「涙の向こうに見えるもの」


 -2-


俺はやはり死んだのかもしれない。それなら、まだ納得できる。
彼らが話したことは、それくらい現実味のない内容だった。
「…信じてねぇな、こいつ」
「コウノスケ、どうするんだよ?」
「想定通りだ。慌てるな。ぼくたちを呼んだ自覚のない人間はだいたいこんな反応だろ」
「そうだけどさ。ま、突然現れて”俺たちは天使でーす”って言ったって信じられないよね」

そう、なのだ。
三人は”天使です”と言ったのだ。
俺に呼ばれてやってきた、と。
そんなこと、誰が信じる?
死んだらあの世にいて会える存在なのかもしれないが、俺は生きている(らしい)。
生きているうちに会える存在とは思えない。
呼んだ覚えもないし。
それに、そもそも存在すること自体…

いや、でも…

「あなたが信じる信じないは勝手ですが、こうして天使は存在するのです。ビルの屋上であったこと、そして今の状況を見れば答えはお分かりでしょう」
心を見透かしたように少年が言う。
「そ、それは……」
確かに普通ではない。
ビルから落ちたのに、俺は浮いている。
そして、彼らも。
これはただの人間にできることではない。
けれど、だからって天使と信じろとは無理な話だ。
だって、彼らにはどこにも天使らしさがないのだから。
「で、でも!天使ってこんなじゃない!」
「こんなって失礼だなぁ」
長髪男が頬を膨らませて言った。ちょっと可愛いなと思ってしまい、心の中で凹んだ。キレイな顔をしているからって、まさか男に可愛いと思うなんて。
「だ、だってそうじゃないか!天使ってのは頭の上に輪っかがあって、白い服を着て白い翼があるはずだ!」
「……」
「どこをどう見ても、君たちには当てはまらない!!」
「……相変わらず人間の天使のイメージはそれかよ。夢見すぎなんだよ、人間は。そんな天使、天使の中でも一握りだ。出会える人間なんて、そうそういない」
「そうそう。天使だって偉いのとそうでないのがいて、俺たちみたいに偉くない天使の方が多いんだ。あんたが働いてる会社と似たようなもんだよ。天使の大半はあんたたちと同じサラリーマン、お偉いさんにヘコヘコして仕事してるんだって」
「サ、サラリーマン…」
天使のイメージがガラガラと音を立てて崩れていく。俺の中にある天使のイメージなんて、ふわふわした何となくこんな感じ…程度しかなかったし、彼らが天使かどうか定かではないが、それでも残念すぎる話だ。
「でもさぁ、俺とマサルは天使だって信じてもらえないのも仕方ないと思うけど、コウノスケがそんなしかめっ面してるから、余計信じてもらえないんじゃん。いつもの営業スマイルはどうしたんだよ」
「何を言っている。ぼくは人間の男に営業スマイルなどしたことはない」
「あ、そっか。本来はこういうヤツだった。最近、女ばっかりだったから、すっかり忘れてた」
「麻痺してんな、トシヒコ。まぁ、コウノスケが人間の男にも微笑んでくれた方が仕事はスムーズにいくだろうから、そうしてほしいんだけどな」
「死んでもしない」
「…だろうな」
「じゃあ、もうこの際だから、ターゲットを女に限定したら?」
「なるほどな。そうすりゃコウノスケがいつもニコニコして仕事が捗るかもな」
「ターゲットを女性に絞ったとして、おまえたちは仕事が捗るのか?内容で選んでいたターゲットを性別だけで選ぶんだぞ。おまえたちに解決できるのか?」
『うっ……』
「それでもいいならそうするぞ。ぼくは大歓迎だ」
「いやいやいや!それは困る!!」
「やっぱりやめとこう!チームの成績が下がっちまう!」
「じゃあ、あれこれ文句を言うな。ぼくたちが天使だと思ってもらえないことは、今に始まった話ではない。ターゲットの選択方式を変えてほしくなかったら、簡単に天使だと思ってもらう方法を考えろ」
『ほーい…』

