縄文文化を巡る!  

 2019年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)
国立歴史民俗博物館(2019年6月23日)


 JR佐倉駅で、コインロッカーを探す事が、朝一番の仕事です。ところが、そのコインロッカーが見つかりません。駅前のバス停の辺りにも見当たらないので、観光案内所の方に尋ねると「駅の改札の中にあります」との事です。
 相棒にその事を告げると、さっき『フルムーン夫婦グリーンパスを見せ「東京行きの電車でグリーン指定席は無いですか」と駅員に尋ねたら「そのままグリーン車に乗れます」と言うとった』と言うではありませんか。そんな事知ってたら、昨日東京駅から乗っていたのに・・。

 その続きは帰りの便で触れるとして、コインロッカーに預けることが先決ですが、駅構内にあるコインロッカーがSとMしかありません。仕方なく、別々にMサイズへ入れなくてはなりません。しかも、500円の利用料なのに500円玉が使えません。こんな事ってありますか?

 

 取り敢えず、荷物を預けたら博物館行のバスを待つのみです。今日は日曜日なので9時台の便は、9時21分発となります。バス停で待っているのは私達だけで、バスは定刻に到着しました。走り出したバスは、やがて狭い路地へと入って行き京成佐倉駅へ寄ります。数名の人が乗り込んで来ましたが、日曜日にも関わらずがら空きの状態でした。そして、間もなく9時40分過ぎに博物館に着きました。


 博物館の前には、以下の案内板がありましたので、引用しておきましょう。


 【国立歴史民俗博物館案内】

 国立歴史民俗博物館は、歴史学、考古学及び民俗学に関する我が国唯一の国立博物館であり、我が国の歴史資料、考古資料及び民俗資料を収集・保管し、展示しております。
 本館の展示は、日本の歴史の各時代の中で学問上有益で、しかも誰でも興味を持つ問題について課題別に行うことにより、歴史の推移や断面を正確にわかり易く観覧者に示し、我が国の歴史と文化についての知識と理解を深めることを目的としています。




【関連リンク先】 
国立歴史民俗博物館 


 
 
・6月17日(月) 松山  ~岡山 ~東京 ~新函館北斗 ~函館(泊)
・6月18日(火) 函館  ~洞爺  ~有珠山トレッキング 洞爺湖温泉(泊)
・6月19日(水) 洞爺湖温泉 (撮影) ~入江・高砂貝塚~北小金貝塚~東室蘭(泊)
・6月20日(木) 東室蘭  ~札幌~小樽  ~小樽市総合博物館・手宮洞窟保存館
 ~小樽(泊)
・6月21日(金) 小樽  ~札幌~大麻(北海道埋蔵文化財センター) ~札幌 
 ~函館(泊)
・6月22日(土) 函館  ~新函館北斗  東京  ~佐倉(泊)
・6月23日(日)  (国立歴史民俗博物館)佐倉  ~東京  ~岡山 
 ~松山
 

 


 やはり首都圏。今までの博物館と違って、次々に人が押し寄せて来ます。しかし当然ながら、上野の森周辺あたりよりは断然少なくて、『XX展』のように“420分待ちです”という事はありません。

 さて、第1展示室は、【先史・古代】となっていて、
  Ⅰ最終氷期に生きた人々
  Ⅱ多様な縄文列島
  Ⅲ水田稲作のはじまり
  Ⅳ倭の登場
  Ⅴ倭の前方後円墳と東アジア
  Ⅵ古代国家と列島世界
   沖ノ島
   正倉院文書
 の小項目に分かれています。今春、リニューアルOPEN(右図)されて、以前とは違う新たな視点で展示されているようです。私たちは、以前の展示を経験していませんので、比べようはないのですが、期待は大です。展示室の入口には、次のパネルが掲げられていました。


