「涙の向こうに見えるもの」


 -3-


「……ぐすっ」
「はは、すげぇ顔」
「そ、そりゃあ…思いきり泣いたからね…」
マサルに”すげぇ顔”と言われて、どんなひどい顔なんだか…と恥ずかしくなった。
きっと目は真っ赤でまぶたは腫れ、鼻の頭は赤くなっているんだろう。
大人なのにこんなに思いきり泣くなんて、恥ずかしくて穴があったら入りたいところだが、気分だけはいい。とてもすっきりしているのだ。
溜まっていたものが、涙とともに流れていったのだろうか。
「泣けば誰だってそうなります。マサルも泣いた時は真っ赤な目ですごい顔―」
「わー!!俺の話はしなくていい!すんな!!」
「…自分のことを棚に上げて話すからだ。おまえの方がひどい顔だったぞ」
「分かった!分かったから!!もう言わねぇよ!」
「…ふん」
「ははは…」

ティッシュで涙と鼻水を拭いて、ふぅ…と息を吐くと、スッとコウノスケがまた湯呑みを差し出してきた。
「お茶のおかわりをどうぞ」
「あ、ありがとう…」
「俺も飲みたい!」
「ちゃんと三人分淹れている」
「よしよし」
「…なんだ、そのお茶が気に入ったのか」
「だって美味いじゃん」
「それだけ値も張るんだからな。心して飲め」
「でも、茶だけじゃなぁ…何かないのかよ?」
「……」
「あ!その顔はあるな!?」
「…ちっ」
どこにあったのか、コウノスケの手元に箱が現れた。もうどこから何が出てきても驚かない。だって、天使なんだから。きっと何だってできる。

箱を開けると、中には和菓子屋の店頭で見かけるような上品そうな饅頭が並んでいた。
「美味そうな饅頭だな!」
「老舗和菓子店の上生菓子だ。美味しいに決まっている」
「俺、その白いのがいい」
「馬鹿者。おまえは最後だ」
「…ちぇっ」
「さぁ、選んでください」
コウノスケが俺に箱を差し出した。
「え、俺から選んでもいいの…?」
「ええ。あなたのために選んできた品ですから。ちなみに、どれもつぶ餡です」
「……そこも俺の好みに合わせてくれたんだ」
「当然です」
偉そうにえっへんと胸を張るコウノスケは、ちょっと可愛かった。
「じゃ、じゃあ…これを。ありがとう」
「どういたしまして。マサル…はいらないだろ」
「食べるわ!!フタをするな!フタを!!」
「…はは、二人は…いや、三人か。三人は仲が良いんだね。先輩と後輩?上司と部下…かな?」
見た目は親子みたいだけれど。
すると、二人が動きを止めて俺を見た。コウノスケはきょとんと、マサルは眉間にシワを寄せて。
「…あんたさ、このやりとり見て”仲が良い”っておかしいだろ」
「え、そうかな」
「だって仲が良いやつが、石にするとか粉々にして海に撒くとか言わないだろ」
「ま、まぁ…そうだけど…。でも、仕事仲間としては信頼しあっている感じがするし…」
「そりゃ、こいつは仕事はできるからな。あ、仕事は、だからな。それ以外はあんたが言ったみたいに悪魔みたいなやつだぞ」
「……」無言でマサルを睨みながら、コウノスケはずずっとお茶を飲んだ。
たぶん、マサルと同じくらい、彼もお茶が気に入ったんだと思う。
「悪魔みたいなやつで悪かったな。生まれ持った性格だ。今更直せない。マサルが酒をやめられないのと同じだ」
「…一緒か?」
「一緒だろ」
「違う気がするけど……いっただきまーす。…んん!ほほふぁんふう、ふめぇ(この饅頭、うめぇ)!」
「当たり前だ。一ついくらだと……ああ!」
「ふぁ?」
「おまえ……一つ四百円もする上生菓子を一口で…っ」わなわなするコウノスケ。そして、マサルはごっくんと飲み込んでギョッとする。
「ふぇ!?よ、四百円!?この…ちっさい饅頭が!?」
「一つ作るのにどれだけの手間暇がかかっていると思っている!!使う材料から細工までこだわって作った和菓子なんだぞ!安いわけがないだろう!!」
カッ!と目を見開いてコウノスケが吠える。まるで和菓子界の重鎮みたいな台詞だ。
「そんなん知るかよ!先に言えよ!」
「おまえのようなやつに食べさせるんじゃなかった!」
「残念でしたー。もう食べちまったもんねー!ぐえっ!!」ポットがマサルの頭に落ちてきた。
「ああ…」
「おまえには二度とやらん!」コウノスケが鼻息荒く、マサルを睨み付けた。
「いってー!!」
痛みにのたうち回るマサル。だが、血は出ていないようだ。
普通なら頭がパックリ割れて死んでいる。
…天使って不死身なのか?

