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遡る事少し前、家路を急ぐ蒼夜は繁華街の一角で対峙していた。
こめかみから汗が流れ落ちる感覚がしているのは気のせいなのか。
相手は殺気を帯びた目を蒼夜から一瞬も離さず睨みつけている。
動いたら殺られる。
蒼夜にそう思わせるのは不良でもヤクザでもなかった。

「蒼夜、あんた何か私に言う事があるわね?」
「なんでここにレイ子がいんだよ」
「そんな事を聞いてんじゃないわよ!!」

振り上げた拳が蒼夜の頭にヒットした。
陥没するような衝撃に襲われ、その場にしゃがんで身悶える。
買い物袋をぶら下げたレイ子は己の息子を見下ろした。

「もう一度聞くけど、何か言う事は?」
「えっとー……あ!」

蒼夜はおそるおそる携帯が壊れたから 新しい携帯を買ってくれるように頼んだ。
しかしレイ子はそんな事を聞いてんじゃないってさっきから 言ってんでしょー!!このボケがぁっ!!と再び拳を振り落とした。

「いってぇ〜!!二度も殴るんじゃねぇよ!!」

蒼夜の髪を容赦なく鷲掴みにしたレイ子は顔の近くまで引き寄せる。

「夜になっても連絡もしないでようやく電話が掛かってきたと思ったら急に泊るですって? 誰の家に泊らせてもらう事も言わないうちに一方的に切って!!」

目の据わったレイ子へ蒼夜はうるせぇなぁという顔を向けると 勢いよく頭突きをされて道路に蹲った。

「マジでいてぇーー!」
「何、そのうるせぇみたいな顔は!!」
「メガネしてんのになんで分かるんだ……。ま、まぁ落ち着けよ。で、携帯買っ……うおっ!?」

蒼夜めがけて空気の切る音をさせながらレイ子の脚が振り落とされる。
間一髪避けた蒼夜はあぶねーと額を拭いながら立ち上がった。
丁度昼の時間帯、しかもゴールデンウィーク中の繁華街だ。
たくさんの行き交う人達が足を止め一体何事かと興味深そうに見ている。
しかし当人たちはお互いしか目に映っていない。
そんな時、遠慮がちに話しかけてくる者がいた。

「あのー、レイ子さん、蒼夜君。目立ってるから……取り合えず家に帰ろうか」

二人が同時に振り向くと両手に買い物袋をぶら下げている正芳の姿が。
そこでようやく遠巻きに見ている野次馬に気付く。
レイ子はチッと舌打ちした後、さっさと歩いて行ってしまった。
正芳に促され蒼夜もレイ子の後を追うように歩き出す。
騒ぎを起こしていた蒼夜達が消え、野次馬もまた分散して行った。
だが一人だけその場を動かずおもしろそうに口角を上げている男がいる。
ジーンズに黒のパーカーといういたって普通の格好だがその容姿は飛びぬけて美しかった。
俳優やモデルでもこんなレベルの高い者はそうそういないだろう。
現に女性達の目が釘付けになっている。
それどころか男でさえもチラチラと視線を送ってしまう程だ。
突然、男の頭にパーカーのフードが背後から被せられた。

「おい、恭吾。顔を出すな。目立つ」
「安慈に言われたくないなー」

後ろを振り向いた恭吾はフードを被ったまま体格の良い長身の男を見上げた。
スラックスにシャツというこれもまた普通の格好だが全身から堅気とは思えない鋭い気配を十分に 感じさせ別の意味で周囲から注目を集めていた。
恭吾が笑みを浮かべているとサングラスの奥で安慈が目を細めた。

「こっちに戻って来てから機嫌がいいよな」
「そう?面白い事がみつかるからかなーぁ?」
「今度は何だ」
「あの子がいた」

あの子?と安慈が聞き返す。

「蒼夜がいた」
「ああ、路地裏で恭吾を助けた子供か」
「それと」
「それと?」

んー、と少し考えた恭吾は言うよりも見せた方が早いと思ってクスクスと笑いながら歩き出した。









さっきから無言のまま住宅街を歩くレイ子に蒼夜は居心地が悪くてしょうがなかった。
殴られた頭は今もズキズキと痛む。
ぶすっとした顔をしていると正芳が謝ったの?と聞いてくる。
蒼夜は俯いて頭を振った。
大きな手が蒼夜の頭を慰めるように撫でる。
チラッと横を見ると正芳が優しくほほ笑んでいた。
目の前を歩くレイ子へ視線を移して蒼夜は口を開いた。

