※現実世界のお三方は登場しない、ファンタジーです。しかも長いです(^^;)


「クリスマスの贈り物」


 -1-


この時期、特に今日と明日は街中が鮮やかなイルミネーションと楽しげなメロディーに包まれる。数ある色彩の中で赤と緑が一番活躍する日ではないだろうか。
ケーキ屋の『クリスマスケーキ、当日購入できます!』という少々”人気がないのか?“と思わせる看板を横目に、コンビニの袋をぶら下げて家路を急ぐ。袋にはコンビニで買ったビール二本とつまみ。絶対にクリスマスカラーが施された商品なんて買うものかという、私のささやかな抵抗が感じられる。

「ママ、サンタさんはいつくるかなぁ!?」
「さぁ…いつかしらねぇ…。ママも会ったことないから分からないなぁ」
「サンタさん、ぼくのほしいもの、ちゃんともってきてくれるかなぁ…」
「ママはお手紙ちゃんと出したわよ?」
「うん…でもさ、ちゃんとおてがみよんでくれたかなぁ?だってせかいじゅうからおてがみがとどくんだよ?ぼくのおてがみ、もしかしたらよんでないかもしれないよ?」
「…う、う~ん、ママは読んでくれてると思うけどなぁ。頑張って書いたお手紙だもん、サンタさんはちゃんと読んでくれてるよ」
「ほんとに?ぜったい?」
「うん、絶対。今頃袋にプレゼントを入れて準備してるよ」
「そっか!じゃあ、だいじょうぶだ!」
「明日の朝が楽しみだね」
「うんっ!」

私の横を通り過ぎていった親子の会話にあれこれツッコミたくなるのは、きっと私だけではない。
その手紙はママが中を見てるよ。本当はママとパパがサンタだよ。それに手紙はポストに入れてないから、きっと家のどこかにしまってあるよ。探してごらんって。

そんな言葉たちを飲み込んで、マンションのエントランスに入りエレベーターの上ボタンを押した。エレベーターはいつものように上から順に降りてきているのだが、今日に限ってやたらと遅く感じる。イラッとして上ボタンを連打してみるが、そのスピードは一向に速くならない。余計にイラッとする。

ようやく到着したエレベーターの中には、これからディナーに出掛けるのだろう、腕を組んだカップルがいた。二人はこちらのことを気にすることもなく、ベタベタしながらマンションを出ていった。アツアツなのは結構だが、それは二人きりの時だけにしてほしい。見ている方が恥ずかしくなるし、正直…腹が立つ。

乗り込んだエレベーターには、きつめの香水の残り香。それに混じってタバコの匂いもする。先ほどのカップルのものだろう。どちらも私には嫌な存在だ。
手でパタパタと仰いでみたが、その匂いはなかなか消えない。香水も嫌だがタバコの匂いも嫌だ。別にタバコが嫌いなわけじゃない。ただ、別れた彼を思い出してしまうから。

エレベーターを降り、まっすぐ自分の部屋へ向かう。真っ暗な部屋に入り明かりをつけると、いつもの自分の部屋が目の前に広がった。無造作にバッグを床に置き、部屋の中央にあるテーブルにコンビニの袋を置く。吐く息も白く、暖かさのない冷え切った部屋は、まるで今の自分のようで嫌になる。早速ヒーターのスイッチを入れて、コートを着たまま暖かい空気を待った。
数秒後、“瞬暖“が売りな私のヒーターは、私の欲求を満たすためにボッと点火し暖かな空気を部屋に流し始めた。さすが”瞬暖”だ、ヒーターさまさまである。

私の部屋は、クリスマスなんていう世間のイベントから隔離されている。生活感あふれる、女の一人暮らしを物語る部屋だ。先月別れた彼が残していった物がありそうなものなのだが、何一つ残っていない。彼はここに自分の物が残っていることすら嫌だったらしく、すべてキレイに片付けていったのだ。髪の毛一本すらないのではないか、というぐらい徹底的に片付けていた。まるで警察の鑑識だ。

部屋が暖まったところでコートを脱ぎ、キッチンへ向かった。夕飯の準備だ。準備といっても、昨日の残り物を温めるだけ。十分もあれば準備は完了だ。
昨日の残り物の煮物と冷凍ご飯を温める。その間に部屋着に着替えてお湯を沸かしておく。最近はすぐに沸くポットがあるから便利だ。

レンジが“チン”と…いや、正しくは“チン”ではなく“ピー”と鳴り、次々と昨日のおかずがホカホカになっていく。早速テーブルに運び、あっという間に夕飯が整った。
“いただきます”の言葉もなく早速いただく。煮物は作った翌日に味がしみて美味しくなる。やっぱり日本人は和食だ。ターキーなんて食べる必要なんてないのだ。
テレビもつけずに食べるたった一人の夕食は、五分、十分で終わってしまう。誰かと食事をする時のように楽しい時間とはならない。決して美味しくないわけではないのだが、会話もないのだから仕方がない。

後片付けは後回し、食後のビールが先だ。ためらいもなく一緒に買ったつまみの袋も開ける。悲しいことに食欲だけはある。彼と別れようが会社で何か失敗をしようが、はたまた新しい恋をしようが私の食欲は落ちることはない。

彼と過ごすはずだったクリスマスイヴ。まさか一人になるとは思っていなかった。些細なケンカだったはずなのにそれがいつしか大きな亀裂となり、気がつけば修復不可能な状態になっていた。元々可愛くない性格も手伝って、愛想をつかせた彼はあっけなく去っていき、ケンカから三日後にはすべて終わっていた。最後に会った日、私は縋りもしなかったし泣きもしなかった。彼はそんな私に冷めた目で言った。
“可愛くない女”と。彼のその時の顔を思い出すだけで腹が立つ。