営業スマイル?ターゲット?仕事?成績?
こ、これが天使…こんな、夢のない会話をするのが天使だっていうのか。
世界中の子供たちが知ってしまったら、思い描いている美しい天使像がガラガラと崩れてしまうじゃないか。とても人には言えない。
「安心しろ。天使に会ったって誰かに話してもまず信じてもらえない。会った天使がこんなだったなんてこともな」
見透かしたようにヒゲ男が言う。
「そうそう。ま、そもそも忘れちゃうけどね」
長髪男は頷きながら、またケラケラと笑った。忘れちゃう、とは…どういうことなのか。
「そろそろ本題に入りましょう」少年が相変わらずの不機嫌そうな顔で言うと、長髪男が思い出したように頷いた。
「そうだよ!さっさと終わらせようよ。二時間以上も待ってたんだから!長くなるとは聞いてたけど、こんなに時間がかかるなんて思ってなかったし!」
「予想以上に長かったからな」
「ここまででもうすぐ三時間だ。マサルはどう考える」
「…早くて…あと二時間だな。コウノスケはどう思う?」
「…二時間半」
「はは、その可能性も高いな」
「え!ちょっと待ってよ!!二時間とかっていったら…残業じゃん!?」
「そうなるな」
「えー!!何だよ、もう!早く帰ってトレーニングしたいのに!」
「トレーニングならここでもできるだろう」
「え?」
「今回、トシヒコはやることがないだろ。ぼくとマサルが話している間にトレーニングしていればいい」
「何やれっていうんだよ?」
「地球を回る」
「はっ!?地球!?」
「天界と地上を往復するより、やりがいがあるだろ?」
「ま、まぁ…そりゃあ、やりがいはあるけど…」
「じゃあ、二時間で二十周だ」
「は!?二十!?二時間で二十はさすがに―」
「一分でもオーバーしたら減点だ」
「はぁ!?」
「よーい」
「え、ちょっ」
「スタート」
「わーっ!」
「え!?わっ!!」
突風が吹いて後ろにひっくり返る。まるで目の前をF1が走り抜けたかのような強風だ。起き上がると長髪男の姿がなくなり、ヒゲ男は風が吹き抜けた方を見ていた。まさか、長髪男が飛んでいったから突風が吹いたのか?
背中にジェット噴射するような機械を背負っていたようには見えなかった。身体ひとつで飛んでいったのか?彼はスーパーマンか!
「スピード上がったよな、あいつ。…っておい、コウノスケ。マフラーが顔に張り付いてんぞ」
ヒゲ男がプッと笑う。少年を見ると、星柄の黄色のマフラーが見事に顔面に張り付いていた。
が、動じる様子はない。フッと息を吐くと、マフラーがふわりと元に戻った。吐いた息が雪のようにキラキラしていてキレイでドキリとする。まるで子供の頃に憧れた魔法を見たようで。

「バカみたいに毎日トレーニングをしているんだ。スピードは日々上がるに決まっている。あとは体力が続けば二時間で二十は可能だ」
「なるほど、不可能じゃない数を設定したわけか」
「当然だ。ぼくは―」
「意味のないことはしない、だろ?」
「…ふん」
「さて、と。こっちは二時間で終わるか?」
「……終わらせる」
二人が俺を見た。
何を二時間で終わらせるのか、俺には見当もつかない。
今あるのは、不安と恐怖だけだった。


