弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

(最高裁編)

PARTU

最高裁判決の評価

 私は「石に泳ぐ魚」事件の最高裁判決につき、法律家団体の機関誌「青年法律家」2002年11月号で報告をしました。
 その原稿の最後の一節に、今回の最高裁判決に対する私の感想を集約してありますので、まずはそれを引用したいと思います。

「…今回の最高裁判決は、法理論、要件論としては表現の自由への新たな脅威を与えるものではないのだが、そうはいっても最高裁が小説の出版差止を肯認したという事実はトピックとしては大きな出来事である。
 このような出来事があると、今後、出版差止の肯認のハードルが低くなってしまうのではないかと私は恐れる。現に、近時の名誉毀損訴訟における認容賠償額の高額化は、本来別問題であるはずの名誉毀損の成否それ自体において、名誉毀損の成立を緩やかに認める結果につながっていると私は見ている。つまり裁判所の中で、表現の自由を制約することの重大性に対する理解が徐々に薄れているのではないかと思われる状況において、さらに著名な差止判決が出てしまったというわけである。
 裁判所は今後、本件判決の結論に引っ張られずに、事前差止めは原則的に認められないのだということを改めて銘記する必要があると思う。」

 このように私は、今回の最高裁判決の取った手法や結論には全面的に賛成なのですが、この判決の今後の影響を考えると、判決の拡大解釈や一人歩きを防ぐためにもう少し工夫が欲しかった、と考えています。
 以下、今回の最高裁判決に対する批判的見解を引用しながら、それに対してコメントをし、私の考え方をお伝えしたいと思います。

人格権」に基づく差止めを認めたことについて

 今回の最高裁判決は、人格権に基づく出版の差止めを認めた高裁の判断を、「当裁判所の判例(…最高裁昭和…61年6月11日大法廷判決…)の趣旨に照らして」、と述べて是認しました。
 ここで最高裁が是認の根拠として引用している1986年6月11日の最高裁大法廷判決は、いわゆる「北方ジャーナル事件」判決です。北方ジャーナル事件とは、北海道知事選への出馬を予定していた人の名誉を毀損する内容の月刊誌の出版差止めが肯認された事案です。
 今回の「石に泳ぐ魚」事件最高裁判決が北方ジャーナル事件判決を根拠にした点に関しては、“北方ジャーナル事件は名誉毀損に基づく差止めの事案であってプライバシー侵害に基づくものではないので、北方ジャーナル事件判決を根拠に「石に泳ぐ魚」の差止めを認めるのはおかしい”という批判がありました。
 たとえば東京新聞の2002年9月25日の「社説」は、「この判例(「北方ジャーナル」事件判決)は名誉棄損に関するものであ…る。…プライバシーという別の要素が争点である今度の事件には必ずしも当てはまらない。」との批判を寄せています。
 また田島泰彦教授も、毎日新聞2002年11月3日の「発言席」において、(北方ジャーナル事件判決が、)「プライバシーという名誉とは異なる法益の侵害が重要な要素を占める今回の事案の先例にどうしてなりうるのか、疑問が残る。」としています。

 しかし、北方ジャーナル事件判決の論旨は、差止めを認める根拠を名誉毀損に限定しているわけではありません。したがって、上記の批判はあたりません。
 即ち、北方ジャーナル事件判決は、「人格権としての名誉権に基づき、…差止めを認めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである」と、「名誉権」の前にわざわざ「人格権としての」という断り書きを入れ、更に、「生命、身体とともに極めて重大な保護法益」だということを排他性の肯定の根拠としているのであって、差止めを認める法益を名誉権に限定しているわけではないのです。
 換言すれば、北方ジャーナル事件判決は、およそ生命、身体とともに極めて重大な人格権に基づく差止めの可能性を肯認しているのであり、したがって「石に泳ぐ魚」事件判決は、北方ジャーナル事件判決の認めた差止めの射程範囲を拡げたわけではないのです。

 もっとも、名誉権とともにプライバシーに基づく差止めを認める余地があることを明言したという意味では、「石に泳ぐ魚」判決は北方ジャーナル事件判決よりも一歩進んだ判示をしたともいえます。しかし、名誉毀損とプライバシー侵害との間で要保護性に差を設けるべき理由があるとは思えません。名誉権に基づく差止めはよいがプライバシー侵害に基づく差止めは許すべきではない、という考えは一般的ではないでしょう。むしろプライバシーの方が、一度公開されてしまえば取り返しがつかないという意味で、事前差止めの必要性が高いとさえいえます。
 この意味で、上記の批判は、議論の実益という点でもあまり当を得ていないのではないでしょうか。

「小説」に差止めを認めたことについて

 「石に泳ぐ魚」事件は一審判決も二審判決も、「小説」の出版差止めを認めたという意味で多くの反響を呼びました。
 一審判決では、小説による権利侵害の有無の判断の前提として、“いかなる場合に、登場人物に関する記載が特定の人(モデル)に対する権利侵害の問題を生じるか”につき、詳細な規範定立をしました。
 即ち、「小説中の登場人物…が虚構の人物であるとしても、その人物にモデルとなった実在の人物…の属性が与えられることにより、不特定多数の読者が小説中の登場人物とモデルとを同定することができ、小説中の登場人物についての記述において、モデルが現実に体験したと同じ事実が摘示されており、かつ、読者にとって、右の記述が、モデルに関わる現実の事実であるか、作者…が創作した虚構の事実であるかを截然と区別することができない場合においては、小説中の登場人物についての記述がモデルの名誉を毀損し、モデルのプライバシー及び名誉感情を侵害する場合があるといわなければならない。」という規範を定立し、この規範に対してその後にあてはめをしていったのです。
 他方、二審判決では、特段の規範定立はせず、直接的に事実認定をして、作中の副主人公とAさんとの同定可能性を肯定しました。

 このような一審・二審判決を受けて最高裁は、差止めの対象が小説であるという点について特段の判断をせず、副主人公とAさんとの同定可能性が肯定されるとの二審の判断を是認するに止めました。つまり、単なる事実認定の問題とし、それ以上の判断をしなかったのです。
 これは結局、一般読者の普通の注意と読み方に照らしてみて、副主人公がAさんを書いたと読めるかどうか、という判断に一切を集約したということになりますが、このような最高裁の態度をどのように評価すべきかについても見解が別れるところだと思います。
 私は最高裁の今回の判断は、これでよかったと思っています。
 小説の場合の権利侵害性の判断基準などという問題は、最高裁がそのような判断をするには事例の蓄積があまりにも乏しすぎます。小説表現という人間の極めて高度な営みについて、最高裁が事前に類型化することなど、少なくとも現時点では不可能だし、すべきでもないと私は思うのです。
 とすると、当該具体的個人の立場に立って、また、当該具体的個人を知る人の立場に立って、当該小説の内容につき、社会通念に照らして判断をする、という個別の事実認定によるのが、判断の誤りが最も少ないのではないかと思われ、現にそのような手法を是認した最高裁は、妥当な選択をしたのだと思うのです。

つづく

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