「どうせ私は可愛くないわよ」家に帰って最初に口にした言葉がこれだなんて悲しいものだ。
もともと女らしい女じゃない。“好き”なんて口にすることも滅多にない。そんな女と承知の上で一年も付き合ってきたんじゃないかと言いたくなる。私のそんなところが嫌なら、最初からもっと女らしい可愛い人と付き合えばよかったんだ。
「だいたい、人のことばっかり言うけど、自分は何なのよ。一人じゃ何にも出来ないくせに!」缶ビールをグイッと飲み干した。別れてから一ヶ月は経つというのに、思い出せばまるで昨日のことのように怒りが蘇ってくる。目の前にあるもう一本の缶ビールを手に取った。こんなに飲みたくなるのはあいつのせいだ。

別に一人でクリスマスだって悲しくはない。これまでもそんなクリスマスは何度もあったし、クリスマスだから恋人と一緒に過ごさなきゃいけないなんて思っているわけでもない。バレンタインデーやホワイトデーと一緒で、興味がなければやらなきゃいい。クリスマスに一緒にいたいと思う人がいれば、一緒に過ごせばいいのだ。

独り身だと、そんな言葉たちがすべてひがみに聞こえてしまうんだろう。本当は寂しいくせに。誰かがきっとそう呟いている。でも私は気にしない。だって本当に寂しくないのだから。
「寂しい?とんでもない、別れてせいせいしたわ」

ビールを飲むスピードはますます加速していく。もっと買ってくればよかった。

そう、寂しくなんてない。ただ、悲しいだけ。
一年も付き合った彼が、今更私の可愛くないところに愛想をつかせて去っていったことに、悲しくて仕方がないだけ。
彼は私のことを何も分かっていなかった。そういう私も彼のことを何も分かっていなかった。

それがただ、悲しいだけ。


結局、二本ではまったく足りず、コンビニへ買いにいくことにした。部屋着の上にコートを羽織る。部屋のドアを開けると、クリスマスパーティーでもしているのか、賑やかな笑い声が聞こえてきた。きっと美味しいケーキを食べているんだろう。
「別にケーキなんてそんなに好きじゃないし、うらやましくもないけど」
…誰に言っているんだか。もう強がりにしか聞こえない。

先ほどとは違い、エレベーターはすんなりやってきてあっという間に一階に着いた。コートをしっかりしめてポケットに手を突っ込んでマンションを出ると、一本向こうの大通り沿いのコンビニに向かった。
大通りは先ほどと変わらない様子で、イルミネーションがきらめき賑やかだった。自分の周りだけが異様に静かに感じる。街の雰囲気と自分のテンションとは天と地ほどの差があるのだろう。

コンビニの前には若者たちがわいわい集まっている。これから恋人のいないもの同士、慰めあって宴会でもやるのか。可哀想に。
…なんて、恋人のいない私に言われたくないか。それに、彼らのように一緒に騒げるような仲間がいないのだから、私の方が世間から見れば可哀想だろう。私の友人たちはみな、恋人とディナーやら旅行に出掛けるんだそうだ。独り者の私のことなんて、気にかけている暇はないということだ。

楽しげな若者たちの前を通り過ぎ、コンビニの駐車場に足を踏み入れた。
と、その時だった。
ふわりと何かが視界に入ってきた。上から落ちてきたのか、はたまた下から舞い上がったのか、目の前に白いものが落ちてきた。
(…ん?)
よく見るとそれは白い羽根だった。ゆっくりと右に左に揺れながら落ちてくる。白い鳩のものかそれとも服に付いていた飾りか。何だか妙に気になって私は両手を伸ばし、羽根を待ち受けた。
そっと手のひらの上に乗る。何もないかと思うぐらい、とても軽い。
つまんで掲げてみる。キラキラしていてとてもきれいだ。作り物にしてはリアルで、鳥のものにしてはきれいすぎる。見れば見るほど、真っ白な羽根。こんなに真っ白な羽根を持つ鳥など、この国にいただろうか。
(一体、何の羽根なのかしら…)
あまりに真っ白だからか、さすがの私もコンビニのゴミ箱に捨てる気にはなれなかった。それに、見ていると気持ちが穏やかになる気がする。まるで、この羽根に何か特別な力があるかのように。
先ほどまでのイライラを忘れて、しばし羽根を見つめていた。

…のだが。

突然、足元にドンという衝撃を受けた。
と、同時に「わぁっ!」という子供の声。
「わっ!えっ!?」驚いて何事かと足元を見ると、子供が私にぶつかったようで、衝撃で後ろへゴロンとひっくり返っているところだった。
ゴチッという鈍い音とともに、子供が、
「いたっ」と声を上げる。どうやら地面で頭を打ったようだ。あれは痛い。
「ちょ、ちょっと!大丈夫!?」慌てて転がっている子供を起こすと、後頭部を押さえたまま涙目になっていた。掛けていた小さなメガネが片耳だけに引っかかっていて、今にも落ちそうだが、レンズは割れていない。よかった、瞬間的にそう思った。
「頭打ったよね?痛い?大丈夫?」あまりのことに驚いたのか、子供はきょとんとして私を見上げている。どうやら男の子のようだ。緑色のダッフルコートにジーンズ、星柄の黄色のマフラーを巻いている。これで赤色があればクリスマスカラー…って、そんなことはどうでもいいけど。
「ほら、見せてみて。血は…出てないけど、腫れてるような…タンコブ?念のため親に病院連れてってもらった方がいいんじゃないかしら」
「……」返事がない。
「ちょっと、大丈夫?聞こえてる?」
「…あ、は、はい」
「ダメでしょ、ちゃんと前を見てないと」と言っておいて、私も前をちゃんと見ていなかったが。でも、私は立ち止まっていたから、きっと悪くない。
落ちそうになっているメガネを取って、子供の耳に掛け直した。
「ご、ごめんなさい」
「頭、痛くない?」
「あ~大丈夫です。ぼく、石頭なので」明らかに単なる強がりだ。こんなに小さくても一丁前に男だというプライドがあるのか。