「どうぞ」
「は、はぁ…」
ビルの屋上に降ろされた俺は、何故か座布団の上に正座している。コウノスケと呼ばれた少年が俺の前に湯呑みを置く。
「地上で美味しいと評判の店の玉露です。まずは気分を落ち着かせましょう」
「は、はぁ…」
何が起きるのか、何をされるのかとビクビクしていたのに、予想外にお茶を淹れ始めたので拍子抜けした。少年の脇にはポットや急須など、お茶を入れる道具が並んでいる。どこから持ってきたのか。
「こういう時は本当は酒のが良いんだけどな」
「え、あ、俺は―」
「お酒が飲めないようですからお茶にしました」
「…えっ」
何故それを知っているのか。飲めないのを知っているのは家族と会社の先輩ぐらいなのに。 それに加えて猫舌でもある。だから、この熱いお茶も残念ながら飲めー
「大丈夫です。そのお茶は熱くないので、もう飲めますよ」
「えっ…」驚いて湯呑みを触ると、確かに飲めそうな熱さだ。そっと手に取って口に運んで飲んでみる。
うん、飲める。熱くない。味にもおかしなところはない。…というか、甘くて美味い。一口飲んだだけなのに、身体に染み入るような、そんな感じがする。
「玉露は熱湯で淹れるのではなく、冷ましてから淹れるものだそうですね。低温の湯でじっくり時間をかけ、旨み成分を引き出すのだとか」
「へ、へぇ…」
人間だが、そんな玉露とか淹れ方とかお茶のうんちくはまったく知らない。だって、俺の部屋には急須すらない。飲みたくなったらコンビニでペットボトルのお茶を買うだけだから。
「そのお茶はいかがですか」
「あ、え、えと、とても美味しいです…」
そう、美味い。とても。
お茶なんてどれも同じ、そう思っていたけれど、こんなお茶があるなんて知らなかった。こんなに身体に染み入って、ホッとするお茶はコンビニにはない。

「そうですか。拘って淹れてよかったです。ぼくも飲んでみるとしよう」そう言うと、少年が指をくるくると回した。誰もいないのに湯呑みの隣にあった器がふわりと浮き、ポットの前に移動すると、今度はポットからお湯が出てきた。自分に見えない誰かがいて、お茶を淹れているようにも見えるが、これまでの状況から、動かしているのは少年だ。 少年が指を回すと、何かが動く。息を吐けばキラキラする。見た目は普通の少年だが、やることはやはり普通ではない。 ただ、本当に死神ではないのか…は残念ながらまだ判断できない。

―キーンッ―
来た。彼だ。
「お、順調じゃん」ヒゲ男が上空を見上げたので、つられて見上げる。
あの音は長髪男が飛んでいる音、らしい。
先ほどから定期的に聞こえるのだが、残念ながら俺には音だけで姿は見えない。
本当に飛んでいるのかと疑いたくなるが、
「あと十八周!」とヒゲ男が叫ぶと、
「ぬおーっ!!」と声が返ってくるので、確かに上空を飛んでいるらしい。
「結構速いんじゃないか?これなら二十周いけそうだな」
「…甘いな、マサル。今のペースがずっと続くと思うのか?後半、必ずスピードが遅くなる」
「…あ、そうか。じゃあ、前半でもっと飛ばしておかないとダメか」
「……」少年が冷たい目でヒゲ男を見る。
「そのマイナス三十度級の目で見るな!俺を氷漬けにする気か!」
「…氷漬け?ふん、生温い。石にして粉々に砕いて海に撒いて―」
「海に撒くな!つーかおまえ天使だろ!二百歳を越えたベテラン天使が言うことじゃねぇだろ!」