  先史とは

 国立歴史民俗博物館総合展示第1室は、1983(昭和58)年3月に、「原始・古代」としてオープンしました。「原始」という用語は、アニメーションでも使われていて世間的にはよく知られていますし、今でもこの用語を使っている歴史資料もあります。
 本来「原始」とは、文明社会に対する未開・野蛮な状態という意味で使われた用語であり、人類の歴史を発展段階論で捉える場合によく用いられてきました。
 しかし、かつて「原始人」と呼ばれていたホモ・サビエンス以前の人類にも、さまざまな変化や差異のダイナミッククスがあることがわかり、あたかも一元的な出発点のごときひびきのある「原始」という用語は、現在の人類学・考古学の世界ではほぼ使われなくなってきています。
 そこで展示プロジェクト委員会では、リニューアルを機会に「原始」ではなく、「先史」という用語を使えないか、議論を重ねてきました。
 もともと「先史:Prehistory」とは「歴史:History」に対する用語で、文献資料が登場する以前の人間の歴史を指すので、文字や文献のない時代は歴史ではないという意味があることから、歴博では使われなかった経緯があります。
 しかし文字を持たない南米のインカ文明が歴史であるように、文字や文献がないことをもって歴史ではないというのは、考古学・文献史学・民俗学・関連諸科学の学際的協業をもって日本の歴史と文化を研究する歴博の理念はあわないと考えました。
 しかも歴博では、AMS-炭素14年代にもとづく高精度な較正暦年代を、縄文・弥生時代を中心に適用して時代を描いているわけですから、暦をもつ先史時代と理解しています。
 ただ考古学的にも文字が確認されている弥生中期末~古墳時代は、正確には歴史時代に相当しますが、先史と原始をあわせて先史とよぶことが現在では一般的になっていることから、旧石器~古墳を先史とし、7世紀以降の古代とあわせて先史・古代としました。第1室のテーマ名でいうと、Ⅰ~Ⅲが先史・Ⅳ~Ⅴが古代に相当します。





【第1展示室】



先史・古代

この展示室では3万7千年前の日本列島に人類が出現してから、7世紀に古代国家「日本」が成立して、10世紀に中世の姿を見せ始めるまでの人びとの多様なくらしを、6つのテーマに分けて展示している。

最終氷期の厳しい寒さのなかでも移動性が高い狩猟採集の生活をおくる人びとがいた。1万2千年前に氷期が終わって本格的に温暖化したころ、奄美・沖縄には貝塚前記文化、九州島以北には縄文文化がひろがっていた。3千年前以降に北海道と奄美・沖縄を除く地域で次々にコメづくりがはじまった水田稲作文化が成立すると、北には続縄文文化が、南には貝塚後期文化が並立する。

紀元前2世紀になると中国王朝との交渉がはじまり、倭人は東アジアの国際舞台に登場する。紀元後3世紀には前方後円墳を象徴とする古墳文化が成立し、中国・朝鮮半島各地と交流を深めつつ、列島の主な地域が政治的に統合された。7世紀には古代国家としての体制を整えるものの、北と南には独自の文化が展開していたのである。



Ⅰ 最終氷期に生きた人々



 最終氷期に差し掛かるずっと前、今は絶滅してしまったナウマンゾウやオオツノジカ、北方から南下したバイソンやオーレックスやマンモスなどもやって来ていた。そして、現在まで生き延びているニホンジカやツキノワグマを始め、北海道だけに生息しているヒグマやエゾジカなどもやって来たのです。

 それらの動物たちの後から、私たちの先祖となる人びとが後の日本列島となる地へ辿り着きました。日本列島での古代人の人骨として、沖縄で発見された山下洞人や港川人が有名です。また、最近では白保竿根田原洞窟から多数の人骨が発見されたニュースも耳にしました。これら、島嶼部で発見された人骨は、日本列島に拡散している縄文人とは、形質が異なっていると言われています。



 

以下には、本稿で使用する歴史区分を記しますが、博物館で使用している年代についてはそのままで転記しますので、矛盾がある年表記となる箇所もあります。このことは、日本列島の北と南での違いとともに、最寒冷期から温暖期へと向かう中での生活の変化と多様性によるものと考えます。


【AMS法による区分】

  草創期   15,000~12,000年前
  早期     12,000~7,000年前
  前期     7,000~5,500年前
  中期     5,500~4,500年前
  後期     4,500~3,300年前
  晩期     3,300~2,800年前



≪狩猟採集民とその遊動生活≫

 

 

 


≪最終氷期の土器と環境激変期の人々≫

 


 

 

 

 


≪石偶と最古の土偶≫

1万4500年前、愛媛県上黒岩遺跡の人々は小さな石
を刻んで絵を描いた。これらは女性像であり、石偶とよ
ばれている。1万3千年前の最古の土偶にも女性的な
乳房が表現された。出産や再生への願いが込められて
いたのだろうか