「レ、レイ子……ゴメン」

謝るとレイ子が急に立ち止まった。
ぶつかりそうになった蒼夜は慌てて足に力を入れて踏ん張った後、一歩後退する。
バッと振り向いたレイ子はまだ険しい表情を崩さない。

「なんでもっと早く謝らなかったの。携帯を欲しがる前に謝罪でしょ!このバカ息子!」
「ゴメン……」

もう一度、蒼夜が謝ると少し気が収まったのかレイ子から荒々しい気配が無くなった。
そして泊った家で迷惑を掛けずにちゃんとしたのか聞いて来る。
蒼夜は思い返して……言葉を濁した。
その家の息子に襲われたり池でおぼれて気を失ったり高そうなふすまを破ったりしただなんて言えない。

「まぁ、うん。ちゃんとしてたよ」
「で?誰の家に泊まったの?野崎君?」

レイ子は蒼夜の元同級生、野崎孝史の名前を出す。
転入する前はちょくちょく泊まったりしていたからそう思ったのだろうが 今回は違う。

「いや、きり……」

霧島君の家……と言おうとした時、レイ子が驚愕した顔で蒼夜の後方を見ている事に気が付いた。
何だ?と思いつつ振り返る。
すると人間離れした美しい顔をした男がほほ笑みながら一人路上に立っていた。
その男が路地裏で不良に絡まれていた恭吾だと蒼夜はすぐに分かった。
レイ子がかすれた声で、どうして……と小さく呟く。
そしてハッと我に返ったレイ子に蒼夜は腕を引っ張られ強引に立ち位置を入れ替えられた。
その上、先に帰っていなさいと必死な様子で持っている買い物袋を押し付けてくる。
訳が分からなくて蒼夜は困惑した。
それは正芳も同じだった。
蒼夜も正芳もレイ子に説明を求めるが先に帰っての一点張り。

「お願いだから行って!」

そうしている間に恭吾は顔に笑みを湛えて確実に近寄って来る。
蒼夜は自分を押すレイ子の手が震えているのを感じ取った。
あのレイ子が恐れている。
どんな状況であっても平然としているレイ子が……あの男を……。
その時、蒼夜の頭の中で瞬時に恭吾を敵と見なした。

「な、蒼夜!?」

レイ子が蒼夜の予想外の行動に驚いた声を上げた。
すぐ近くまで迫って来た恭吾の前に蒼夜が立ったのだ。
まるで自分の母を背に庇うように。
蒼夜がビシッと恭吾に向かって指を差し、これ以上近ずくな!と叫ぼうとしたところで レイ子は後ろから息子の頭を殴った。

「何すんだよ!!」

まさかレイ子から殴られると思わなかった蒼夜は後頭部を押さえながら文句を言った……が。
レイ子の顔を見てこれ以上何も言えなくなった。
いつも上から人を見下ろしてくるような勝気な母の姿がそこにはない。
自分を見失わないよう必死に己を奮い立たせやっとそこに立っているように感じた。

「正芳さん、私は大丈夫だからこの子を連れて帰って!」

正芳は大丈夫なんだね?と念を押す。
それにレイ子は無言で頷いた。
蒼夜は正芳に手を引かれる。

「父さん!?」
「先に帰ろう」
「でも………」

殊の外、正芳の力は強く引きずられるように歩く。
レイ子を一人残して帰る事が不安になっている蒼夜はここにいたいと正芳に訴えた。
しかし正芳はレイ子さんを信じて、といつもとは違う力強い目で蒼夜を見る。
その目を見返して……コクリと頷いた。
蒼夜はレイ子を度々振り向きながら家に帰って行った。




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