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比奈山がバスタオルと着替えを持って脱衣所に入ると浴室から シャワーの音と一緒に鼻歌が聞こえてくる。
即興で作ったようなメロディだが所々外れているのが分かってクッと笑いが漏れた。
その笑った姿が鏡に映ってハッとする。
それは自然な自分の姿だった。
学園では己の内にいる禍々しく暴れ狂う獣を隠すように穏やかな笑みをした偽りの仮面を被り 過ごしていくはずだった。
比奈山の本性を知っている者は何人かいるがそれでも長い付き合いのある者たちで身内も含まれている。
蒼夜は初対面の時に比奈山の本質を見破った。
分厚いレンズ越しから強い視線が比奈山に注がれる。
それは比奈山の表面ではなく奥深くを見られているようで思わず己の獣がザワリと目覚めた。
蒼夜の前では比奈山陽一を演じる必要がなかった。

過去に両親でさえ気付いていなかった比奈山の内をさらりと簡単に見破った子がいた。
その子がいなかったらきっと比奈山は生きていなかっただろう。
キラキラと輝く宝物のようなその子との幼い頃の記憶は今も胸の奥で息づいている。
愛おしげに懐かしんでいた比奈山だったが部屋にチャイムが鳴り現実に引き戻された。
寮室のドアを開けると。

「おや、霧島君」
「あ、突然ごめんなさい。蒼夜いますよね」

息を切らしている霧島の手にメガネケースが握られている。
それを見ただけで状況をすぐに理解した比奈山はいつもの穏やかなほほ笑みを霧島に向けた。

「それ、蒼夜に渡せばいいのかな」

手を差し出している比奈山に霧島は戸惑った。
きっと比奈山にメガネを手渡すのは蒼夜的には良くないだろう。

「え、いえ。僕から蒼夜に手渡したいので。それに無事な姿も見たいし…」
「今蒼夜はシャワーを浴びているよ。どうぞ」

中へ促されホッとした霧島はリビングに通された。
そして真剣な面持ちで比奈山を振り返った。
無意識にメガネケースを握る力が込められる。

「比奈山君。今の状況は?」
「澪姫の他の取り巻き達を笹川君に張らせているよ。捕まえた取り巻き達に関しては騎士団が 取り調べている」
「そうなんだ」
「と言っても少し時間が掛かるかもしれない」
「え?」
「加害者達が皆、気を失っていてね。目覚める時間が必要だから」
「…気を失っている?」

霧島が知っている情報は蒼夜が取り巻き達に襲われて負傷をしたという事だけだ。
蒼夜の強さを知っている霧島は負傷はわざとした可能性が高いと思っていたが万が一という事も あるので蒼夜自身の状態を自分の目で確かめたかったのだ。
まさか加害者が気を失うほどの何かがあったとは思いもしなかった。
もしかして気を失わせたのは…と前回の田中の時の騒動を思い出し嫌な推測が霧島の脳内を 掠めた。

「一体何をして何が起きたのか本人達に聞かないとね」
「あの、蒼夜は何て言ってるの?」
「まだ蒼夜からは何も聞いてないよ。傷の手当をして落ち着いてから聞こうと思っている」

比奈山は浴室の方へ視線を霧島から移した。
ああ、何事もなく終わりますようにと霧島は願うしかない。
その時再びチャイムが鳴った。
比奈山が玄関へと向かいドアを開けると沖津の姿が現れた。
沖津は騎士の礼を取る。

「比奈山副会長。二宮騎士団長が生徒会の方々をお呼びです」
「生徒会メンバー全員となると何か分かったのかな。すぐ行くと言いたい所だけれど蒼夜の手当が あるからね、沖津先輩は霧島君の護衛を頼みます」
「白姫はこちらにいらしたのですね。承知しました」
「という訳だから。霧島君」

リビングから顔を出して様子を窺っていた霧島に行くように促す。
しかし霧島の手には未だメガネケースが握られており蒼夜は浴室から出て来てない。

「僕も後から行きます。蒼夜に会ってないし…」
「霧島君」

副会長としての比奈山の声に書記の霧島は是と言うしかなかった。

「分かりました。でも一言声を掛けてから行ってもいいでしょう?」

それに比奈山は頷き、霧島はノックをして脱衣所に入る。
音が外れている鼻歌が聞こえてきて思わず小さく笑いながら扉越しから声をかけた。

「蒼夜」

ピタッと歌が止まると勢いよく扉が開かれる。
蒼夜は腰にタオルを巻いている状態で顔を出して破顔した。

「葵!」
「約束のもの持ってきたよ」
「おおお、ありがと!」
「色々話を聞きたかったんだけど招集がかかってしまって行かなくちゃいけないんだ。 ここに置いておくから」
「うん」

蒼夜はバスタオルを頭から被り浴室から出た。
そんな蒼夜の上半身に目をやった霧島は顔を顰めた。

「痣が出来てるね」
「こんなの何ともないって」
「綺麗な肌なのに」

そう言って霧島の指が優しく痣をなぞった。
ハハッ綺麗ってなんだよと蒼夜は笑う。

「くすぐったいって」
「ああっ、ここにも、ここにも。蒼夜の肌に痕をつけてもいいのは竜司だけなのに」
「…は?」

蒼夜はそれってどういうことですか?葵サン?と顔を引き攣らせた。
そしてふと気配を感じた蒼夜は顔をそっちに向ける前に慌ててメガネを装着する。

「霧島君。そろそろいいかな」

いつの間にか脱衣所の入り口に比奈山が立っている。
穏やかに笑っているというのに機嫌が悪いような気がした。
霧島は一つ溜息を零して蒼夜を見上げた。

「じゃあ、蒼夜」
「うん。これ持ってきてくれてありがとうな」

蒼夜は装着したメガネを指差した。
頷いた霧島は脱衣所を出て行き騎士団本部へ沖津と共に向かった。




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