子供は苦手だ。無邪気に笑い掛けられると、何故だか分からないがイライラする。泣かれたりしたらもっとイライラする。子供への接し方が冷たいと言われたことがある。そんな大人と話すような口調で言わなくてもと。でも私には優しく接するなんて絶対に無理だ。そもそも苦手なのだから、優しくしようとしてもできない。
「だめよ。あとから何かあったら大変でしょ?それに君の親にあとから治療費を請求されるのも面倒だし。君の親は?コンビニの中?」彼は私を見上げると、首を横に振った。親と来ているんじゃないのか。
「じゃあ、兄弟?君は誰と一緒なの?」
「一人です」
「え?一人?」
「ちょっと人を探してて。見つけたので追いかけてたんですけど、前を見てなくてぶつかってしまいました。すみませんでした」そう言って彼はペコリと頭を下げた。
何だろう。この子は妙に大人びている。小さく見えるが、実はそうでもないのか。見た目はどう見ても一、二年生ぐらいなのだが。
でも接しやすくて私には都合がいい。
「あっ」彼が突然声を上げ、上を見上げた。
「え?」つられて上を見たが、すでに日没もずいぶん前に過ぎたため、晴れているのか曇っているのか分からない何にもない真っ暗な空があるだけだった。星が一つもないから、どうやら曇っているのだと思われる。
「ああ~また見失っちゃった」ガッカリしたように彼は下を向いた。何だ、人探しの話か。じゃあ、何のために空を見上げたんだよと言いたい。
というか、見失ったのは私のせいだとでも言いたいのか。

しかし、こんな小さな子供が一人で人を探しているというのは、どういうことなのか。
親がクリスマスに子供を置いて出て行ったとか?はたまた生き別れた親をずっと探しているとか。いやいや、そんなドラマみたいな話、現実にそうそうあるわけがない。
…いや、待て?
もしかして探している理由はもっと単純なのでは…

「君、人を探してるって言ったわよね?」
「はい。え、もしかして見たんですか?」
「は?何を?」
「何をってぼくが探してる…あ~そんなわけないですよね。そもそもどんな人相かも分からないですもんね」
「当たり前でしょ。君の探してる人の顔なんか私が分かるわけないじゃない」
「ですよね」と言ってニコリと笑う。なかなか可愛い顔をしている。
「そうじゃなくてさ。君、人を探してるって言ったけど、本当は単なる迷子じゃないの?」そう問いかけると、心外だと言わんばかりにムッとした。
「違います」
「でも人を…親かなんかを探してるんでしょ?それってはぐれた…」
「はぐれたのは向こうです。目を離すとすぐどこかに行っちゃうんですよ。この前も待ち合わせ場所にいなくて、見つけるのに苦労したんです!何回怒っても、ちっとも直らない!そんなことだからいつまでたっても中身が成長しないんだ、あの二人は!」と、子供のわりに冷ややかな目をして彼は言った。ひょっとして自分よりも小さな…弟か妹を探しているのか。それにしても、小さいくせに言うことは手厳しい。どんな親から生まれたのか。