 石偶と云えば、上黒岩でしょう。直ぐ上に載せた石偶は14,500年前と紹介されていて、【複製】と書かれていました。しかし、下に紹介した線刻礫(石偶)については、現地(愛媛県・久万高原町)の縄文館ではなくこの博物館に展示されていたのです。下記の説明によれば、見つかった線刻礫13点とありますが、その内12個が展示されていました。
 次の欄で紹介した土偶は複製の展示となっているのに比べて、これはどういう事なんでしょう。


 
  

≪女性的な石偶≫

上黒岩遺跡では13点の線刻礫(石偶)が見つ
かった。高さ4~6cmの礫に鋭利な刃物で微細
な線が刻まれ、乳房や髪の毛の表現があること
から、女性像と考えられている。日本列島最古
のヴィーナス像ともよばれている。





 

 
 
 上掲の土偶は、日本最古の土偶として展示されていました。こちらについては、二体共“複製”とのことです。左は滋賀県の相谷熊原遺跡から発掘され、右は三重県粥見井尻遺跡で発掘されています。双方とも、13,000年前に造られたものとされ、同じく、トルソー(胸像)であるという共通点があります。


 


Ⅱ 多様な縄文列島



 縄文の文化は多様に進歩したことが窺えます。この多様な進歩は、日本列島という特殊な立地条件から生まれたものと考えます。まず、沖縄から北海道の自然条件の違いはどうでしょう。また今でこそ落ち着いていますが、時期や場所によっては火山があり、地震があり、季節によっては台風が来たり、梅雨があったり、雪が降ったりと、多様な自然条件があります。
 自然条件が多様という事は、そこで生息する動物や植生も違ってきます。世界のどこに、このような多様な自然条件の下で、一つの文化が派生しながら一万年に渡って多様に進歩して行った文化があったでしょうか。

 私たちが学校で習った文明は、メゾポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川)・エジプト文明(ナイル川)・インダス文明(インダス川)・黄河文明(黄河)でした。そして今、縄文文化に興味を憶えて以降、長江文明とか六大文明という目新しい事象に接しました。それらは、縄文文化との違いを確認するためだけに知識を得ることでした。前述の4大文明は、全てに大河沿いに広がる平野部に発生しています。
 それらの文化(新石器文化と呼べる)との決定的な違いは、縄文文化が始まった時期と続いた長さにあります。つまり、その始まりはおよそ1万5000年前で、少なくても1万2000年の間は継続した文化でした。

 それらのことを前提にし、是非ともご覧頂きたいものです。


 


 


≪縄文文化の地域性≫




≪縄文文化の時代≫

縄文文化とは、およそ1万6千年前から2400年前の日本列島域において狩猟・採集・漁労・栽培を主な生業とし、土器や弓矢を使い、本格的な定住生活をおこなうようになった文化の総称である。この時期を、日本の歴史では縄文時代とよぶ。定住生活がはじまったことによって各地では、共通性をもちつつも、多様な地域文化が形成された。



各種縄文土器類

≪中、深鉢(山梨県 柳田遺跡 約5000年前)
 右、香炉形(青森県 是川中居遺跡 約3000年前)≫


  

  

 上段右の『高炉型土器』は、土器の中で唯一レプリカではありません。




≪定住生活の進展≫

  
 展示パネルでは、計画的な土地利用→動物の飼育と利用→高度な植物利用技術→木工・編み組技術→計画的な食糧の調達などの説明や、トチの実の加工方法(下)などの説明があります。




 続いて、海をわたった縄文人→外から来た人びと→移動する人・モノ→地下資源の採掘→交易品の生産→交易・交流ネットワークの発達を説明しているパネル(下)や、木製の舟の展示があります。




≪縄文人の家族と社会≫

 

 続いてパネルには、縄文人の一生→縄文時代の家族像→墓域における区画からみた家族→特別な人びとの出現(愛知県保美貝塚の叉状研歯人骨→北海道カリンバ遺跡→「威信財」の出現)の説明があり、各種遺物の展示があります。


 下に載せたのは、子供を著わしている各地域の各種土偶です。これらの他に後にも触れますが、出産土器と呼ばれる土器もあります。下写真の『子を抱く土偶』は、展示の土偶の中で唯一レプリカではありません。




