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「あら?蒼ちゃんは?」

比奈山総合病院の病室でさっきまで駆け回って遊んでいた子の姿が見えない。

「あの子なら病院の広場に遊びに行ったんじゃないかしら」
「レイ子が怒るからよ」
「病室で騒いでいたら迷惑でしょ」

レイ子は先程言う事を聞かない自分の子供の頭を一発殴ったのだ。
それに対してむくれた子供は病室から飛び出して行った。
ベットに上半身を起こしている店のママが苦笑いをする。
椅子に座っているレイ子は長い脚を組んでフンッと鼻から息を吐きだした。









「くっそーれいこめー」

赤いワンピースを着た小さい子が病院の憩いの広場を頭を擦りながらてくてく歩いている。
久しぶりにレイ子と出掛ける事になってちょっとはしゃいでしまったのだ。
病室を駆け回り他人のベットの上を通過した所でレイ子に捕まり鉄槌を頭に受けた。

きょろきょろと周りを見渡すと初めて見る場所に好奇心がむくむく膨らんでいく。
季節は春で穏やかな気候の中、青々と茂っている芝生の上で談笑している人達がいたりお年寄りが ベンチに座って読書をしていた。
首を動かすと子供達が木陰に看護師と一緒にいる。
その中の子供の一人が誰かに手を振った。
手を振られた子供は少し離れた所にいて本を抱えている。
看護師が近づき何か話していたがやがてその子は一人でどこかに行ってしまった。
それを目で追いながらニマッと笑うと。

「ぴーぴー!こちらはれっど!ついせきかいしするっ!」

元気よく手を上げて駆け出した。

こっそり後を付いていくと木々の間を抜けて奥の方へ進んで行った。
すると桜の木に囲まれた誰もいない場所に辿り着く。
桜の花びらがはらはらと舞い落ちているそこは秘密基地みたいだった。

「こちられっど。しれーかんおうとうしてください。りょうかい!あくのきちにせんにゅーかいし!」

背の低い木を見つけ上手に登り始めた。










もしもこの世界にあることが意味をなすならば自分という存在は何故ここにあるのだろうか。
欠陥を抱えたこの身体を持つ意味は?
あと数年でこの世からいなくなる事が決まっているのにここにいる意味は?
どうでもいい。
この世に執着するものなど何もない。
父親の跡取りなら上に兄と姉がいるので問題ない。
幸い二人とも健康だ。
病院の奥まった所にある桜の木の下で4歳児が読むとは思えないぶ厚い本を足の上に置いて 座った。
そして瞼を閉じ、決して変わる事のない世界がゆっくりと開いた瞳に再び映るはずだった。

―それは木漏れ日の光を纏いながら落ちてきた。

目を見開いて目の前にドスンっと落ちた光を見つめた。

「ちゃくちしっぱいしたーいてぇ〜」
「きみはだれ…?」

お互いの目がぱっちりと会った。

「おおおおっ!!おひめさまがつかまってた!」
「え?」
「えっとーそうのなまえは、つきおかそうっていうの!きみは?」
「ぼくはひなやまよういち…」
「ひな、よう?…ひなちゃん!ひなちゃんね!」

長すぎて幼い耳には聞き取れなかったのでひなちゃんになってしまった。
それに外見からしてくりっとした大きな目にふわふわとした明るい茶色の髪は 外国のお人形さんのように感じてその呼び方が似合っていると思ったのだ。
勝手に悪のボス役にしていたがあまりのかわいさにお姫様がいるのかと錯覚した。
その為、ひなちゃんは悪のボスに捕らわれたお姫様に変更になった。

「そうちゃんはどこからきたの…?」

ひなちゃんの問いにそうは天高く指を差した。

「そら?」
「うん」

七レンジャーになりきっているそうは彼らがいる虹を差したつもりだった。

「ひなちゃんは?」
「…ぼくはここ」
「ここ?」
「うん、びょういん」
「どこかびょうきなの?」

心配して聞いてくるそうにひなちゃんはにっこりと笑った。
いつもかわいらしいと言われる笑みだ。
だがそうは首をコテッと傾げた。

「おこった?」
「…え?」

笑んだままひなちゃんは固まった。

「なんでそんなにおこっているの?」

ひなちゃんは言葉を失った。
大きな目をパチパチさせてそうを見ている。

「どうして…」
「だってわらってないもん」

その言葉はひなちゃんに衝撃をもたらした。
今までそんな事を気付いた者はいない。
この身体の事を知っている周囲の者たち、両親や兄弟でさえ哀れな子だという目をして見てくる。
それに辟易し最初は怒りが湧いていたがだんだんとバカらしくなり悲しみも苦しみも怒りも全て笑って済ませていた。
それを今出会ったばかりの子に気付かれるとは予想外だった。