でも、この子が何を言おうと私には関係のないことだ。誰を探していようと知ったことではない。私はコンビニにビールを買いに来たのであって、子供のよく分からない話に付き合うためじゃない。
「まぁ、事情はよく分からないけど、早く見つかるといいわね。頭も大丈夫そうだし、もう平気よね?」
「……」彼は無言で私を見上げ、ジッと私を見つめている。何かを訴えるような目だ。ものすごく嫌な予感がして慌てて目をそらした。
「頑張って。じゃ」彼に軽く手を振ってコンビニへと歩き出した…ところで後ろからコートを引っ張られた。嫌な予感が的中する。
「あの…」と背中から彼の声。ため息が出る。
「…何?」振り向かずに聞き返す。
「お姉さん、今時間あり-」
「ない」
「…そ、即答ですね…」ガッカリしたような声にイラッとして振り返った。
「私は用事があってコンビニに来たの。君の人探しに付き合えるほど暇じゃないのよ」そうよ、暇だからコンビニにビールを買いに来たわけじゃないわ。
「…でも、コンビニで買い物をしたら、家に帰るんですよね?」
何で分かるんだ。
「だってコートの下は、部屋着ですよね?出かける予定がないから、そのまま出て来たってことでしょう?」
憎たらしい子供だ。当たっているだけに余計憎たらしい。結構可愛い顔だなんて思ったことが悔しくなる。
「…私、何で?って聞いてもいないわよ」
「”何で?”って顔をしてたので」
「あっそ。だったら何だって言うのよ。暇でも手伝わないわよ」
「そこをなんとか…。それに、ぼくが探してる二人、美人さんには目がないんです。お姉さんが呼んだらきっと…」
「お世辞は結構よ。あのね、私は餌じゃないんだから。自力で探すか、交番に行きなさい」
「…警察はおそらく役に立たないです。きっとぼくのことを相手にしてくれません。相手にしてくれたとしても、ただの迷子で片付けられちゃうでしょうし」
ただの迷子だろうに、と心の中で思う。
「交番に行くにしても、そうでなくても、悪いけど他の人に協力してもらって。手伝ってくれる人は他にもいるでしょ」周りを見渡すと、こちらを見ていた人たちがギョッとして、慌ててそっぽを向いた。コンビニに入る人、急いで車に乗り込む人、こちらをチラチラ見ながら通り過ぎる人…。結局、私と子供だけになった。
「…いないみたいですね」
「…何よ、どいつもこいつも!ろくなのがいないわね!」
「まぁ…そんなもんですよ」
「一人ぐらいいたっていいじゃない!」
「いるじゃないですか、一人は」彼はそう言って私を指さした。
「だから私は嫌だって言ってるでしょ」
「ん~でも今のところ協力していただけるのは、お姉さんしかいないようですし。それにぼくは…」
「あれ!こんなとこで何やってんだい?」聞き覚えのある女性の声がした。振り返ると、マンションの管理人が買い物袋をぶらさげて立っていた。
「あ、管理人さん!」いいタイミングで会った!と心からそう思った。普段はああだこうだと口うるさくてうんざりしているが、今日ばかりは天使に見える。見た目の問題はこの際置いておこう。
この管理人はとにかく世話好きで、特に困っている人を見ると放っておけないのだ。事情を話せば、きっと“私が手伝ってあげる”と言い出すだろう。
「大きな声が聞こえたけど、何かあったのかい?」
「そうなんですよ!子供に人探しを手伝ってほしいって言われて困ってて…」管理人が顔をしかめる。
「子供が?」
「ええ。一人で人を探してるらしいんですよ」
「何だ、迷子かい」
「迷子じゃないって本人は言ってますけどね」
「ふーん?で、その子供は?交番に連れてったの?」
「え?ここに…」私の横に立っている子供を指さした。彼はニコニコしながら管理人に手を振る。
ところが、管理人は私の指の先をチラリと見たあと、
「どこだい」と不思議そうな顔をして言った。
「は?やだ、何言ってるんですか。目の前にいるじゃないですか。管理人さん、そんなに目が悪かったでしたっけ?」
「バカ言うんじゃないよ。あたしは視力が一.五なのが自慢なんだよ」
「じゃあ見えないわけないですよね。ほら、この子です」子供を自分の前に押し出した。
「……」管理人は無言のまま険しい顔になる。
「…?」
「…無理ですよ」子供が呟いた。
「は?」
「…ぼくのこと、見えてないんですよ」
…何を言ってるんだろうか。“見えてない”とはどういう意味なのか。
「ちょっと、それどういう意味―」
「あんた!」管理人の大声にビクリとした。
「はっはい!?」管理人は、悲しそうな顔で私を見つめている。いったい何だと言うのだ。
「…あ、あの…」
「…あんた、よっぽど疲れてるんだね」管理人がため息混じりに私の肩をさすった。
「は?」
「今日はしっかり休みな。明日も仕事があるんだろうし、早く寝た方がいいよ。で、仕事の後に医者んとこ行ってきな」何を言っているんだか、さっぱり分からない。
「あの…何の話-」
「もし今夜、しんどくなったらあたしんとこ電話しな。部屋まで看に行ってやるからさ、な?」
「はぁ?」
「じゃあね、用事が済んだら早く帰るんだよ?」そう言うと、管理人は足元に置いた買い物袋を手に取った。帰ろうというのか。彼女が興味を示しそうな話題だというのに、これはいったいどういうことなのか。しかもさっきから意味不明なことばかり言っている。おかしすぎる。
「ちょ、ちょっと管理人さん!」引き留める私を振り返り、
「はいはい。早く帰ってしっかり休みなさい」と言いながらヒラヒラと手を振って歩き出した。
「な、何なのよぉ…」そう呟く私に、管理人の大きな独り言が聞こえてくる。
「あんなに若いのにねぇ…。可哀想に。幻覚が見えるなんて…」

……
今…何て言った?
「”幻覚が見えるなんて”って言いました」私の心を見透かしたように彼が言う。
「何よ、幻覚って。…この子が幻覚だって言いたいの?な、何言ってるのよ、あの人!」
「ですね。ぼくは幻覚じゃなくて、あの人には”見えない”だけなんですけどね」
「そうよ、見えないだけ……え?」見下ろした彼は、ニコッと笑った。
「…見えないってどういうことよ?管理人には君が見えないってこと?」
「はい。ぼくの声も聞こえてないでしょうね」
「バ、バカ言わないでよ!私が見えるのにそんなことあるわけが-」
「たぶんさっきまでここにいた人たちも、ぼくのことは見えてなかったと思いますよ」
彼は日本語を話しているのに、私には異国の言葉に聞こえる。どういう意味なのか、全然分からない。
「…な、なに?どういうことなの?何を言ってるの?…君、一体何なの?」混乱したまま問いかけた私に、彼はまたニコリと笑った。
「そのままお返ししますよ。お姉さんはどうしてぼくが見えるんでしょう?」


寒空の下、電灯だけが頼りの真っ暗な公園のベンチで、私はめまいに襲われていた。
子供の話を聞き、それがあまりにも現実からかけ離れた話だったからだ。
こんなことがあるのだろうか。ドラマや映画じゃなく、この現実世界でそんなことがあるなんて。これは夢じゃないのか。
「…はぁ…頭痛い…」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ。君のせいよ」
「ぼくですか?」
「そうよ。そんなこと言われて、簡単に“はい、そうですか”って言えるわけないじゃない」
「…まぁ、そうですよね」
「君の言うことが嘘であればいいんだけど」
「残念ながら、本当のことなんですよねぇ…」
「だって信じられないわよ。君が……天使だなんて」