…え?今、何て言った?に、に…二百?
「おまえがバカだからだ」
「どうせバカだよ!バカにも分かるように説明してくれよ!」
「…トシヒコには二時間で二十周できる体力が十分にある。一周を六分、それを二十回繰り返せばぴったり二時間だ。速く飛ぶ必要はない。常に一定の速さで飛び、ラスト一周を全力で飛べば、二時間を切る」
「…それはコウノスケだったら、の話だろ?トシヒコに体力があるのは知っているが、一定の速さで二時間飛ぶなんて繊細なこと、できるわけないだろ」
「己の力をいかに有効に使うか、そこも考えていかなければ、いくら身体を鍛えてもこれ以上の成長は見込めない。体力が有り余っているからといって、適当に使っていてはダメだ。繊細に力を使いこなすこと、今のトシヒコに一番必要なことだ」
「…まさかとは思うが、地球を回っている間にトシヒコにそれを気づかせようとしてんのか?」
「なんだ、気づくわけがないと思っているのか」
「…え、だって、さすがにそれは…」
「あいつを誰だと思っている?”目指せ主天使”などと平気で言う、トレーニングのことしか頭にない、負けず嫌いで甘いものと肉にしか興味がない天界一の筋肉バカだぞ?」
「…けなしてるようにしか聞こえんが…まぁいいか。だから気づくはずだって言いたいのか?トレーニングバカだから」
「もっと強くなりたいと思っているあいつなら、気づいても不思議じゃない」
「まぁ、確かに」
「…気づかなかったら、その程度のやつというだけのことだ」
「相変わらず冷てぇな。教えてやりゃあいいのに」
「あいつのためだ。人に言われて気づくことではない。マサルも今の話はトシヒコに言うなよ」
「……」
「言ったら、石にして粉々に砕いて海に撒くからな」
「言わねぇよ!つーかおまえなぁ!腹黒くて氷みたく冷たい天使であっても、そういう発言すんなよ!ほら!人間も怯えてんじゃねぇか!!」
ヒゲ男が俺を指差した。少年が俺を見るので、ビクッとする。
怯えてますとも、怯えてませんとも言えず下を向いたが、ビクッとした時点で”怯えている”ことがバレバレだ。
「ご安心ください。人間には何もしませんので」
されても困る。というか、人間にはしないということは、ヒゲ男のことは本当に石にして粉々に砕いて海に撒けるということになる。ゾッとしてしまう。
死神でも天使でもなく、メデューサだったのか。

メデューサらしき少年は、思い出したかのように湯を入れた器を見た。
さっき、俺にお茶を入れた時と同じように器が浮いて、急須の方へと移動していく。どうやらあの器に入れることでお湯を冷ましていたようだ。
「低温…ねぇ。人間ってのは面倒な生き物だな。たかが茶にまでそんな拘ってさ」
呆れたようにヒゲ男が呟く。俺もその面倒な生き物と言われた人間だが、その見解に賛成だ。色んなことが面倒くさくて煩わしくて。結果、嫌になって俺はこうなったのだから。
ようやくお湯が急須に注がれる。
「やっと飲めるのか」
「いや、これで二分待つ」
「か~面倒くせぇ。飲むまで何分かかるんだよ」
少年が手のひらを見ると、ポンッと懐中時計が出てきた。もしかしたら魔法使いかもしれない。…ああ、選択肢が増えてしまった。
「…確かに人間は面倒くさい生き物だ。考えなくてもいいことを考え、悩み、立ち止まってばかりいる。だが、それを人間の悪いところだとは思っていない。良いところでもある。例えばこのお茶のように」
「この茶?」
「可能な限り美味しく食するにはどうしたらいいか。それを追求したからこそ、このような面倒くさい飲み方があるのだろう。地上に美味しいものがたくさんあるのは、おそらく人間の面倒くさい部分のおかげだ」
「…まぁ、地上に美味いもんが山ほどあるってのは確かだが、そんな良いものを生み出す人間ばかりでもないぜ?」
「…それはぼくたち天使だって同じだ。部下に嫌がらせをするようなレベルの低い天使もいれば、下級天使のことまで思いやる素晴らしい天使もいる」
「後者は言わずもがなだが、その前者の天使ってどんなやつだよ」
「…分かっていて聞くな」
少年にそう言われてヒゲ男がニヤッと笑った。どうやら、どちらも身近にいる人物のようだ。
本当に、彼らは俺たち人間と似たような世界で生きているらしい。

それにしても、この三人(一人は今、地球を回っているらしいが)はどういう関係なのだろうか。同僚?部下と上司?見た目はヒゲ男が上司のように見えるが、やりとりからして、どうやら少年が上司?先輩?…のようだ。
人間は歳を取れば取るほど老けるものだが、彼らは違うのか。

