角のある人が大部分を占め、ほかに角のある四足動物がありますが、これらのほかには形を判断できるものはありません。






 








 下図には、≪遺跡年表≫映されていました。ピンボケで、読み取れ難いところもありますが、おおよそのところを以下に抜き出します。



年代  -10,000  -6,000  -4,000  -2,000  -1,000  -500  0
             ― 縄文時代 ―              続縄文時代-
北海道 草創期   早期   前期   中期   後期   晩期


本州  草創期   早期   前期   中期   後期   晩期 -300~(弥生時代)


 当サイトで使用している時代区分とは、少し異なっています。そもそも、従来から使用している区分から変更することとなったのは、縄文の始まりから終わりまでの記録の無い時代の事です。縄文の始まりについては、丁度、最寒冷期が終わって暖かくなり、周囲の環境の変化に伴い生活環境が変わる事となって行く・・という地球環境からです。そんな地球環境は、緯度や軽度の違いや氷床が溶けだすことによる海岸線の変化。そのことによる海流の変化。それらが複雑に関わって、日本列島の形成と共に、そこに住む後期旧石器人たちは変化(進歩)していったのでしょう。

 また、弥生時代の始まりについても、水田稲作という画期的な食糧調達方法の導入は、気候や年間の気温などによって導入が図られて行く事は自明の事でしょう。北海道に、水田稲作が導入されなかったのは、主に前述の理由からでしょう。






 上のスライドは、当洞窟の時代でもあり、北海道にだけに存在する続縄文時代の遺跡地図です。



≪左、参考品(小樽市チブタシナイ遺跡出土) 右、洞窟からの出土遺物≫


 


≪続縄文時代前半期の土器≫
(1世紀前後・洞窟の最下層出土時)





≪岩壁に描かれた絵(?)≫





 さて洞窟の見学は終わり、続いては小樽市総合博物館へと向かいます。思い描いていた博物館とは違って、何故か、鉄道博物館の様相だったのです。こちらが十分に精査してなくて、向かい側に手宮洞窟があるから・・と、勝手に判断してしまっていたのが片手落ちでした。
 普通、市の博物館の本館に展示するのが、市の歴史を物語るものでは無いのでしょうか?鉄道博物館なるものは、別館に展示されるものでしょうが・・。そんな事を部外者が言っても仕方がありません。下の写真は、≪アイアンホース号≫の雄姿です。