そう。
彼は天使…らしい。
もちろんそれは彼が言っているだけで、本当かどうかは分からない。単に名前が“天使”なのかもしれない。彼が言う“テンシ”という言葉は“天使”という漢字ではなく、違う言葉のことなのかもしれない。
でも彼は“人間が言う、いわゆる天使です”とさらりと言ってのけたのだ。
確かに管理人には彼が見えなかった。コンビニの前にいた人たちが、私と目が合った時に逃げるように去っていったのは、私が一人で騒いでいたから、なのかもしれない。
でもだからと言って、“天使”なんていう存在が実際にいるなんて、非現実的なことをすぐに受け入れられるような性格ではない。幽霊すら信じてもいないこの私に、“天使”を信じろなんて言われても困る。

「ん~…でも本当のことなので、ほかに何も言いようがないんですよねぇ…あとは信じてもらうしか」
「そんな簡単に言われてもね。証拠は?天使だっていう明らかな証拠。何かないの?」
「証拠…う~ん…」
「あ、あれは?」
「あれ?」
「ほら、頭の上の輪とかさ」そう言って彼の頭の上を見たが、輪のようなものは見えない。
「残念ながら、それは“輪”に見えるだけで、実際は“輪“はないんですよ」
「そうなの?」
「ええ。どうやら、ぼくたちのまわりにある光が、人間には“輪”に見えるようですね」
「ふ~ん…で?光は?どこにそんな光があるのよ?君、全然光ってないじゃない」
「ああ、今は消してますから」
「じゃあ光らせてみてよ」
「ここではちょっと…」
「何それ、怪しいわね。…あ!そうよ!天使といえば羽じゃない!羽は?何でないのよ?」
「ああ、それも今は見えないようにしていて-」
「……」
ますます怪しい。

「ねぇ、今だったら許してあげるわ。だから、本当のことを話して」
「本当のこと?」
「管理人もコンビニの前にいた人たちも、本当は全員知り合いで、見えないふりをしてたんでしょ?」
「ええっ!そ、そんなわけないじゃないですか!」
「だって、どう考えても、君が天使だなんてやっぱり信じられないもの。羽もないし輪も見えないし。どこにも天使らしいところなんてないじゃない」
「い、いやぁ、でもですねぇ…」
「でもじゃない!ほら!交番に行きましょ。警察に本当のことを説明して、親だか何だか、ちゃんと探してもらいなさい」
そう言って、彼の手を取ってベンチから立たせようとしたが、意外にも、力強く引っ張り返された。
「いや、警察に行ったところでぼくが見えませんし、行くだけ無駄ですよ」
「また、嘘ばっかり!どこからどう見たって君は普通の人間じゃない。私はこの目で見たものしか信じないんだからね!天使だっていう証拠がなければ、信じないわよ!」
すると、彼ははぁ…とため息をついた。
「そうですか…仕方がないですね。では、信じてもらうために、少しだけ力を使いましょう。本当は任務以外での使用は規則違反なのですが…」
「任務?何そ……わっ!!」
彼に腕を引っ張られた途端、どこからともなくやってきた突風が私を取り巻いた。
「うわっ!何!?」と驚いたのもつかの間、まるで、高速で真上に上昇する絶叫マシーンに乗ったかのように、身体を引っ張られる感覚に襲われた。
「ひ…っ!」たまらず声をあげた。
引き裂くような甲高い風の音、そして、息ができなくなるほどの風圧。絶叫系が嫌いな私には、もっとも恐怖を感じる感覚だ。怖くて声も出ないし、目も開けられない。

な、何よ、何なのよ!?いったいどうなってるの!?

「あれ、もしかして絶叫マシーンは苦手でしたか?信じてもらおうと手っ取り早い方法を選んだのですが、この方法はダメだったようですね。すみません」風の音に混ざって彼のひょうひょうとした声が聞こえたけど、答える余裕なんてなかった。
「でも、もうすぐですから」
そもそも、何を言っているか、ちっとも頭に入ってこないし!
何でこんなことになってるわけ?私はコンビニにビールを買いに来ただけだったのに!!
彼氏に振られて、一応傷心なのよ?本来は誰かに慰めてもらうべき状態なのよ?
なのに、友達も相手にしてくれないし、いつもはうっとうしいマンションの管理人すら私を病気だって言って相手にしてくれないし!
この子のせいだわ、この子と会わなければ、こんなことになっていなかった!!
いつもの私なら、子供の相手なんかしないじゃない、何でこんな子の相手しちゃったのかしら!!
あの時、この子に構わず、コンビニに入っておけばよかったーっ!!

頭の中で、できる限りの文句と後悔の言葉を叫んだところで、ふと嫌な感覚はなくなった。
「着きましたよ」と彼の声。
…は?着いた?着いたって、どういうこと?
嫌な感覚はなくなったものの、ヒューッという風の音とその冷たい風は身体に感じる。
外であることは間違いない。

恐る恐る目を開けると、向かい合うように彼が立っていた。柔らかそうな髪とマフラーが風に揺れている。
辺りは暗く、どこなのかまったく分からない。見上げると、相変わらずのどんよりした空があるのは分かったが、それ以外は何もない。ここはどこなのか。
「つ、着いたって…どこ……に………へっ?」辺りを見渡し、最後に足元を見て、固まった。
「これで雪が降っていったら、ロマンティックなんですけ」
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!!!」
慌てて彼の腕をガシッと掴んだ。脚がガクガク震えてきた。この状況から何とか逃げ出したいが、今の私にはどこにも逃げ場がない。
「ロ、ロマンティックとか!そんな流暢なことを言ってる場合じゃない!!」
「え、でも、街のイルミネーションもキレイじゃないですか」そう言って、呑気に下を指差す。
「ひっ…そ、そんなのどうでもいいわよ!!」
「え~」
「だって…だって……!!」
「だって?」
「こ、ここ!そ、空の上じゃないのよーーーーっ!!」