≪左、あかちゃんの土偶(青森県 沖中遺跡) 右、子を背負う土偶(石川県 上山田貝塚)≫

 


≪左、出産をあらわした土偶(山梨県 釈迦堂遺跡) 右、子を抱く土偶(東京都 宮田遺跡)≫

 


≪縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」≫

 


右写真の墓には、下記の説明書きがありました。

【多数合葬・複葬例】
中妻貝塚からは103体もの人骨が埋葬された特殊な墓が見つかっている。人骨は一度埋葬された遺体を意図的に再び寄せ集めたもので、合同で葬ることによって祖霊祭祀の際のモニュメントとされたと考えられている。同様の事例は愛知県保美貝塚や、千葉県古作貝塚、権現原貝塚等でも見つかっている。



 生があれば死が訪れる。それらが窺えるものが、現在に残されている石壁や小石に描かれた絵であり、土器や土偶に描かれた表現にあります。子孫繁栄に関連する男女の性器や、女性の妊娠から出産に至るドラマ。そして、親子の愛が垣間見える様々な表現。それと共に、家族愛と仲間や動物達をもいとおしむ心。それらが、上掲の合葬にも繋がり、下の土器類に繋がっているんだと考えます。



≪左、中 男女像の描かれた土器(新潟県 井の上遺跡)、約5000年前≫ ≪右、出産土偶≫

  


≪左、みみずく土偶(茨城健 広畑貝塚) 中、土偶(岩手県 立石遺跡) 右、土偶(青森県 亀ヶ岡遺跡≫

  


≪左、土偶(岩手県 日戸遺跡 右、トリ形土製品(北海道 美々4遺跡≫

 



 ここで余談となりますが、上写真の土製品(動物形土偶=ビビちゃん)については、今回の旅で北海道埋蔵文化財へ寄った際に親切な説明を受けました。その方はこの“トリ形土製品”について「展示している形はサカサマじゃないかと考えます。サカサマにすると、アザラシ類だと考えます」との事でした。私は、こちらの説に同意し感心しました。


≪東アジアの中の縄文文化≫

縄文文化は、世界的にも独自性の高いユニークな文化である。それ故に中国大陸や朝鮮半島といった列島周辺地域との交流はあまりないと思われてきたが、近来の研究成果は、縄文文化が決して孤独なものではなかったことを次第に明らかにしてきている。そしてその交流は、やがて渡来する新しい文化の先駆けともなっていった。


大陸との接触

縄文時代の資料のなかにも土器や土偶など朝鮮半島や中国大陸とのつながりが推定されるものがある。量は少なく、そのつながりは強くなかったとも想定されるが、このようなつながりが、やがて渡来する新しい文化の窓口となったのであろう。

≪左、大陸の影響を受けた可能性のある資料≫ ≪右、大韓民国の土偶(新石器時代前期)、新岩里遺跡≫
 


Ⅲ 水田稲作のはじまり



≪列島各地の初期水田稲作≫

水田稲作は約600年で九州から東北にかけてひろがった。縄文の伝統の強弱や環境の違いに応じて、各地に特色ある水田稲作文化が花開いた。金属器が出現する前の石器時代の最終段階にあたり、地域性が豊かな段階である。


≪朝鮮半島の農耕社会化と日本列島≫
朝鮮半島の農耕 社会化

紀元前15世紀ごろから数ヘクタールもある畑でコメ・アワ・キビなどをつくり、紀元前11世紀には水田稲作がはじまる。紀元前10世紀に環濠集落や区画墓が成立し、遼寧式銅剣の副葬品をもつ人びとが現れることは、農耕社会の成立を意味する。


≪朝鮮半島の農耕 社会化≫

 





 このコ-ナーのパネル展示は、最古の畑稲作→青銅器の出現→東アジアにおける水田稲作の拡散→農耕社会の成立→区画墓の成立→朝鮮海峡を渡る、と続いています。

 それらの説明は互いに関連性が少なくて、一貫していないと感じます。一つ大事な点は、小生は、一地方だけの事象で他所の出来事を断定するようなこととは組しないという事です。大陸(中国)と半島(朝鮮)と島国(日本)は、相互に関連している筈なので、そこには、相互に納得し得る説明が必要と考えます。

