弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

(最高裁編)

PARTV

二審の比較衡量のアプローチを是認したことについて

 東京高裁編PARTUで引用したとおり、二審判決は、比較衡量のアプローチに基づいて、出版の差止めを認めました。
 最高裁判決は、この比較衡量のアプローチに基づく二審判決を是認したのですが、最高裁が比較衡量を是認したこと、つまり、差止めの要件につき新たな規範を定立しなかったことに対して、批判的見解が多く見られました。
 たとえば、元裁判官の竹田稔弁護士は、読売新聞の2002年9月25日朝刊において、「この方法では、個々の裁判官によって判断に差が出てしまうだろう。最高裁は、どんな場合にモデルの不利益が作家の不利益を上回るかという具体的な境界線を、自ら踏み込んで判決に記すべきだったのではないか」といい、また、田島泰彦教授は、前述の毎日新聞「発言席」において、「最高裁に期待されたのは、…小説表現の自由に十分配慮した法理を探求し、提示することではなかったか」とのコメントを寄せています。
 しかし私は、最高裁があえて何らかの規範を定立せず比較衡量のアプローチを是認するに留めてよかったと思っています。
 その理由は、前に述べたところと同様です。最高裁が何らかの規範を定立するには事例の蓄積があまりにも乏しすぎますし、また、小説表現という人間の極めて高度な営みについて、最高裁が事前に類型化することなど不可能だと思うからです。

 もう少し突っ込んだ話をしましょう。小説と事実報道との違いを意識して欲しいということです。
 事実報道の場合、民主的言論の理論に則り、具体的事件や特定の公人に対する批判が社会的に有用かどうか、という判断を司法が事前に類型化することは可能でしょう。そうであるからこそ、免責の法理などにおいて、「公共利害関係事実」「公益目的」という規範を定立することに賛同が得られるのだと思います。
 他方、小説の場合、具体的事件や具体的個人に関するものであることに価値があるとは限りません。小説の価値は多様であり、何が守られるべきで、何は守らなくてよいか、は、決められません。たとえば、「社会派小説」なら守るべきで、「SF小説」なら保護しないでよく、「官能小説」なら禁圧すべき、というような価値観を法的に強制できないのは明らかでしょう。つまり、「守るべき小説」「守る必要のない小説」などを予め類型化することは、少なくとも現段階ではできるとは思えませんし、むしろ今そのようなことをしたら、それこそ表現の自由に対する大きな侵害となるでしょう。
 そうなると結局、ある具体的個人の権利を侵害しているかどうか、という個別具体的事実という出発点からアプローチするしか方法がないということになるのではないでしょうか。“当該具体的個人の立場に立って、また、当該具体的個人を知る者の立場に立って、社会通念に照らし判断する”という事実認定の問題とするのが、最も判断の誤りが少ないのだと思うのです。

 さらにいうと、竹田氏や田島氏が比較衡量のアプローチを批判するのはご自由ですが、そのような批判をするのであればまずご自身がモデル小説に関して規範定立論を提案してくれないと議論が始まらないと思います。しかしそのような議論が成熟しているとは感じられません。
 かように、議論が社会的に成熟していない段階で、かつ、事例的蓄積がない中で、最高裁が適切な判断を下せるわけがありません。まして、もともと最高裁は、表現の自由に対する敬意に欠けているきらいがあるところなのですから、最高裁に「規範定立すべきだ」というのは、あまりに危険すぎる注文だと思います。
 このような意味でも、最高裁があえて何らかの規範を定立しなかったのはよかった、と思っています。

事実報道に関する北方ジャーナル事件判決を本件に妥当させたことについて

 前述のように、今回の最高裁判決は、北方ジャーナル事件判決を引用して差止めの結論を是認したのですが、“北方ジャーナル事件は事実報道に関する事案であり、小説の差止めが問題となっている本件には妥当しないはずだ”という批判もありました。
 たとえば、前述の東京新聞の社説は、「この判例(北方ジャーナル判決)は…事実報道をめぐる判断である。フィクションである小説…が争点である今度の事件には必ずしもあてはまらない。」といい、また、前述の田島教授の「発言席」は、「(北方ジャーナル判決が)小説での描写が問われ…(てい)る今回の事案の先例になりうるのか、疑問が残る。」としています。
 まず、そもそも東京新聞の上記社説は、北方ジャーナル事件判決の定立した差止めの要件(公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合に、…その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき)を「石に泳ぐ魚」事件にも用いたという前提で論を進めていますが、「石に泳ぐ魚」事件判決は、北方ジャーナル事件判決中、人格権に基づく差止めを認めた部分のみに依拠しているのであって、差止めの具体的要件の部分には全く依拠していないのであり、よって東京新聞は判決を明らかに誤読しています。
 かように北方ジャーナル事件判決の本件における先例性は、差止めの具体的要件の部分ではなく人格権に基づく差止めを認めた点にあるのですが、「人格権に基づく差止の肯否」という点に関していえば、表現物が「事実報道」か「小説」かという二分論に意味はないといわざるを得ません。実際のところ活字表現物は、報道・ルポルタージュ・ノンフィクション・歴史小説・モデル小説・ノンフィクションノベル・フィクション・時代小説・サイエンスフィクション等さまざまにジャンルを標榜されていますが、これらの区別は連続的であいまいであり、截然と区別することはできません。表現物が事実報道か否かという区別は本質的ではないのです。

 もう少しいうと、それが小説であろうと報道であろうと、結局は「それを読んだ人がどう受け止めるか」「社会的にどう受け止められるか」から判断するしかないということです。そしてその表現物が特定人を指すと受け止められてしまうのであれば、その特定人の人格権との関係で差止の可否が問題とならざるを得ません。
 本件でいえば、柳さんが主観的にどう思っていようと、「石に泳ぐ魚」を読んだ人が、副主人公につきAさんのことだと思ってしまうようであれば、柳さんの意図とは関係なく、客観的にAさんの社会的評価は低下してしまうし、Aさんのプライバシーとして情報が流布してしまうのです。わが国の判例は、表現物を「一般読者の普通の注意と読み方」で解釈する、としていますが、これはまさに、「それを読んだ人がどう受け止めるか」を出発点に判断しよう、と言っているのです。「一般読者の普通の注意と読み方」に照らして副主人公がAさんのことであると特定されてしまうのであれば、それはAさんについて書いた表現物とならざるを得ないのですから、その表現物が事実報道なのか小説なのかという区別には実益はなくなってしまうわけです。

つづく

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