そう、今、私は空の上にいるのだ。上から何かで吊り上げられているわけでもないし、地面から何かに乗って上がってきているわけでもない。何故か空の上に浮いている状態なのだ。周囲の高いビルも眼下に見える。ということは…どういうことだ。頭が混乱する。
「い、いつから私は空を飛べるようになったのよっ?そんな力、私にあったの!?」
「お姉さんお姉さん、これ、ぼくの力ですからね?」
「へっ!?そうなの!?」
「だから、先ほど言ったじゃないですか。お姉さんが見たものしか信じないって言うから、ぼくは」
「そ、そうだっけ!?」
「ひどいなぁ…本当はこんな風に力を使ったら、怒られちゃうんですからね。成績に響くようなことはできればやりたくは」
「そ、そんなことより!!ちょ、早く!早く下ろしてよ!」
「え、せっかく来たのにですか?もう少しこの景色を楽しんだらいいのに」
「いらないわよ!誰もこんなことしてくれなんて頼んでないし!」
「え~」
「いいから早く!」
「も~わがままですねぇ…」
何と言われようと、こんな状況、私には無理だ。これ以上は耐えられない。
「じゃあ、戻りますよ?」そう言われて、ハッとした。戻る…それってつまり…
「ちょ、ちょっと待って!戻るってそれって……ひっ、い゛、い゛い゛やあぁぁぁぁーーっっ!!」


「………」ベンチに座り込み、頭を抱え込む。
頭痛と吐き気で最悪の気分だ。私が何をしたというのか。ただ、ビールが飲みたかっただけなのに。もう、こんな気分じゃ、ビールもいらない。このまま帰って、ベッドにもぐり込みたい。
「大丈夫ですか?そんなに苦手なんですか?絶叫マシーン」と、彼…いや、天使が私の前で両足を抱えて座り込み、私の顔を覗き込んできた。無言のまま、少しだけ頭を上げてジロリと睨んでやると、
「…苦手なんですね…すみません…」と、一応悪いなとは思っているようで、小さな身体をさらに小さくして謝ってきた。
まぁ、私が天使だと信じなかったからこうなったのだが、でも、何もあんな方法じゃなくてもよかったのだ。
「…ほ、他にも方法があったんじゃないの?あんな方法じゃなくてさ。それか、せめて聞いてからにしてよね…う…気持ち悪……」
「いやぁ…あれが一番手っ取り早いもので。それに、お姉さんのことだから、“空に行ってみたくありませんか?”と聞いても“そんなことできるわけないじゃない!”って怒るだけだと思いますし…」
…確かに。

「それで…信じてもらえましたか?」
「……手品だったとしても、あんな空高く移動するのは、とてもじゃないけど無理でしょうし、君が普通の人間とは違うってことは認めるわよ。でも、天使なのかどうかは何とも言えないけど。だって羽もないし」
「…ああ、まぁ…そうですね。でもまぁ、いいか。ちょっとはぼくの力のことを信じてもらえたので、よしとしましょう」
「だからって、人探しは手伝わないわよ。気持ち悪くて、それどころじゃないし」
「ああ、探しているやつらは先ほど見つけましたから、もう大丈夫です」
「え?どこで?いつ?」
「空の上からです。見渡していたら、ここから少し離れたビルの屋上にいるのを見つけました。あとで行って、説教しなければ」
「探してるのは誰なのよ?」
「え?仲間ですよ。仲間の天使です」
「は?…な、仲間?他にも天使がいるの?」
「そりゃあ、天使は一人じゃないですよ。天界にはたくさんの天使がいますから」
そ、そうなのか。天界がどうとかというより、天界というものがあることすら、信じがたいけど。

「じゃあ人探しも解決したし、私はもう帰っていいでしょ?…あ~気持ち悪い…」
「ダメですよ!お姉さんと出会った以上、ぼくは任務を遂行しないと」
「任務?何それ?そういえば、さっきもそんなこと言ってたわよね」
「ぼくたちの仕事は、ぼくたちが見える人を助けることなんです」
「……助ける?」
「はい。天使が見える人は、天使を必要としているんです。なので、その人の願い事や話を聞くことが、ぼくの仕事なんです」
「え、天使ってそんなことするの?何か想像と違う」
「人間と一緒で、天使にも色んな役職、仕事があるんですよ。ぼくたちは安月給な下っ端です。位の高い方々の足元にも及びません」
「安月給……」
天使の存在を信じていなかった私でも、天使とはどんなものかは想像したことは一度や二度はある。まさか、給料をもらっているとは。衝撃の事実だ。
給料はどうやって受け取っているんだろう。銀行振り込み…銀行がないだろうから、現金払い?それとも、天界にも銀行があるのか?もしあるとしたら、天使にも身分証明書があったり、印鑑があったりするのだろうか…

「あの、どうかしました?」
「…え?あ、ああ、ううん、何でもない」
「?」
「…ええと、話を戻すと!つまり、見えた私には天使に用事があって、助けなきゃいけないってこと?」
「そういうことです」
「用事なんてないけど」
「そりゃそうですよ。どんな人間だって、天使に用事があるなんて、思わないですよ。見える人には、それなりに何か理由があるってことです」
「理由?例えば?」
「例えば…そうですねぇ…。心から願っていることがあって、その想いが強い人とか。想いが強いと、誰かが呼んでる…と、導かれるようにその人のところに辿り着くんです」
「ふ~ん…私はそんな強く心から願ってることなんてないわよ」
「そのようですね」ハハッと彼は笑った。
「あとは?」
「あとは……理由は色々ありますが、何かに悩んでいる人に見えるようですね」
「……」悩んでいるつもりはないが、何となく”悩んでいない”とも断言出来なかった。
恋人との別れ。自分にだけ非があるとは思っていないが、自分の性格が招いたというのもあるにはある。何故こんな性格なんだろうと、嘆く気持ちがないわけでもない。