饅頭を片手に固まっていると、コウノスケが俺を見た。
「……どうしました?あなたは遠慮なく食べてください。まだありますから、一つと言わず二つでも三つでも」
「…ううう、うん…」
非常に食べにくいんですけど。

普段より口を小さくして小さな饅頭を何口かで食べ終わると、コウノスケがコホンと咳払いをした。
「…では本題に入りましょう」
「はい…っ」ピンと背筋を張った。改まって言われると緊張してしまう。
「ああ、そんなに背筋を張らなくても。普通に話すだけですから、力を抜いてください」
「…う、うん…」
「色々疑問はおありでしょうが、ここへ来た理由はただ一つです。ぼくたちはあなたに呼ばれて来ました。あなたは呼んだつもりはないと思いますが」
「うん、まったく…」
「だいたいの人間が無意識なので、あなたがおかしいわけではありません。人間は無意識のうちに想いや願いを心の中で強く思うことがあります。それが天界にまで届くのですよ」
「天界って…空の…上?」
「正確には違いますが、説明が面倒なのでそういうことにしておきます」
「面倒なんだ…」
「天界には様々な仕事をしている天使がいまして、ぼくたちは人間の願いや想いを受け取り、手助けすることが仕事なのです」
「へぇ…。つまり、俺からの強い願いや想いが天界に伝わって、君たちが来た…と」
「そういうことです」
「強い願いや想いか……」そんなもの、俺にはなかったように思うのだが。
「強い想いってのは色々ある。”生きたい””死にたくない”という想いもあれば、”生きていたくない””死にたい”という想いも一種の強い想いだ。そういう負の想いの方が強くて、実は厄介なんだよ。ああ、いってぇ……」マサルが頭をさすりながら会話に入って来た。
「…なんだ、復活したのか」
「なんだとはなんだ!!」
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇよ!でっけータンコブできたさ!ほら!」
「…わ、痛そう…」
「そんなもの、明日には治るだろ。腕や脚が吹っ飛んだわけでもないんだ。ギャーギャー騒ぐな」
「っかー!相変わらず性悪だな!あんた、この姿に騙されるなよ?これが本性なんだからな?」
「う、うん…」
「こいつは本当に―」
「…おい。まだ話の邪魔をするつもりか?」眼鏡の奥の目が鋭く光った。マサルがビクッとして頭が取れそうなぐらいブンブン首を振って後ずさった。
ここで逆らってしまったら、ポットを頭に落とすよりもひどいことが起こる、そう感じたのだと思う。俺ですらそう思ったのだから、マサルはもっと恐ろしいことを思い浮かべたのかもしれない。
と、コウノスケが俺を見た。
「…話を続けてもよろしいですか」
「ど、どどどうぞ…っ!」俺も腕が飛んでいきそうな勢いで、両手を差し出した。
「…負の想いが厄介なのには理由があります。そのような想いを持ってしまった原因に悪魔が関係している場合があるのです」
「…え!?あ、悪魔!?」
「はい。悪魔に取り憑かれ、負の気持ちが増幅してしまう時があります」
「ま、まさか俺も…?」
「あなたの場合、身体、心、あらゆる部分を視てみましたが、悪魔の姿はありませんでした。ご安心ください」
「そ、そう、よかった…」
「よ、よくはないだろ。悪魔が原因じゃないってことは、その負の想いはあんたの内面からすべて生まれてきたってことになる」遠慮がちにマサルが口を挟む。コウノスケが睨んだが、何も言わなかった。どうやら参加を認められたようだ。
「…あぁ、まぁ、そうだね。でも、心当たりはたくさんあるから、やっぱりなって思ってるよ」
「…そうかい」
「…ねぇ、君たちはどこまで知ってるんだい?」
「…何を?」
「俺のこと」
「まぁ…だいたいはな」
「はは、だいたいってどれくらいなんだろうなぁ」
「…あなたのこれまでの人生をお話ししていただく必要はない、という程度です」
「それ、だいたいじゃなくて、全部ってことだよね」
「そうとも言います」
「じゃあ、俺がこんな風になった理由は君たちにも分かってるってことだよね」
「…ええ……と言いたいところですがー」
「そうとも言えない」
「え?」
「あんたが語るあんたの人生は、確かにこうなっても仕方がないと思うかもしれないが、あんたの視点だけであんたの人生を判断するわけにはいかないからな。別の視点でも見なくちゃいけない」
「…俺の人生なのに?」
「あんたの人生、あんた一人で生きてきたわけじゃないだろ?」
「そりゃあ…まぁ……」
「家族、友人、同僚、先輩、上司…これまでの人生で関わった人間はたくさんいる。相手が思ったことや感じたことが、すべてあんたが考えていることと一致するとは限らないからな」
「…そうかもしれないけど、俺の周りの人たちはきっとだいたい俺が思ってる通りだよ…」