「マサル」
「あ?」
「あと一分、何か話せ」
「な、何かって言われても…」
「何だ、何の話題もないのか。つまらないやつだな」
「だったら、コウノスケが話せよ」
「……」
「ないのかよ!おまえもつまらねぇやつじゃないか!」
「ないわけではない。あるにはあるが、一分では収まらない」
「どんな話だよ」
「天界の歴史、天使の階級、天使とはどうあるべきか…色々ある」
「確かにどれも話が長そう、かつ、つまらなさそうだな」
「つまらなさそうとは何だ。自分がいる世界にもっと興味を持て」
「歴史とか階級なんて、興味ねぇなぁ。それにコウノスケを見てたら、天使とはどうあるべきか分からなくなるのは俺だけか?」
「……」
「石にして粉々に砕いて海に撒くとか、それ天使の言うことじゃ…んぐっ」
突然、ヒゲ男が口を閉じた…いや、閉じたのではない。強制的に閉められたのだ。ヒゲ男を睨んだ少年に。
見ただけで人の口を閉めるとは。やはり一番有力なのは魔法使いか。
「よし、二分」
「ふがっ!!ふがふがーっ!!」
”開けろ!”と訴えるヒゲ男をよそに、少年は淡々と湯呑みにお茶を注いでいく。柔らかい湯気がふわりと立ちのぼり、お茶の香りが広がる。
もう一つ湯呑みが出てきた。どうやら二人分淹れているらしい。
「…よし」
「ふが!!ふがふがっ!!ふっ…だぁ!!」ヒゲ男の口が開いた。
「はぁ…!はぁ…!コ、コウノスケッ!く、苦しいじゃねぇか!!」
「鼻で呼吸すればいいだろ」
「突然、口を閉められてみろ!鼻で呼吸できることなんて忘れるわ!何も口を閉めるこたぁないだろ!」
「…うるさいな。鼻も一緒に塞げばよかった」
「おまえ本当に仲間か!!」涙目でヒゲ男が叫ぶ。
そう、本当に仲間なのだろうか…。俺まで心配になってきた。いつもこんな感じなのだろうか。
「…くっそぉ…」ブツブツ言うヒゲ男。けれど、諦めているようなそんな風にも見える。 やはり少年の方が先輩もしくは上司のようだ。 上司に何も言えない俺よりはマシかもしれないが、されることがひどすぎてヒゲ男が可哀想になってきた。
勇気を出して声をかけてみる。
「…あの…」
「…ん?」
「…だ、大丈夫ですか?」
「……お、おう」
心配されると思っていなかったのか、少し驚いたような顔をした。ヒゲ男の方が少年よりよっぽど”うるさい”と言いそうなのだが、普通に返してくれた。少しホッとする。
「俺の扱いなんて、いつもこんなもんだ。慣れてる」
「良かったら…俺のお茶…」湯呑みを差し出すと、ヒゲ男が小さく笑った。
「いいよ、それはあんたが飲みな。こいつがあんたのために入れたお茶だからな」
「でも…」
「そうです。それはあなたが飲んでください。こいつには今、淹れましたから。マサル、おまえも飲んでみろ」ヒゲ男の前で湯呑みが浮いている。
「何、これ俺の?俺みたいな凡人が飲んだって違いなんて分からないだろ」
ズズッとお茶をすする少年。ふぅ…と息を吐くと、少し表情が穏やかになった。少年らしい顔を初めて見た気がする。
「…これは飲んだ方がいいぞ。飲めば分かる」
そう言われて、ヒゲ男も目の前の湯呑みを手に取ると、同じようにすすった。
「…ん、温い……お、でも甘くて美味いな。あと、この香り。何か…すごくホッとするな」
「それがお茶の効果なんだろう」
「…香りとともに身体に染み入って気持ちも穏やかになる。こりゃ、すごいな。たかが茶って思ってたが、一口飲んだだけでこれだけのリラックス効果があるとは…」
「やはり人間が作る物は侮れない」
「ああ」

二人が感心したようにお茶をすするので、人間であることがうれしくなった。
この人間の世界に嫌気がさしたはずだったのに、まさかお茶を褒められたぐらいでうれしくなるなんて。
残ったお茶をすする。お茶の香りに包まれ、そんなに熱くもないのに身体の中からポカポカしてくる。
お茶の温かさ、甘み、香りに”生きている”という実感が湧いた。情けない話だが、生きているこの瞬間を”よかった”と思ってしまっている。
これじゃ、死ねるわけがない。