 つまり、大陸からこの時代に半島へ渡る意味、そして、半島に水田稲作が根付いたのか、それとも根付かなかったのか。そして、半島から何故島国へと渡って来たのか?それらの事は、上のパネルでは不明です。ただ、事実だけは、この時代にこんな遺物がある。同様の遺物が、ここにもある。という遺物捜査のような説明に終わっていたというのが、感想です。


 尚、この件については小生、持論をもっていますので、紹介する機会が訪れれば幸いです。


  



Ⅳ 倭の登場



紀元前1世紀ごろに、倭人は漢王朝を中心とした東アジア世界に登場した。新たな対外交渉がはじまる1・2世紀の弥生時代後期には、倭人の世界も大きく変化した。地域のまとまりがより明確になり、地域を超えた交流もさかんになった。そのなかで、外部との交流を担う特殊な人物があらわれた。
ここでは、中国と朝鮮半島、日本列島の各地に目を向け、お互いの結びつきをながめることにしよう。


 

≪弥生文化とはなにか≫

水田稲作がはじまってからの約600年と、後半の約600年は大きく異なる。前半は金属器のない石器文化最終末段階にあたり、後半は石器と青銅器と鉄器が使われる初期鉄器文化段階にあたる。これまでのいわゆる弥生文化のイメージは後半を指す。


4つの文化説
紀元前3世紀に水田稲作の範囲は最大となるが、利根川を挟んで北と西の水田稲作文化は、社会の複雑度や広域祭祀の面で大きな違いを見せる。もし両者を別の文化と考えるなら、続縄文文化、貝塚後期文化とあわせて、4つの文化となる。


3つの文化説
紀元前4世紀以降、日本列島は水田稲作をおこなう本州・四国・九州の弥生文化、北の海の海洋漁労に依存する続縄文時代、南のサンゴ礁の魚貝類採集に依存する貝塚後期文化の3つに分かれる。従来の考え方である。




4つの文化へ

紀元前4世紀に東北北部で水田稲作がはじまると北海道では続縄文時代がはじまる。南には紀元前7世紀ぐらいまでには貝塚後期文化がひろがっていた。水田稲作をおこなわない北と南の人びとと、これらにこれらに接する北縁や南縁の水田耕作民は、盛んに交流し物資を交換していた。水田稲作民と非水田稲作民のくらしと交流の実態に迫る。




展示パネルは、北縁、南縁の水田稲作文化→北の文化(続縄文文化)、南の文化(貝塚後期文化)と掲げられ、水田稲作文化の導入前の縄文文化時代と違って、地域によって進む方向が変わって行った様が窺えます。

 本来、小生が興味を憶えて旅をしているのは、縄文文化であり、弥生文化の基となる水田稲作が根付くまでです。弥生時代となって、誰がどの地方を治めようが、中国の歴史書に登場しようが、興味はありません。



 第1展示室のⅣを廻っているにも関わらず、一時間半も掛かってしまっています。このペースでは、JR佐倉駅からの便に間に合わなくなります。この資料館は第6展示室まであるようですが、とても、一日で廻る事は不可能です。私たちは、半日で、第1展示室の半分ほどで、今日は終了としました。

 11時半頃には、展示室を出てレストランで昼食としました。帰路のバスは、12時23分発で、JR佐倉駅へ。佐倉から東京駅までは“グリーン車”へ乗ります。これは、駅員さんから朝方、教わった事です。駅のプラットフォームにはグリーン券自動販売機がありました。こんな自販機は初めて眼にしました。

 この自由席特急券の“グリーン券”は、車内の開いている席へ座ると車掌さんがやってきて、検札します。勿論、私たちは「フルムーン夫婦グリーンパス」を見せればOKですが。一般の人達は、車掌さんから切符を購入していたようです。検札が終われば、座席の上のランプが赤からグリーンに点灯しました。

 東京駅には予定より随分早く着いたのですが、こんなことも想定内。駅のキオスクで弁当を入手し、東京駅から(16:03)ひかり479号 → 岡山(20:20)で乗り換えて、岡山駅から(20:39)しおかぜ27号 → 松山(23:33)に着く便で、今回の旅は無事に終了しました。

 今回の旅で、安易な計画では結末が見えている事を学びました。そして、計画を練った段階でのシュミレーションは何度も行う必要がある・・という事も。