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「ねぇ……あの子、君の子?」
「違うわ」

ニッコリとほほ笑む恭吾にレイ子はきっぱりと否定した。
恭吾の目がすっと細められる。
何もかも見透かそうとするような視線にレイ子は内心冷や汗が流れる。

「じゃあ、誰の子?」
「今の夫の連れ子よ」

さらりと言うレイ子にふーんと恭吾は口角を上げる。

「そっか、君の子供じゃないんだ」
「そうよ」
「なんだ、ざーんねん」

レイ子の中で後悔が渦巻く。
どうしてあの時、この男とあんな約束をしてしまったのだろう。
どうして今になってこの男が蒼夜に前に現れたのだろう。
蒼夜とこの男を引き合わせては絶対にならない。
そう己にいつも言い聞かせていたはずではないか――と。

「用はもうないでしょ」
「うーん、そうだね。今のとこはないかな」

ああ、そうだ、と踵を返そうとした恭吾が手を伸ばし、レイ子の頬に触れた。
そして。

「顔色が悪いけど、どうしたの?大丈夫?」

心配そうな言葉だったがその表情は愉快そうに笑んでいる。
レイ子からサッと血の気が引いた。
はははっと声に出して笑った恭吾は手を振りながら去って行く。

「じゃあ、またね」

その言葉はレイ子にとって呪いの言葉にしか聞こえなかった。
消えていく恭吾の背を睨み付けながら、化け物がっと吐き捨てた。








家に戻った蒼夜は落ち着きなくリビングのソファーに座っていた。
目の前にすっとホットミルクが差し出される。

「飲んで。少し落ち着くよ」
「あ、ありがと。正芳さんは心配じゃないの?」

正芳はそれは心配だけど……と苦笑いをする。
その後、でもねと言葉を続けた。

「レイ子さんが大丈夫って言ったから。その言葉を僕は信じているんだ」

だから蒼夜君も信じて待っていてと勇気づけるようにほほ笑んだ。
マグカップに口を付けてホットミルクを一口飲む。
じんわりと身体の中が暖かくなって不安が少し和らいだ。
手に持っているマグカップを見つめながら一体、レイ子と恭吾はどういう関係なんだろうかと考えた。
そしてハッと顔を上げた。
もしかしてレイ子が水商売をしていた時の客だったりして。
その時に何かトラブルでもあったのだろうか。
悶々と推測していると家のドアの開く音がする。
すぐにリビングにレイ子の姿が現れた。
蒼夜が立ち上がる前に正芳が近くに寄ってレイ子の様子を窺う。

「あんな事になってごめんなさい、正芳さん。きちんと話すからもう少し待っていてくれる?」
「うん。いつでもいいからね」
「ありがとう」

レイ子は正芳に抱きつき顔を胸に埋める。
正芳もレイ子の背に手を回して髪を撫でている。
なぜか急に蒼夜そっちのけで二人の世界になってしまった。
あんなに心配した自分は何だったのだろうかとバカバカしくなってソファーから立ち上がる。
抱き締め合う二人を横切り、リビングから出て二階へ行こうとした蒼夜はレイ子に呼び止められた。

「蒼夜」
「何だよ」
「あんた、明日から学校に戻りなさい」
「……はぁっ!?」

まだゴールデンウィーク4日目だ。
あと3日も休みが残っている。
それなのに突然帰れとはどういう事なのか。
蒼夜はもちろん、素直にうんとは言わなかった。

「嫌だよ。それに携帯だって壊れたままだし」
「つべこべ言わずに戻りなさい!そうしたら携帯買ってあげるわよ」
「なんだよそれぇ!」
「携帯いらないの?別にそれならいいんだけど」
「えぇーー……」

携帯がないのはとても困る。
自分で買えるお金を持っていないから蒼夜は頷くしか選択肢がない。
横暴だ!理不尽だ!と思ったが携帯を壊したのは自分だし買ってもらえるだけマシかと 溜息を吐いた。