「…茶にして正解だったみたいだな」ヒゲ男がポツリと言った。
「え…?」
「あんたには心が安らぐものが必要だと思ったんだよ。この世界の生活に疲れて、無気力になっていたからな」
「……」
「そしたら、コウノスケが色々調べてきて、茶がいいんじゃないかって。な」
「冷まして淹れる玉露というお茶があると知り、これは猫舌のあなたにぴったりだなと思いまして。残りの茶葉はあなたに差し上げます。ご自宅で飲んでください」袋に入った茶葉が座布団の横にチョコンと置かれた。
「…え、でも…」
「急須も差し上げます。ゆっくりお茶を飲むというそんな時間もこれからは作ってください」
「……何で…」

何で?どうして?聞きたいことがたくさんある。
酒が飲めなくて、猫舌で。家に急須すらないことも知っている彼ら。
そして、生活に疲れて無気力になっていることも。
それだけじゃない。
おそらく…俺が何を思い、そして今日ここに来たのかも。

そんな俺の前に彼らは現れ、お茶を淹れ、心に安らぎを与えようとしてくれた。
猫舌の俺でも飲める、お茶まで調べて。

彼らと会ったのは偶然なのか?
俺のことを知っている彼らと。
それも、一昨日でも昨日でもなく、今日。

まさか…

いや、そんなことが―

「…人生ってのは、想像もしていなかったことが起きることもあるのさ」
また心を読んだかのようにヒゲ男が呟いた。
「……お、俺の心が読めるんですか…?」
俺の問いにニッとヒゲ男が笑うと、少年が口を開いた。
「人の心を読み取り、寄り添うことができる。マサルの秀でた能力です。きっとあなたの心にも寄り添うことができるでしょう」
「…寄り添う?……俺の…心に…?」
「これでも俺は天使だからな。あんたにはヤクザに見えるだろうけど」
意地悪そうな笑みを浮かべて俺を見た。その笑みは、とても天使には見えないけれど。


…でも。

”きっとあなたの心にも寄り添うことができるでしょう”

少年のその言葉に嘘はない、そんな気がする。
何者なのか分からないけれど。
天使と言いつつ、悪魔か死神かもしれないけれど。

だって、仕方がないじゃないか。
もう何者なのかなんてどうでもいいと思えるほど、彼らの存在が俺の中で大きくなっているのだから。

事ある毎に俺の心を見透かしたような言葉を返してきて、その度にドキリとさせられて。
冷たい人たちだと思いきや、俺のためにお茶まで淹れてくれて。
心が温かくなって、”生きていてよかった”と思えたのは、お茶を飲んだからだけじゃない。
彼らがいるから。
彼らが、心がボロボロになった俺を見つけてくれたからだ。

「……」
「…何だよ?」
「…何ですか?」

…見た目はやっぱり怖そうなヤクザと笑わない少年、だけれど。

「…ははっ」
「……何笑ってんだよ。こんにゃろー!」マサルの拳が俺の頬にペチッと当たった。
「いてっ」
…嘘。全然痛くない。

誰も俺のことなんて…そう思っていた。
もうこんな人生、どうでもいいと思っていたはずだった。
でも、俺は気づいてしまった。
彼らに会って、気づいてしまったんだ。
どうでもいいなんて、思っていなかったことを。
「……」
「……ど、どうした…?」

本当は欲しかった。
ずっとずっと求めていた。
本当の俺を見てくれる人を。
彼らのような存在を。

俺は…何よりも欲しかったんだ。

「…な、何で涙ぐんでるんだよ!」
「マサルが殴ったせいだ」
「お、俺かよ!?そ、そんな泣くほどの強い力で当ててないぞ!」
「……っ」
「…な、泣くなよぉ!おい、コウノスケ!ティ―」
「もう出している」
「ほら!これで拭け!」
マサルがティッシュの山を俺の顔に押し付けてきた。ちょっと目を潤ませただけなのに大袈裟な。
顔中がティッシュに埋もれて息苦しいが、マサルの優しさはうれしかった。
大量のティッシュで目に溜まった涙を拭く。

