弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

(番外編)

「週刊文春」の出版差止めについて

 2004年、私が「最高裁編」のPARTUで触れた懸念(「裁判所による出版差止めの肯認のハードルが低くなってしまうのではないか」という懸念)が現実化した事件が起こってしまいました。それは、3月16日に東京地方裁判所によって出された、「週刊文春」の出版差止めの仮処分決定です。
 私はこの報道に接したとき、「裁判所はついにここまで来たか」と思いました。「石に泳ぐ魚」事件で出版差止判決を勝ち取り、その判決を肯定的に評価している立場の私が言うのはおかしいかも知れませんが、最近の裁判所は、出版差止めを認めるハードルが明らかに低くなったとの感を禁じ得ません。
 「週刊文春」の当該記事は、確かに田中真紀子氏の長女のプライバシーを侵害する内容を含んでいると思われますが、問題は、出版差止めを認めねばならないほど重大で回復し難いほどの損害をもたらすおそれがあるかどうか、ということでしょう。
 また、当該記事の作りは、国会議員であり元外務大臣である田中真紀子氏の資質を問うという切り口がみられるのであり、事実の公共性・目的の公益性が認められる余地があるものであって、少なくとも、そのような反対解釈の議論さえ一切封ずる結果となる事前差止めという方法には慎重であるべきだったと思われます。

「事前抑制アレルギーの消沈」という現象

 ひと昔前までは、言論への事前抑制に対しては、万人が拒否反応を示していたような気がします。検閲を禁じる憲法21条2項が当然のこととして受け止められることはもとより、検閲類似行為(検閲以外の方法による表現行為の事前抑制)に対しても、世論はほぼ等しく反対の意見を持っていたのではないでしょうか。
 ところが、表現行為の事前抑制に対する世間一般のこのような拒否反応は、その後消沈していきました。私の印象では、神戸の児童殺傷事件の被疑者少年の顔写真を「フォーカス」が掲載した事件が、そのような事態を生むきっかけだったと思います。この事件は、少年法の趣旨に真っ向から反する「フォーカス」の行為に対し、一般書店が自主的に店頭から「フォーカス」を撤去するという事態を招きました。この事件をきっかけに、事前抑制に対するアレルギーや心理的抵抗が世の中で少なくなり、事前抑制に対するハードルを低くする結果につながったような気がします。
 その後、私も関与した「石に泳ぐ魚」事件の判決も出て、他方で、報道被害の救済を求める動きも活発化し、数多くのメディア被害事例が蓄積されていく中で、「表現の自由の制約には慎重でなければならない」というテーゼが徐々にメディアの“言い訳”のような響きとしてしか受け止められないようになってきてしまい、いわば「メディア包囲網」が完成してしまったのではないでしょうか。
 このような包囲網を招いたのはメディア自身であるといわざるを得ず、その意味では自業自得といえなくもありませんが、メディアの自業自得だと言って切り捨てるには、言論・表現の自由はあまりに重く尊すぎます。
 いま一度、メディアも自身の報道姿勢を振り返ると共に、裁判所も、日々蓄積されるメディア敗訴判決がどれほどメディアを萎縮させているかを意識しつつ、慎重な判断をすることが望まれます。

追記その1・「週刊文春」事件の抗告審決定について

 3月16日に差止めの仮処分決定が出された後、文春側は決定を不服として異議の申し立てをしました。しかし東京地裁の異議審は、同月19日に異議申立を却下し、出版差止めの結論を維持しました。異議審で出版差止めの結論が維持されたとの事実は、事前差止めを認めるという判断が一部の裁判官の特異な考え方ではなく、現在の裁判所の多数派の考え方なのではないかと推測させるに十分です。
 しかしその後、文春側の抗告を受けた東京高裁は、同月31日、出版差止めを認めた地裁の決定を取り消しました。
 東京高裁は、当該記事が田中真紀子氏の長女のプライバシーを侵害することは認めつつも、事前差止めを認めなければならないほど「重大な著しく回復困難な損害を被らせるおそれがある」とまではいえない、として、事前差止めを否定したのです。
 東京高裁のこの判断は、表現の事前抑制に対し慎重な判断をしたものとして、極めてオーソドックスかつ妥当な判断だと私は思います。

追記その2・「公人」か「私人」か、という問題

 今回の「週刊文春」事件を報ずるメディアの中には、“議員の家族は「公人」か、それとも「私人」か?”という議論の仕方をするところが多く見られました。
 このようなアプローチは、議論を明解にするという点ではある程度意味がありますが、本質的な議論をするについては若干掘り下げ不足の感があります。“公人か私人か”という議論は、「人」(主体)に対する関心ばかりをクローズアップしてしまい、結果として、書かれた事実(対象)の権利侵害の態様や程度に関心を向かわせにくくしてしまっているのではないでしょうか。
 また、法的観点からいえば、アメリカの判例理論では、「公人」にあたるか否かにより免責法理が異なるため“公人か私人か”という議論を深めることに意味がありますが、日本の判例理論の場合、「公人」か「私人」かによって免責法理は異ならないため、かような議論が直ちに結論を左右するわけではありません。日本の判例理論は、“書かれた事実に公共性があるか”という、「人」(主体)ではなく「事実」(対象)に焦点をあてた議論をするのです。もとより、「公人」に関する事実であればそれが「公共」性を帯びる場合がほとんどでしょうし、「私人」に関する事実であれば「公共」性を帯びることは少ないでしょう(※1)。その意味で、主体が「公」の人か「私」の人かを意識することは大切です。しかし、それのみでは法的には割り切れないのです。(※2)
 今回の文春事件の場合も、議員の長女が「公人」か「私人」かという議論ばかりではなく、いかなる事実が摘示されているか、その摘示された事実が公共性を有するものなのか、という形で議論をするのが、少なくとも法的には正確です。また、その書かれた内容の権利侵害の態様や程度も十分に意識されなければなりません。今回の記事も、「田中真紀子氏の議員としての資質」という切り口をもっとクローズアップして書けば、いかなる裁判官が判断しても「出版差止めを認めない」という結論になったのではないでしょうか。
※1 私人に関する事実が公共性を帯びる場合の典型例は、犯罪報道でしょう。たとえば「Aが殺人容疑で逮捕された」という事実は、Aが私人であっても「公共」性がある事実である、と判断されるのです。
※2 尤も、かように事実の「公共」性に焦点をあて、「公人」か「私人」かの区別を副次的にしか考えない日本の判例理論は、それはそれで大いに問題だと私は思います。
わが国の一部の裁判例は、「事実」に目を奪われ過ぎた結果、受忍すべき報道・批判の範囲が「公人」と「私人」とで自ずと異なるべきことを忘れ、本来大いに報道・批判されてしかるべき「公人」に関する議論についても名誉毀損やプライバシー侵害だとしてメディア側を敗訴させてしまっていると思われるのです。
 「公人」に関する報道や論評の自由を確保するためには、「公人」と「私人」とで免責法理を区別する方が、法的な枠組みとしても、また、判断者に両者の区別を意識させる意味でも、妥当なのではないかとの感を強くします。

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