「明日戻ればいいんだろ?」
「もしも……」
「ん?」
「もしも、さっきの男に会ったら逃げなさい」

蒼夜はパチパチと瞬きをした。
敵前逃亡するなと教え込まれてきた蒼夜にとってその言葉は青天の霹靂だった。

「逃げんの?」
「そうよ。立ち向かうなんて事、考えるんじゃないわよ。いいわね?」
「……なあ、恭吾って何者なわけ?」

男の名を言った途端、レイ子の目が大きく見開く。
そして正芳から離れ、蒼夜になぜ名前を知っているのか詰め寄った。
蒼夜は繁華街の路地裏で起きていた出来事を教えると、顔を手で覆ったレイ子が 唸る。

「レ、レイ子?」
「まさか偶然とはいえ接触していただなんて……」

顔を上げたレイ子に今から荷物をまとめるようにと支持を出された。
しかも明日の朝一でここを出る事と言って来たので蒼夜は携帯!と叫んだ。

「携帯なら後であんたの所に送るから朝、発ちなさい」
「また、そんな横暴な……。わ、分かったよ」

レイ子に睨まれた蒼夜が渋々頷く。
で、恭吾って……と聞こうとしたが再びレイ子が正芳に抱きついてそれに答えるように正芳も 抱き締める。
また二人の世界に入ってしまった。
ぽりぽりと後頭部を掻いた蒼夜は荷物をまとめるべく自室に向かった。

「まったく、なにがなんだか」

スポーツバックの中に必要なものを詰め込んでいく。
時間はそう掛からずチャックを閉めてベッド脇に置いた。
その後、ごろりとベッドに転がる。
時間は1時を過ぎていたが霧島家で遅い朝食をたらふく食べて来たせいかお腹は 空いていなかった。
少しの間、目を瞑っているといつの間にか眠ってしまい次に目覚めたのは夕食の時間をとっくに 過ぎた夜中だった。
寝過ぎて頭が重くなっている身体で階段を下りる。
リビングは真っ暗で誰もいなかった。

「起こしてくれてもいいじゃんかよ」

キッチンに行って水を飲む。
冷蔵庫を開けると蒼夜の分の夕飯があった。
レンジで温め、イスに座りもくもくと食べた。
その後、風呂に入り、また自室へと戻る。
携帯が無いので特にやることもない。
昔買ったボロボロのマンガを新しい本棚から出して読み始める。
そうしている内に夜が明け外が明るくなった。
しばらくして部屋を出るとトイレに行こうとしていた正芳と会った。

「おはよう、蒼夜君」
「おはよー、父さん」

挨拶を返した蒼夜に正芳は小声で話し始めた。

「蒼夜君、いきなりレイ子さんから戻るように言われたけど、それはちゃんと考えが あっての事だから……」
「分かってるよ。父さんは聞いたの?」
「うん。詳しい事はまだだけどね」
「ふーん」

レイ子と長年一緒にいる蒼夜は横暴だと理不尽だと思っていても何かしら 理由がある事は分かっている。
そしてその事に対して説明がなく急に言われたりするから揉めたりする原因になっているのも 理解している。

「ま、あれだろ?今は俺に言えない何かがあるんだろ?」

ぶすっとした顔で言う蒼夜に正芳は破顔した。
さすがはレイ子さんの息子だねと褒める。

「いつかレイ子さんから蒼夜君に言う時がやってくるからその時は聞いてあげてね」
「うん」

いい子いい子と正芳の手が蒼夜の頭を撫でる。
子供みたいな扱いでちょっと恥ずかしかったが嫌ではなかったのでそのままにしておいた。
そうしている間に欠伸をしながらレイ子が寝室から出てくる。

「こんなところで何してんの?」
「あ、レイ子さん。おはよう」
「おはよう、正芳さん」

レイ子が正芳にキスをする。
それを見て蒼夜はうげぇと顔を歪めた。
まさかいつもしてるんじゃねえだろうなと思っているとレイ子が正芳からのキスをせがむ。
さすがに正芳は息子がいる前では抵抗があるらしくまっ赤になっている。
蒼夜は勝手にやってくれとその場を離れた。




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