ほんわか温かくなった心。
こんなに心地いいものを失いたくはない。


…たくない。

…死にたくない。
本当は死にたくなんてないんだ。

もっと生きたい。
生きたいんだ。

「お、俺……」
「ん?」
「本当は…死にたくなんてないんだ……こんな…どうしようもない人間だけど…生きていたいんだよ…」
「…死ぬ必要なんてないさ。生きたいなら、生きればいい。あんたの人生なんだからな」
「………」
「…それに、あんたはどうしようもない人間なんかじゃない。そんな風に思わなくていいんだ」
「え…?」
マサルの言葉にコウノスケが頷いた。
「そうです。あなたはどうしようもない人間などではありません。もし、あなたがどうしようもない人間であるのならば、ぼくたちはあなたを選ばない。手助けなんてしません」
「…こんな……情けないやつだよ…?自分の命を捨てようとする、どうしようもない人間だ…」
「いいえ。あなたはここが人一倍優しいのです、きっと」
コウノスケがそっと自分の胸に手を当てた。
「……」
「優しくて…純粋で…臆病で……。ぼくはそういう人間、嫌いじゃありませんよ」
「え…」
「俺も嫌いじゃないぜ。どす黒い心の持ち主よりもずっといい」
「……」
「俺たちはあんたの人一倍優しい心に引き寄せられたんだ」
「俺の…心に…」
「そうです。だから、ここに来ました。まだ人生を終わらせるべきではないと伝えに。…これからも生きてほしいと伝えに」
「…っ!」

”生きてほしい”

…ああ、何てことだろう。
何よりも欲しかった言葉が聞けるなんて。
たった一言で、ボロボロだった心がこんなにも温かくなるなんて。

俺の肩にマサルが手を置いた。見上げた先の彼の顔。サングラスの向こうに優しそうな目が見えた。彼の本心が伝わってくる。口は悪いけれど、心優しい男。

「家族や友達にも遠慮して一人で悩んでここまで来たんだろ?そろそろ一人で悩むのはやめようぜ」
「……っ」
「ほら、ここに二人、いるぜ?話を聞きたがってるやつが。…あ、違う、三人だ。空にもう一人いた!」

空を指差してマサルが笑った。
まるで、昔からの友達のような笑顔で。

ぶわっと、涙が溢れてきた。
そんな笑顔でそんなことを言われたら、泣けと言っているようなものじゃないか。
ティッシュの山で何度も拭うが、今度はもう止まらない。
恥ずかしい…そう思っていると、コウノスケがこちらに近づいてくるのが見えた。目の前まで来ると、スッと俺に手を伸ばしてくる。
ああ、泣くなと叩くか殴るつもりなんだなと思ったが、そうではなかった。
(…え?)
彼の小さな手が俺の頭を撫でたのだ。小さな子供をあやすように、ゆっくりと、そして優しく。
「…その涙はあなたがこれまで押し込めてきた想いです。止める必要はありません。泣きたいだけ泣いてください」
彼の声はとても優しくて、温かかった。

「…あ…」
これは幻だろうか。
二人の背中に翼のようなものが見えた。
キラキラと輝く、穢れのない真っ白な翼。
子供の頃、何かの絵本で見た……そう、あの翼。

ああ、天使。
天使だ。

天使が俺を見つけてくれた。
こんな俺を、天使が見つけてくれた。

「…あ……ああぁぁぁぁっ」

もう一度生きてみよう。
自分の人生を。
良いことなんて、ほんの少ししかないかもしれないけれど。
それでも、この温かな心を失いたくないから。

だから、もう一度、生きてみよう。
もう一度、自分を信じて生きてみよう。
俺は子供のように泣いた。
二人に見守られながら。

天使に見守られながら。


 -3へ