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ふと、トイレに行きたくなって蒼夜の目が覚める。
部屋の中の掛け時計を見ると朝の6時になっていた。
起き上がろうとして……失敗に終わる。
なぜなら蒼夜の身体に誰かの腕が後ろから巻き付いていたからだ。
前を見れば一人ですうすうと寝相よく寝ている霧島の姿が。
蒼夜はなぜか隣に敷いた布団の中にいた。
つまり藤堂が寝ていた布団の中だ。
確認しなくても密着している相手が誰だか分かったので遠慮なく腕を引きはがしたが ……すぐに拘束されてしまった。

「おい、離せって」
「……」
「寝るな、バカ!俺はトイレに行きたいんだよ」

トイレに行きたいと訴えても一向に離そうとしない。
だんだんと膀胱が限界にきている蒼夜はガブっと藤堂の腕に噛みついた。
少しゆるんだ所で素早く脱出する。
警戒しつつ藤堂を振り返ると噛みついた手をジッと見ていた。
そして視線をスッと蒼夜に移して睨みつける。
蒼夜は舌をベッと出してトイレに向かうため部屋を出た。
肌けた浴衣を直しつつ廊下を少し歩いて……立ち止まる。

「あれ?」

トイレの場所なら昨日レイ子へ電話を掛ける前に葵と一緒に行って把握したはずなのにこんな所、歩いたっけか?と見覚えのない廊下で考え込んだ。
まあ、いっかと長い廊下を歩いて歩いて……たどり着かない。
やばいと焦り始めた。

「も、もれるっ!!」

人様の家で漏らしたりなんかしたら……。
そんな失態は犯せない。
ただでさえ池で溺れるという恥ずかしい事をしているのだ。

「そこで何をしている」

突然、後方から鋭い声が掛かり、振り向くと黒スーツをピシッと着こなしてる男が立っていた。
40代くらいの男はがたいがよく、こめかみにざっくりと切れた痕があった。
髪が後ろに流されているので傷の痕がよく目立つ。
目鼻立ちがはっきりしていて近江同様見目がとても良かった。
蒼夜は少し前屈みになりながらその男を見上げる。
誰だか分からなかったが、これでトイレの場所を教えてもらえる!と思った時、男の様子がおかしい事に気づいた。
蒼夜をジッと見たまま微動だにしない。
まるで初めて藤堂と霧島の父親である義勝と会った時の反応と似ていた。

「なんてこった……」
「え?」
「俺は朝から幻を見ているのか?」

男は警戒しながらも蒼夜に少しずつ近づいてくる。
なんでそんな行動をとられるのか不思議に思ったがそんな事よりも蒼夜は一刻も早くトイレに行きたくてしょうがなかった。
その証拠に冷や汗をかき始める。

「あのっ」

トイレの場所を聞こうとしたその時、いきなり目の前で跪かれ手を取られた。

「幻でも白昼夢でもいい。またこうして出会えた事に我が身に印した天女に感謝を」
「は?」

本格的に男についていけなくなった蒼夜は一歩後退した。
しかし握られている手を引っ張られると体が宙に浮いた。

「へ?」

軽々と横抱きにされ目を丸くする。
同時に身体を動かされたせいで危うく漏れそうになった。
眉根を寄せて耐えていると男に励まされる。

「もう大丈夫ですからね」

そっと目を開けて見上げるとニッコリと男がほほ笑んだ。
あれ?トイレに行きたい事が通じたのか?と 思っていると素早くどこかへ連れて行かれた。

「あ、の……自分で歩けます…」

いくらなんでも横抱きで移動はないだろうと思い、蒼夜は下ろして欲しいと訴えたが聞き入れてもらえなかった。

「そんな顔色が悪いあなたに歩かせる訳にはいきません」

いや、これはただトイレが限界に近いだけなので……と言おうとして口を開いた時―。

「そこで何をしている」

背後から声が掛かった。
先ほどと同じ質問だったが少し違うのは 声を掛けられた相手が蒼夜ではなく蒼夜を横抱きにしている男だったという事。
そして……。

「近江さん」

蒼夜が知っている人物だったという事だ。
名を小さく呟くと近江は目を若干大きくさせ、蒼夜を抱えている男ほどではないが驚いた様子を見せた。
しかしそれは一瞬で消え次には怜悧な顔になる。

「おい、新垣。その腕に抱えているのは誰だ」
「あ?誰だと?お前この方が誰だか忘れちまったとは言わせねぇぞ。ちょっと会わないうちに 記憶力がなくなったのか?ああ?」
「記憶力がないのはテメーの方だろうが。あの方は―」

言い終わる前に蒼夜を抱えている男が勢いよく近江へ頭突きをした。
思わず蒼夜が痛そうな顔をしてしまうほどゴツッ!と大きな音がする。
そのまま額の押し合いと睨み合いが蒼夜を挟んで続く。

「どこをどう見てもそうだろうが」
「はっ、どうしてそう思う。そんな事ありえるはずがない。実際に見ただろっ!なにより新垣、 テメーが一番先にー」
「うるせえっ、黙れ!こうして俺の腕の中にこの方はいるんだよ!俺の天女が 願いを聞き入れてくれたんだ!」

近江は唸りながらこのロマンチスト馬鹿が…っ!と吐き捨てた。
一方蒼夜は何が何だか状況が全く分からずガンの飛ばし合いをしている双方に挟まれる 形で必死に尿意に耐えていたのだが 巻き舌で言い合っているやくざなんかもう気にしている場合ではないレベルに達した瞬間、 抱えている男を手でガシリと掴んだ。
それに男が気付き焦った様子になる。

「ああっ、近江、早くどきやがれ!急いで千場じぃに見せねえと!」
「――レッ」
「え?何ですか?」

急いで蒼夜をどこかに連れて行きそうな男に声を大にして叫んだ。

「トイレ!!漏れる!!早く下ろせ――!!」




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