「ねえさんたちがね、ひなちゃんとおなじ。やだとおもってても わらってないといけないんだって」

そうはレイ子に連れられて店に一緒に行っている。
遊び場は店の奥の化粧部屋だ。
その部屋で我慢していた事を吐き出し、時間になれば何食わぬ顔で表に出て笑いながら 客の相手をする姐さん達を幼いながらに見ていた。
そんな姐さん達のストレス解消法の一つにそうの着せ替え人形ごっこがあった。
私達とおそろいだねーと姐さん達から言われると仲間に入れてもらった気がしてそうはスカートを自ら選んだ。
その姿を見たレイ子が大きな溜息を吐いて 変な方向に目覚めたらあんた達覚悟しておきなよと昔を思い出させる気迫で言うと姐さん達はきゃーと悲鳴を上げていた。

「おこっていいんだよ。ないたっていいんだよ」
「やだ…」
「なんで?」
「やだ!おこってなんかない!ないたりもしない!」

ひなちゃんはキッとそうを睨みつける。
自分の中で段々大きくなっている暗い影。
それを抑え込むために胸の前でギュッと手を握る。
空から来たと言う目の前の生き物が自分の中の何かを壊しそうで遠ざけたかった。

「ぼくにちかよるな!」
「ないたことだれにもいわないよ」

そうはそっとひなちゃんの顔を手で拭ってあげた。

「ぼく、ないたの…?」
「うん」

茫然と立ち尽くすひなちゃんに頷いた。
そしてぎゅっと抱きつく。
姐さん達にこれをするとみんな嬉しがってありがとうと笑って言ってくれる。
ひなちゃんにも笑って欲しかった。

「…ぼくは……しんぞうがわるいんだ」

心臓は幼いそうでもとても大事な部分だと知っている。
それが悪いと聞いてまさか死んじゃうのかと不安になった。

「な、なおるの?」
「なにもかもがうまくいけばなおる。だけど…」
「だけど?…なおさないの?」
「べつにぼくのかってだ」

パッと、そうがひなちゃんから離れた。
そして怒った。
涙をポロポロ零しながら叫んだ。

「なんでなおるのになおさないの!?」

ひなちゃんはそうが泣いた事に動揺しながらも勝手な事を言うなと心の中で 思った。
だが…。

「がんばればなおるんでしょ?ママはね、ママはね、がんばってもなおらないんだよ」

そうはわーっと泣き出す。
今日お見舞いに行った店のママはもう手術しても手遅れな状態だと 姐さん達が話している際に偶然聞いてしまったのだ。
それはそうに大きなショックを与えた。

そうの涙が零れるたび陽に当たってキラキラと輝いている。
ひなちゃんはそれに魅入った。

「ひかりがあふれる」

そうの頬に流れる涙を口で拭った。
とても神聖なものに感じその光を丁寧に舐め取っていく。
ひくっとしゃくりあげたそうは赤い目でまっすぐひなちゃんを見た。

「いきて」

その言葉にひなちゃんの心が震える。
いつの間にか巣食っている闇がそうという光に祓われていく。

「いきて、いきて!」
「…うん」

生きるよ君の為に。
君だけの為に。
ひなちゃんはそうを抱きしめる。

「ひなちゃんいいにおいがする」
「におい?」
「うん。ひだまりのにおいがする」

まさか自分からそんな陽光の匂いがするなんて思ってもみなかったひなちゃんは顔を 綻ばせた。
その笑顔にそうの心が奪われる。
頬を紅潮させながら何てかわいいんだろうと見惚れてしまった。
生きると決心したその強さがひなちゃんを輝かせている。
ドキドキとそうの心臓がおかしくなってしまった。

それが恋だと知るのは姐さん達に聞くまでまだ少し時間が必要だった。








懐かしい夢を見た。
完全に覚醒していない蒼夜は夢と現実の狭間でたゆたう。
夢うつつにうっすらと目を開けると光と共に明るい茶色の髪が見えた。
そこにひなちゃんがいると思い嬉しくてほほ笑みながら手を伸ばした。

「ひな、ちゃ…ん」

だがひなちゃんから何も反応がない。
蒼夜はもう一度名前を呼ぶ。
そして近づこうとしたが身体が鉛のように重く動けなかった。
特に下半身にひどい鈍痛が襲う。
やがて虚ろだった目は完全に閉じてしまいまた眠りに付いた。

若干顔色が悪いものの規則正しく呼吸を繰り返している蒼夜を声も無く驚愕したまま見つめる 比奈山の姿がそこにある。
乱暴したせいでいつの間にか蒼夜から黒ブチメガネは外れていた。
その黒ブチメガネは比奈山の手の中にあり無意識にそれをギュッと握りしめる。
緊張した声帯が言葉を詰まらせたがそれでもその名を口にした。

「そう…ちゃん?」

ゆっくりと手を伸ばし蒼夜の頬に触れる。
親指でそっと目元を撫でた。




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