そう、きっと俺が考えているようなことをみんな思っているはずだ。
大学に落ちた時の両親の顔、どんどん昇進していく同期の勝ち誇った顔、ため息をもらす上司の顔。口に出さなくても心の声が聞こえてくるじゃないか。
「はたして、そうでしょうか」コウノスケがポツリと呟く。
「…え?」
「ぼくたちがあなたに伝えたいのは、そこです」
「え…ど、どこ…?」
マサルが俺の頭にチョップをしてくる。
「った!」
「あんた、トシヒコ二号って名前にしたいぜ」
「な、何、トシヒコ二号って…」
「トシヒコは敵う者がいないほどの天然ボケ男です。そして察しが悪い。あなたはそれと一緒にされたということです」
「…ひどいなぁ」
「そうですか?ぼくもあなたはトシヒコと似たようなものだと思いますが」
「えぇ…俺はそんなに天然でもないし、それなりに―」
またマサルが俺の頭をチョップする。
「いてっ」
「それなりに人の気持ちを察することができたら、こんな風にはなってないだろ」
「…う…」痛いところをつかれた。
「相手はこう思ってるんだろうって決めつけて、それで人の気持ちを察したつもりになってちゃ本当の気持ちには気づけない。俺たちはあんたにそれを伝えに来たんだよ」
「……き、決めつけてるわけじゃ…」
「じゃあ、本人に聞いたのか?」
「それは…」
「聞いてないってことは、決めつけてるってことになる。あんたにそのつもりがなくても、相手にとったらそうなっちまうんだよ。相手はあんたに話も聞いてもらえず拒まれている、そう感じてるだろうぜ」
「そんな…」
俺は、相手の気持ちを決めつけるとか、拒むとか、そんなつもりはなかった。人に迷惑をかけようなんて、そんなつもりもさらさらない。
…俺は…ただ…
「お、俺は……俺は、ただ―」
「ただ逃げているだけですよね」
「……!」驚いてコウノスケを見た。
「もう傷つきたくない、ただその一心で逃げているだけ、ですよね」
「…な、何で……」
「あんたのことはだいたい分かってるって言ったろ?」またニッとマサルが笑う。
「…っ」
まさか口に出したこともない、心の内まで言い当てられるなんて。
この人たちは…本当、どこまで…

「…まいったなぁ…もう……」

ああ、もう…
完全に降参だ。


…そう、俺は逃げている、ただそれだけなんだ。
相手の本心を知ることが怖くて、ずっと逃げてきた。自分の本心を伝えたら相手がどう思うのか…嫌われるんじゃないか…それを考えると不安で言いたいことも言えない、ただの臆病者だ。