「お姉さん、何かに悩んでいるんですか?」
「天使に相談するようなすごい悩みじゃないわよ。人間、誰もが人生の中で必ず一度は悩むことよ。そんな悩みごときで天使が導かれてしまうなら、君たち天使は超多忙になって休む暇もなくなるわよ」
「ははは、休暇がないなんて、それは困っちゃうなぁ…」
「だから、何かの間違いなんじゃない?たまたま君が見えただけでさ」
「う~ん…」
「とにかく!私は君に用事なんてないから、帰らせてもらうわよ」
そう言ってベンチから立ち上がると、彼も慌てて立ち上がる。
「えっ、いやっ、でも-」
「だって、本当に何も用事がないんだもの。稀に天使に用事のない人間にも見えることがあるってことでいいじゃない。仲間にはそう報告すればいいだけのことでしょ」
「いや、そういう問題では…」
「安心して、自分にしか見えない天使の話なんて、誰にもしないわよ。頭がおかしいって思われるだけだし」
「いえ、そういうことでもなくて…」
何てしつこい天使だ。ため息をつき、コートの両方のポケットに手を突っ込んだ。もう、指先が寒くて仕方がない。こんなことなら、ちゃんと手袋をしてくるんだった。
「あのねぇ……ん?」右手を突っ込んだポケットに何かを感じた。指に当たるその物を取り出してみた。
「…あ、ああ、これか」それは、先ほどコンビニの前で拾った白い羽根だった。手に取った後にこの子とぶつかり、どうやらその時に無意識にポケットへ入れたらしい。羽根は、ポケットの中で折れ曲がってるかと思いきや、どこも折れずにキレイなままだった。
「あーーーーーーーーっっ!!」突然、天使が叫んだ。
「なっ何よ!どうしたのよっ!?」
「それ!!」と、私が持っている羽根を指差す。
「これが何よ?」
「ど、どこでそれを!?」
「は?これ?…コンビニの前よ。ふわふわ落ちてきたから、何となく取っただけよ」
「だからだったんですね!」妙に納得した顔で、天使は何度も頷いた。
「…何がよ」
「やっと分かりましたよ、お姉さんにぼくが見える理由」
「え?」
「その羽根です」
「こ、これ?」
「ええ。それ、天使の羽根です」
「えっこれが?確かに、真っ白できれいで、普通の鳥の羽根には見えなかったけど…。…え、何?天使が見えるのは、この羽根のせい?」
「そうです。抜けた羽根が地上に落ちてきて、たまたまそこにいたお姉さんが拾って触れたことで、天使が見えるようになった…というわけです」
「はぁ……あ、じゃあ、それなら、私の他にも見える人がいそうじゃない。他にも落ちた羽根があって、誰かが拾ってるかもしれないわけでしょ?」
「地上での仕事では色々規則があって、羽を出して飛んではいけないことになっているんです。なので、地上に天使の羽根があるなんて、本来はあってはならないことなんです」
「え、天使なのに羽を出しちゃダメって何それ。じゃあ、飛べない……あれ?でも、さっき空に行ったわよね?羽がなくても飛べるってこと?」
「先ほどのは、羽を使って飛んだわけではなく、ぼくが持っている力で浮いていたと言った方が正しいですね。ぼくぐらいのレベルの天使になると、羽がなくてもある程度は空を飛べるようになるんです」
「ふ、ふ~ん…。天使のレベルや規則がどうとかはよく分からないけど…じゃあ、本来あってはならない天使の羽根が、何でここにあるのよ?」
「ぼくが探していた二人のどちらかの羽根でしょう。あの二人のことだ、羽を使って空を飛んでいたんです。まったく、地上でも規則を守らないなんて、困ったやつらだ!」
相変わらず、仲間の天使には手厳しい。
「じゃあ、規則を守らない君の仲間のせいで、私は君が見えるってことね?」
「そうなります」
「じゃあ、これですべて謎は解けたじゃない。この羽根のせいで私は君が見えるようになっただけで、天使に用事はない。君の任務もなしってことで、解決ね!」
天使に羽根を渡し、
「これはそっちで処分しといて。じゃあ」と歩き出したものの、またコートを引っ張られた。
「…何よ、もう用事はないはずでしょ?」
「確かにもう用事はありません。お姉さんにぼくが見える理由が分かって、ぼくに任務がないことも分かりました」
「じゃあ、何で引き留めるのよ?」
「ぼくが見えているからです」
「…はぁ?何それ」
「お姉さんにぼくが見えている以上は、ぼくにはお姉さんを守る義務があります。なので、日付が変わるまではご一緒させていただきます」
……何だって?
勢いよく振り返る。
「はぁ!?何でよ!?」
「天使が見えるということは、人間以外のものがお姉さんには見えるんですよ。そのことで、お姉さんに危険が及ぶかもしれません。ぼくたち天使のせいで見えるようになってしまったんですから、ぼくがお姉さんをお守りしないと」
「……危険…?どういうことよ?人間以外のものって何?」
「…天使以外にも、色々いるんですよ」
「いるって何が?」
「そうですね…一番分かりやすいものですと、“悪魔”でしょうか」

…何ですと?
「…え…あ、悪魔?」
「ええ、悪魔です」
「天使と…悪魔…の悪魔?」
「他に悪魔はいませんよ。悪魔といえば、その悪魔です」
「…あ、あ、悪魔も見えるの!?」
「今のお姉さんには見えますよ。人間には見えないものが色々と。だから、きっと天国に行けずに地上を彷徨っている…」
「さ、ささ彷徨っている…っ?」
「いわゆる幽霊さんとか」
「ゆ!幽霊っ!?」
ゾクッと背筋に悪寒が走る。後ろに幽霊が立っている気がして、慌てて振り返った。
「大丈夫です、今はいませんから」

