小年表その@
1994年〜1997年
1994年〜1997年
1994年3月
第1回霞ヶ浦高校演劇部同窓会が土浦市桜町の魚民にて行われる。
その会に出席していた泣面八太郎氏(元劇団バナナサンデー代表)から「これだけメンバーが集まったのだから、一度公演をやってみたらどうか?」の一言。「よし絶対やろうぜ!」の声とともに会は盛大に幕を閉じる。
第1回霞ヶ浦高校演劇部同窓会が土浦市桜町の魚民にて行われる。
その会に出席していた泣面八太郎氏(元劇団バナナサンデー代表)から「これだけメンバーが集まったのだから、一度公演をやってみたらどうか?」の一言。「よし絶対やろうぜ!」の声とともに会は盛大に幕を閉じる。
1994年10月
翌年の旗揚げ解散公演実現に向けて演劇部OB(一部現役も)9名が集結。
劇団名も「劇団爆弾」「霞ヶ浦アンラッキーボーイズ」等の候補が上がり、後者に正式決定(後に"霞ヶ浦"を"土浦"に変更)し、準備を進めていく。
1995年3月19日
つくばアルスホールにて『世界一怖い先生』公演実施。
当時、地区ではあまり前例のなかった"高校演劇部OBによる劇団の自主公演"という物珍しさから、地元新聞社・広報社の記者の方も来場する。
つくばアルスホールにて『世界一怖い先生』公演実施。
当時、地区ではあまり前例のなかった"高校演劇部OBによる劇団の自主公演"という物珍しさから、地元新聞社・広報社の記者の方も来場する。
当時は演劇部OB公演というと、引退や卒業を控える高校演劇部員が「引退(卒業)公演」として学内で公演を行う程度であり、卒業した演劇部員OBが再度集まり、しかも一般の会場を借りて夜間に公演を行うというのは極めて異例のことだった。
また夜間公演ながら観客動員数もアンラッキーボーイズ自主公演としては、この時が最多記録となっている。(ただし、その多くは劇団メンバーの関係者だった)
公演は成功のうちに終えたが、あくまで1度きりの"OBメンバーによる記念公演"という位置づけだったため、この公演が最初で最後になるはずだった。
また夜間公演ながら観客動員数もアンラッキーボーイズ自主公演としては、この時が最多記録となっている。(ただし、その多くは劇団メンバーの関係者だった)
公演は成功のうちに終えたが、あくまで1度きりの"OBメンバーによる記念公演"という位置づけだったため、この公演が最初で最後になるはずだった。
1995年夏
旗揚げ公演に参加した一部のメンバーにより、劇団再生計画が持ち上がる。
またそのタイミングで霞ヶ浦高校演劇部とは関係なかった一般メンバーが数名加わる。
1996年
「劇団活動は社会教育の場にはふさわしくない」という理由などで使用許可を認めなかった某施設を相手取り訴訟を起こす(水戸地裁土浦支部)。
旗揚げ公演に参加した一部のメンバーにより、劇団再生計画が持ち上がる。
またそのタイミングで霞ヶ浦高校演劇部とは関係なかった一般メンバーが数名加わる。
1996年
「劇団活動は社会教育の場にはふさわしくない」という理由などで使用許可を認めなかった某施設を相手取り訴訟を起こす(水戸地裁土浦支部)。
結果的に使用許可は認められるかたちとなったものの、その話題が地元新聞紙に大きく取り上げられ、違った意味合いで劇団名が世間に浸透する。
1996年8月
一般向けに劇団広報紙「アンラッキー新聞?」を作成、発行。後に「ソフトメン通信」「SO・FU・TSU」「TUB STAGE NETWORK」「劇団アンラッキーボーイズ広報紙」に変わり現在に至る。
一般向けに劇団広報紙「アンラッキー新聞?」を作成、発行。後に「ソフトメン通信」「SO・FU・TSU」「TUB STAGE NETWORK」「劇団アンラッキーボーイズ広報紙」に変わり現在に至る。