”父さん、俺、行きたい大学があるんだ。どうしてもそこに行きたい”

初めて自分の気持ちを親に話したあの時。
やっと自分の足で進む道を決めたあの日、俺は希望に満ちていた。
でも、挫折して、あっという間に夢も希望もなくなった。

自分の気持ちを口にするんじゃなかった。
行きたい大学があるなんて、言うんじゃなかった。
両親は、渋々ながら俺の希望を受け入れてくれたのに。
心の中は、未だに後悔と申し訳ない気持ちであふれている。

期待を裏切ってごめん。
こんなダメな息子でごめん。
…ごめん。ごめんなさい。

こんな想いはもうしたくない。
何も言わない。
何も聞きたくない。

そうやって、俺はずっと逃げている。

「…大学受験に失敗してから、逃げ続ける人生だった。両親の目が、周りの目が怖かった。どう思われているのかが怖かったんだ」
「……」
「みんなが、俺のことを悪く思ってるんだと思えば、期待もしなくて済むし、本人から本心を聞く必要もない。いつしか、そうやってすべてのことを諦めるようになっていったんだ。空気のようにしていよう。何を言われても、笑っていよう…って……」
「…大学受験の失敗が、あなたにとって初めての大きな挫折だったのですね」
「うん……はは、情けないやつだよね。たった一度の挫折で現実から逃げるなんて」
「…いや。分かるよ、あんたの気持ち」
「え?」マサルの言葉に顔を上げた。
「俺も逃げてた過去があるからな。逃げたいと思う気持ちは分かる」
「…そう…なの…?」
「俺とさっきから飛んでるトシヒコも、天界では問題児って言われてたんだよ。まぁ、今もそう思ってるやつもいるけど。どんな仕事をしても役立たずで、どの部署に行っても仕事できないし、周りのやつらと問題ばっかり起こして職を転々としてた」
「……」
「誰にも認めてもらえず、問題児ってレッテル貼られちまって自暴自棄さ。やる気なんて出ないし、心は荒む一方だ。生きていることさえ、面倒になったこともある。いっそ、消えた方が楽なんじゃないかってな」
マサルにもそんな過去があったなんて。
「そうだったんだ…」
「だから、大きな挫折であんたが自信をなくして、そんな人生なんて終わらせたいと思う気持ちはよく分かる。それだけ、あんたは頑張ったんだろうな。だからこそ、ショックも大きくて、なかなか立ち直れない」
「うん…」
「だが、ずっとそのままでいいわけじゃない。立ち直らなきゃいけない。自分のためにも、周りの人間のためにも」
「……俺は自分だけが逃げているつもりだったけど、俺が逃げることで、人の気持ちを決めつけることになって、それが相手を拒むことになっていたんだね……どうしたら立ち直れるかな…」
「立ち直れるかどうかはあんた次第だ。まずは立ち直るために何をするか、だ。あんたの場合、まずは相手と向き合って、ちゃんとそいつの想いや気持ちを受け止めることじゃないか?」
「受け止める…」
「現実から逃げないってことだな」
「……」

ずっと逃げ続けてきた俺に”逃げない”ことができるだろうか。
散々、周りから逃げ、拒絶してきた俺に、今更手を差し伸べてくれる人なんて、いるのだろうか。
いない気がしてならない。
自分で招いたことなのだから、自業自得だけれど。