な、何てことだ。天使が見えるだけでなく、悪魔や幽霊まで見えるだなんて。
「………な、何よ、そ、そそそんなのやめてよ!!天使だけじゃなくて、悪魔とか幽霊とか、そんなのも見えるの!?じょ、冗談じゃないわよぉ!!」
「ですから、ぼくがご一緒してお守りしますから」
「き、君みたいな子供の天使がいたところで、何の役に立つのよ!?悪魔や幽霊に勝てないでしょ!」
「なかなか失礼ですねぇ。こう見えても、ぼくはこの仕事長いし、結構強いんですよ。お姉さんより遥かに年上ですし。仲間の二人よりも年上なんですから」そう言って、天使がエッヘンと胸を張る。
「は?え、君、いくつなの?」
「え?…えっと…途中で数えるのが面倒になって、しっかり数えていませんが…」そう言って両手の指を何度も折っては折り返す。
何度も往復するその数に何も言えず、ただ彼の答えを待った。
「まぁ…ざっと、二百は過ぎましたね」
「は…はぁ!?」予想もしていない答えが返ってきて、まじまじと彼を見た。
どこにも年齢を感じさせるシワもないし、肌はピチピチしている。これで、二百歳?
「何十年経っても見た目はあまり変わらないんですよ。人間の寿命とは、またちょっと違うんです」
「ふ…不死身ってこと?」
「そうでもないですよ。まぁ…あまり詳しくは言えませんけど」
「は、はぁ…」もうそれしか出てこなかった。
「とまぁ、そういうことなので、日付が変わる…つまりクリスマスになるまではご一緒させていただきます。零時を過ぎれば、羽根のパワーもなくなって触れた効力も消えますから」

はぁ…と疲れ切ったため息を落とし、崩れるようにベンチに腰を下ろした。
「あ~もぅ~。何でこんな面倒なことに巻き込まれるのよぉ…っ」
「本当にすみません。仲間には、いつも以上にきつく叱っておきますので」
「本当よ!一体どんなやつらなのよ!羽を使っちゃいけないのに使うだなんて!」
「ぼくも手を焼いているんですよ。何度言っても同じミスをするし、規則をよく破るし。なので、僕が二人の指導員としてついているんですが、それでもダメなんです」
「社会人だったら、クビね」
「ええ、何度もクビになりそうになってますよ。皮一枚で何とか繋がってるところですが、今回のことでいよいよクビかもしれませんね」
「もっと早くクビにしておいた方がよかったんじゃないの?まったく。…で、私はどうすればいいのよ?このままここにいないといけないの?」
「いえ、移動するのは構わないですよ。ご自宅に戻られますか?」
「家の中にいたら、悪魔とか幽霊に会う確率は低いの?」
「う~ん……家にいようと外にいようと、会う時は会いますね。窓から覗いてたり。……っ!」突然、天使が険しい顔になって空を見上げた。
「へっ!?な、何!?何かいたの!?何?何よっ!?」
「…ちょっと、妖しい気配が…」
「なっ何の気配よ!?近くにいるの…っ!?」
「………いえ、数キロ先ですし、そんなに強力な者でもないようです。うん、大丈夫です」

怖い…怖すぎる。零時になるまで、ずっとこんな風にビクビクしていないといけないのか。まるで街全体がお化け屋敷状態じゃないか。
「ね、ねぇ、何とか会わないようにすることはできないの?」
「え?…まぁ、会わないというか、近づけないようにすることはできなくもないですが…」
「できるの!?」
「ぼくの仲間と合流すれば、悪魔や幽霊の一人や二人、恐れて近くには来なくなります。天使が三人いれば、バカでない限りは近づいたりはしないでしょう」
それを聞いて、私は彼の腕を取った。
「行きましょ!」
「え?ど、どこへですか?」
「君の仲間がいるビルよ!」
「え、でも、完全に見えなくすることはできませんよ?」
「近づいてはこないんでしょ?それでもいいから!」
「…そんなに怖いんですか?幽霊とか」
「しょ、しょうがないでしょ!そういうの嫌いなんだから!何よ!どうせ、らしくないとか思ってるんでしょ!」
「え、そんなこと思ってませんよ。可愛いなと思って」そう言って、天使はにっこり笑う。
可愛い?何を言っているんだ、この天使は。この私が可愛いとか、目でも腐ってるんじゃないか。“可愛くない女”と男に捨てられるような女だというのに。
「ど、どこが可愛いのよ。こんな私が絶叫マシーン嫌いとか、幽霊怖いとか、見た目と違って気持ち悪いだけでしょ!」
「そんなことないですよ。可愛いじゃないですか、女性らしくて。…わっ!」
ダッフルコートのフードを持ち、天使をズルズルと引きずる。
「ちょ、ちょっとお姉さん!何するんですか!」
「ほら、仲間のところに行くわよ!」
「え~もう、お姉さんはせっかちだなぁ。そんなに急がなくても、ぼくの仲間は逃げませんよぉ」
「何言ってるのよ!少しでも早く安心したいの!それに、そうやってのんびり構えてると、また仲間に好き勝手されるわよ!」
「大丈夫ですって。やつらはもう、仕事のことなんか忘れて楽しんでますから」
「…は?楽しむ?どういうこと?仲間はビルの屋上で何してるのよ?」
「行けば分かりますよ。天使のイメージ、崩れること間違いなしですけどね」


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