弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

(最高裁編)

PARTW

 以上、最高裁判決とそれに対する批判的見解を紹介しながら私の考え方を縷々述べさせて頂きましたが、最後に、今まで触れなかった部分にまとめて触れて、「石に泳ぐ魚」事件の報告はひとまず終了としたいと思います。

差止要件論について

 表現物の事前差止めの要件については、今回の最高裁判決は突っ込んだ判断をしませんでした。二審の比較衡量のアプローチを是認するに留めたわけですが、それが妥当な判断であったことは、PARTVの冒頭で述べた通りです。ただ、表現物の事前差止めの要件論は、表現の自由に関わることなので、引き続き皆で議論をする必要があると思います。
 そのための私からの問題提起なのですが、まず、北方ジャーナル事件判決にメスを入れる必要があると思っています。
 北方ジャーナル事件判決は、「公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為」に関する表現についてのみ事前差止めの要件を明らかにしているのですが、かような公人に対する言論の差止めの要件として、北方ジャーナル事件判決は広すぎると思います。
 具体的には、表現内容が真実でないかまたは専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときには差止めが認められる、とされています。つまり、真実であっても、「専ら公益目的」でなければ(つまり私益が混ざっていれば)差止めが認められることになり、また、公益目的があっても、真実でなければ(つまり真実相当性があっても)差し止められることになってしまいます。
 これでは公人に関する言論の保護にあまりに欠けるのではないでしょうか。

 他方、非公人に関する言論の場合の差止の要件については、今後の研究・事例の蓄積によって決めていくしかないでしょう。
 私なりに考えている方向性としては、金銭賠償や謝罪広告によっては回復できない損害かどうか、という点が十分に吟味される必要があると思います。
 たとえば、非常に荒っぽい議論ではありますが、第1に、論評による名誉毀損であれば金銭賠償と反論によって被害の回復が可能な場合が多いでしょう。
 第2に、虚偽の摘示による名誉毀損の場合には、事実訂正の謝罪広告によって被害回復が可能な場合が多いでしょう。
 第3は、真実の摘示による名誉毀損の場合。これは通常、同時にプライバシー侵害を構成することが多いと思われます。プライバシー侵害を構成しない純粋な真実摘示の名誉毀損というのは事例的にはあまり考えられませんが、もしそのようなものがあった場合、「そのような虚名をどれだけ保護する必要があるか」に関する価値判断によって判断が分かれる問題でしょう。
 第4に、プライバシー侵害の場合には、一旦公表されてしまえば致命的である場合が多いでしょうから、事前差止を肯定する方向に傾きやすいのではないでしょうか。

小説表現の自由について

 「石に泳ぐ魚」に対する一審以来の一連の判決に対し、これらが小説表現の自由に対する脅威だというような批判的見解は、方々で言い尽くされています。
 ここではそのような見解に対して、ひと通りの私なりの考え方を書いておこうと思います。

 まず最初に意識して頂きたいことは、小説と事実報道との違いです。
 事実報道の場合、名誉毀損言論は、事実の公共性・目的の公益性・摘示事実の真実ないし真実相当性をもって免責が与えられていますが、かかる免責法理が設けられているのには理由があります。その理由は、免責を与えなければ有益な事実報道を抑圧することになってしまうからです。
 報道やルポルタージュの場合、事実を事実通りに伝えるところに本質があります。報道機関やルポライターが、例えばある権力者の汚職の事実をつかんだ場合、その事実を報じれば当該権力者の社会的評価を低下させざるを得ませんが、報道やルポはその事実を報ずる点に存在意義がある以上、その事実をそのまま報ずるしかありません。しかしその報道・ルポが名誉毀損の責を負わせられるようでは、まさに表現の自由の趣旨、つまり、自由な言論による民主的統治プロセスの実現という趣旨に反する事態になってしまいます。
 だからこそ「真実・真実相当性」の免責の法理が不可欠なのです。

 他方、小説表現の場合、自己の描きたい本質を何に託すかは表現者の全くの自由であり、そこには何らの制約もありません。事実を事実通りに書かねばならないという制約(報道やルポには不可避の制約)が全くないのです。
 たとえば本件のように、Aさんの属性をそのまま踏襲した副主人公をわざわざ登場させなければならないということはなく、書きたい本質を表現するために全く新たな小説世界を自由に創造することが、小説表現者には許されているのです。

 もっとも、作家が現実の何かに触発され、現実の出来事にモチーフを求めることはあり得るでしょう。しかし、現実の出来事にモチーフを求めたとしても、その現実の出来事をそのまま小説に表現する必要は全くありません。
 本件の場合でも、Aさんの属性をそのまま小説に表現する必要はないでしょう。そして、Aさんの属性をそのまま小説に表現しない方法として最も単純な方法は、Aさんの属性に関する記号(国籍・学歴・性別・住所など)を付け替える、という方法があり得ますが、しかし、自己の体験に基づいて感じた“伝えたい本質”をより多くの読者に伝えるためには、その“伝えたい本質”を普遍化する必要があるでしょう。そしてその体験を読者に向けて普遍化する場合、単なる記号の付け替えをするのでは読者に伝えることは難しいのではないでしょうか。普遍化するためにはそのときの体験を、全く別の類比物・類比事象に託すのが、最も有効であり、また、普通行なわれていることなのではないでしょうか。
 ある表現者は、自分の体験を、「穴から出られなくなった山椒魚」に託すかも知れませんし、またある表現者は、「ブリキの太鼓を手放さない男の子」に託すかも知れません。小説表現はかくも全く自由なのです。事実報道とは異なり、事実に縛られる必要は全くないのです。

 以上述べたところから、本件が極めて希有な事例であることがお分かり頂けるのではないでしょうか。
 本件は、事実に縛られる必要が全くないにも拘わらず、柳氏の方で、わざわざ特定の人物の現実世界の領域に入り込んで来て執筆をしたもの、という言い方ができるでしょう。
 つまり本件は、「小説家自身が、書かれる側の人格権と交錯する領域に自発的積極的に入ってきた」としか言いようがない事例なのです。そのようにわざわざ入ってきた場合に一定の制約を受け得るとしても、表現の自由に対する不当な制約とはいえないでしょう。なぜなら小説家の前には、その領域に入り込まずに表現できる無限の広大な領域が広がっているのですから。

最後に…もっとがんばれ最高裁!

 それにしても本件で悔やまれれるのは、最高裁が表現の自由の重要性に関して、極めてつれない応答しかしなかったことです。
 本件の結論は、法理論としても結論としても極めて妥当であり、表現の自由に対する脅威を与えるものではないと思われるのですが、やはり「最高裁が小説の出版差止めを認めた」というトピックは社会的には重い出来事として受け止められざるを得ないと思います。
 その重さが一人歩きするのを、私は恐れるのです。したがって、その一人歩きを抑える筆致があればよかったと、私は思うのです。
 たとえば、「人格権に基づく差止」は認められるのだと宣言するのはよいですが、「その侵害行為が表現行為の場合には特段の配慮が必要である」旨は、何度強調しても強調しすぎることはない筈です。今回の最高裁判決にはこの点に対する配慮が決定的に欠けていたといわざるを得ません。
 せめて4人の裁判官の中の1人でも、そのような補足意見を書こうという人はいなかったのでしょうか…。

番外編に続く

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