俯いていると、マサルが口を開いた。
「……悔しいんだけどさ、俺たちはこいつに救われたんだよ」そう言ってコウノスケを指差した。
「え…」
「こいつの元上司が、俺とトシヒコに合う仕事はここなんじゃないかって言ってくれてさ。こいつが俺たちを引き取ってくれたんだよ。俺の能力、トシヒコの能力を活かせるように」
「……」
「最初は他の仕事と同じで、また問題が起きて首になるんだろうって思ってたけど、こいつが俺たちを信用してくれて、俺たちの能力も認めてくれたんだ。俺たちと向き合ってくれたこいつとこいつの元上司のおかげで今の俺たちがいるんだ」
「……」
「あんたも周りの人間とちゃんと向かい合ってみろ。あんたを分かってくれるやつや、手を差し伸べてくれるやつがきっといる」
「いる…かな」
「いるさ。俺が嘘を言うと思うか?」
「…言わない…と思いたい」
「はは、安心しろって。言わねぇよ。単にあんたが見えていないだけだ。あんたの周りには、あんたのことを心から心配し、想ってくれる人たちがいる。あんたとちゃんと話したいと思っているやつは、あんたから拒絶されて悲しんでると思うぜ」
「……」
「そろそろ気づいてやんな。きっと逃げていた分、気づいていないことが山ほどある」

俺のことを心から心配し、想ってくれる人…
…そんな人が……いる……

俺の周りには、俺に愛想をつかせた人しかいないと思っていた。
でも、それは俺が作り上げて決めつけた勝手な姿だったのか。

父さんと母さんの顔が浮かんだ。
悲しそうな目で俺を見る二人。
ギュッと胸が苦しくなった。

スクッとコウノスケが立ち上がった。
「…さて。そろそろ二時間です」
「え…」
「トシヒコがもうすぐゴールしますので、あなたとの時間もそこで終わりとしましょう」
「え、ええ?そ、そんな!俺の―」
「え!もうすぐゴール!?今、何周?」うれしそうにマサルが立ち上がる。
「十九周だ」
「お、あと一周じゃん!時間は?間に合うのか?」
「…飛んでいる間に一定の速度で飛べばいいと気づいたようだからな。このまま行けば一分弱余る」
「へぇ!すげぇな!」
興奮気味にマサルが空を見上げているが、俺はそれどころじゃない。
俺を心から心配してくれてる人は?想ってくれている人は誰なんだ?
「え、あの…」おどおどしてコウノスケに近寄る。
「はい?」
「…そ、その…」
「ぼくたちの役目は手助けです。十分サポートはしました。これからのことは自分で考えてください」
「そ、そんな…」
「冷たいですか?あなたに生きているという素晴らしさとあなたの変わるべきところもお伝えしたのに?」
「そ、そうなんだけど…」
だって、肝心なことが…
「一から十まで教えてもらおうと思っていたら変われませんよ」
「…っ」
「何に気づいていないのか、何を知らないのか。今まで逃げて来た人たちと向き合って、自ら真実にたどり着いてください。それがあなたが変わる第一歩です」
「変わる第一歩…」

「あ!来た!」マサルが声を張り上げた。俺には見えないが、彼が近くまで来ているようだ。
「…トシヒコはぼくが指定した条件をクリアしようとしています。それができたのは、クリアするためにはどうしたらいいのかを飛びながら考え、そして答えにたどり着いたからです。人間も同じではありませんか?経験し、学んでいく。違いますか?」

ああ、そうか。
全部俺が逃げてきた部分だ。
相手の本心が怖くて分かっているふりをして逃げてきた。仕事もそうだ。気づいたふり、知っているふりをして何事も真剣に学んだり取り組んでもこなかった。

何をしても上手くいかなかったのは、周りのせいじゃない。自分のせいだ。
何も学べていなくて、何も身についていない自分が認めてもらえるわけがないんだ。

キーンッ

俺にもトシヒコの飛ぶ音が聞こえた。
「トシヒコーッ!あと少し!!」
「最後の一周でスパートをかけたか。制限時間の二分前。やるじゃないか」
コウノスケの手元に突然紙とペンが現れた。
「…それは…?」
「成績表のようなものです。ぼくは日々二人の仕事に評価をつけなければなりません」
「評価か。へぇ…サラリーマンみたいだね。天使も大変なんだな」
「トシヒコは条件をクリアしますから、加点をつけておくとしましょう」
「マサルは?」
「マサルの評価はあなた次第です。あなたの心にきちんと寄り添えたかどうかで判断します」
「ものすごく心に寄り添ってくれたよ!おかげで俺は救われたよ。生きたいと思えたのも彼のおかげだ」
「そうですか、では加点をつけましょう」
「よかった!…あ、もちろん、君も寄り添ってくれたよ!」
「…ぼくが寄り添うのは女性だけです。あなたには正論をお話ししているだけであって、寄り添ったつもりはありません」プイッと顔を背けた。
冷たい。そして何て女好き発言。
見た目、こんなに小さい少年なのにギャップがすごすぎる。

