野田市春日町トップページへ

野田市春日町

春日町のルーツ

■春日町にも古代人

春日町が成立するずっと昔のこの地域の状態はどうだったのだろうか。この地に現在住んでいる人が一度は必ず思う疑問である。
しかし、このことへの歴史的挑戦は、言うは易く、実践は難しい。

そこで我々は、現時点でわかっている事を出来るだけ正確に書きとどめることにした。
まとめるにあたっては、野田図書館の資料や神明大神社の由来及び地元の旧家岡部家の方々のご協力を仰ぎ、お話を参考にした。

 さて、春日町の所在地あたりには、昔々の大昔、石器時代、縄文時代、弥生時代にどうなっていたのかは正直言ってよくわからない。しかし、一つだけある。現在の北コミュニティーセンターの駐車場のあたりに、古代人が住んでいた跡らしきものが見つかったことがある。平成元年当時、北コミュニティーセンターの建設工事が開始されて間もなくのことだ。

しかし、市などの関係者の分析結果では、たいした遺跡ではないということだった。つまり、わかった事は森林が古くから形成されており、そこに住んでいたという事である。深い豊な緑におおわれた大地であった事は確かである。


■江戸時代の春日町

 この辺が歴史上に記録をとどめるようになるのは、江戸時代に入ってからである。日本には人が住むと神社を建て、小さな部落ごとにやおよろずの神々を祭る風習があった。日本では古くは奈良時代以前から、神々への信仰が原始宗教の形をとって存在したようである。春日町の近辺に住みついた人達も信仰心の厚い日本人だったに違いない。

野田図書館や堀越宮司の記録によると次のようになっている。
 神明大神社の成立は延宝4年(1676年)であるという。今から300年以上も前、江戸時代の前期、三代将軍家光の頃である。したがって徳川家康・家光が江戸城(今の皇居)を一生懸命つくっていた頃に、この春日町近辺にも人々が本格的に住みつき村らしきものが形成されつつあったと考えてよいだろう。これが春日町のルーツである。

ちなみにその時代の代官は小宮山杢之進、後藤庄左衛門と言ったそうだ。この二人の代官に検知をしてもらい、神社地をもらって神社中心にささやかに暮らしていた。そして村の安全を神々に祈ったという。つまり天領だったようだ。隠し田がばれて検知をくらったという説もあるがつまびらかではない。

その後、享保・天保時代(江戸後期)にも記録があらわれる。特に天保6年(1835年)7月に五木村(春日町の古い呼び名)別当慶徳院が神明宮に大きな御貢献があったという。現在の本殿の下に御神体としてそれが刻まれた石があると岡部家の一人はいう。


■明治、大正&昭和初期の春日町

明治時代に入ってから村はだんだん大きくなったようである。村名もこのあたりは七福村五木新田といった。神明宮もその頃すでに神明大神社といっている。
さて、大正末期の春日町近辺の呼称と地図はどうだったのだろうか。
五木新田は当時大きく西耕地、中耕地、東台高地に分かれている。西耕地が春日第一自治会、中耕地がけやき通りをはさんで春日第一・第二自治会の一部、東台耕地は春日第二自治会の大部分ということである。ほとんどが山林と畑である。
周辺には馬頭観音があり、出水台、義太夫池、界宝院という地名のところが取り囲むようにつながっていた。周辺は水田であった。

東武鉄道は昭和に入ってから引かれたものであるが、座生川が旧境界の外側を谷吉地区の方に通じている。この地域は桃の産地で桃船が江戸川に通っていた。
この地域に電燈がついたのは昭和21年8月、田中豊三氏のご努力のおかげだった。

尚、神明大神社は昭和10年2月17日に石鳥居の建立と屋根葺きが行われ、昭和24年5月8日に屋根が瓦に替えられた。当時の氏子は5人であった。なお、昭和61年11月24日現在の社殿となった。現在、氏子30有余名、盛大な遷宮式が行われた。


■春日町自治会誕生

最後に、この地域は昭和40年代に入って大規模な区画整理事業が始まり、昭和50年代初めには現在の春日町の区画がほぼ完成し、今日に至ったのである。
なお、春日町の町名については市当局から地元住民に諮問された。高嶋初代長会長を中心に連日連夜議論。神明町、若葉町、春日町など数案が浮上した。最後は全員一致を以って春日町(案)を答申した。市当局においても、地元住民案が議決され正式には昭和55年5月3日発足した。この日は奇しくも野田市制30周年の記念日であった。

             春日町15年記念誌「春日町のあゆみ」より
                        文 第3代町会長 寺田禎之氏