でも、そんな冷たいコウノスケの言葉にもハッとさせられることもいっぱいあったし、心に沁みた言葉もあった。
冷たい中にも、彼の優しさがあった……のだと思いたい。

「よしっ!ゴォーーールッ!!」
「わっ」
マサルの声とともに、スタートと同じように突風が吹いて、また風に煽られて後ろにひっくり返る。
「よっしゃー!!」と上空からうれしそうな声が返ってきた。
身体を起こし、突風でボサボサになった髪の毛を整える。
「俺がウダウダ言っている間に、彼はまた一つ成長したんだね。すごいなぁ」
コウノスケがまた紙に何か書いている。条件をクリアしただけじゃなく、タイムも速いからきっとトシヒコにまた加点をつけたんだろう。
「トシヒコは強くなるための努力は惜しみません。失敗しても、また挑戦します」
「怖くないのかな、失敗するの」
「…”怖い”という気持ちより達成したいという気持ちの方が上をいくのでしょう。トシヒコの目に映っているのは、過去ではなくこれからの未来だけです」
「…そっか、彼は前だけを見てるんだね。過去はもう、振り返らないんだ」
「そうです。…だから、ぼくたちはあなたのところに来たのです」
「え?」
「過去に囚われ続けているあなたに、過去から脱した者の姿を見てもらいたかった。頑張れば人は変われる、と」
「……」
「あなたもこれから頑張ればいいのです。トシヒコやマサルのように。過去は変えられませんが、未来は変えられるのですから」
「……!」

トシヒコがフラフラと屋上に戻ってきた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「お疲れ!頑張ったじゃん!!すげぇな!」
「本当、疲れ…た……」ペタリと座り込んで、肩で息をする。かなりしんどかったようだ。
そりゃあ、地球を二十周回って来たのだから、しんどいに決まっている。どのくらいしんどいかは想像もつかないけれど。
「見事クリアだ。一時間五十八分二十秒。途中で気づいたようだな」
「はぁ…はぁ…もうちょっと早く気づいたら、もっと…楽だった…けど…ね…っ」
「スタートした時に気づいてたら、もっとタイム良かったんじゃないか?残念だったな」
「だよね!くそ~悔しいなぁ…!」

そんな彼の額ににじんでいる汗は、とても輝いて見えた。

俺もあんな風になれるだろうか。
あんな風に生きられるだろうか。

……生きてみたい。
あんな風に。

ふと見ると、笑い合う二人をコウノスケが見つめていた。呆れているような、怒っているような、何とも言えない顔で。
もしトシヒコが条件をクリアしなかったら、どうなっていたのだろう、なんてちょっとした疑問がわく。
……想像しない方がいいような気がする。
「…あれ…?」
一瞬、コウノスケの口元が緩んだように見えた。今のは…何だ?
もしかして……笑った…?

…あ…そうか。
そういうことか。

コウノスケはうれしいんだ。
マサルが俺の心に寄り添えたこと、そしてトシヒコが条件をクリアした上に良いタイムでゴールできたことが。
コウノスケは二人が全然ダメだった頃から知っていて、今日まで二人を見てきている。
常に仏頂面で、何事にも無関心で冷たいように見えるけれど、本当は二人のことを大事に想っていて、二人の成長を誰よりも喜んでいるんだ。

なんだ、やっぱり仲良しじゃないか。

「ふふっ」つい笑いが漏れてしまった。コウノスケがこちらを見る。
「…何を笑っているのですか?」
「ん?な、何でもないよ?」
素直に喜んで、笑顔で二人を褒めてあげればいいのにね、と思ってるだけ。
「……」
「その目、怖いからやめてくれる?」
「生まれつきです」

見た目だけじゃ心の内は分からない。

そうだね、分かるわけないね。



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