25




比奈山の気配に気付けなかった蒼夜は胸中で舌打ちする。
メガネは壊れていて今はポケットの中だ。
顔を上げる事が出来ない。
立ち上がる事も躊躇われる。
四つん這いの格好のまま動かない蒼夜に怪訝な顔をした比奈山は
しゃがんで蒼夜の肩に手を置いた。

「蒼夜?」

比奈山は蒼夜の顔を見ようと手で上げようとする。
くっそー万事休すと下を向いている蒼夜は後ろから沖津が段々と近づいてきている事も 感じ取っていた。
蒼夜は決意する。
平穏な学園生活の為にと己に言い聞かせて。

「……っ!?」

比奈山は蒼夜が急に取った行動に驚き固まった。
蒼夜が比奈山の肩口に顔を埋めるようにして抱きついたのだ。

「…蒼夜」
「陽一、俺、寮に帰りたい」

ボソリとそう告げる蒼夜は背に腕を回して抱きついたまま離さなかった。
そんな蒼夜の格好をよくよく見てみれば制服はところどころ土で汚れている。
何があったかはだいたい想像が付くが腑に落ちない点もある。
だがこうして蒼夜が抱きついているのは不快ではなかった。
もしもこれが他の誰かなら瞬時に引き離していただろう。
比奈山はそっと優しく手を蒼夜の背に当ててそのまま抱き上げた。

男にしかも同級生に抱き上げられるなんて屈辱だったが蒼夜はグッと堪えた。
比奈山や他の生徒達から顔を見られないように寮に行くにはこの方法しか思いつかなかったのだ。
蒼夜を抱えて比奈山が歩き始めるとすぐに沖津が二人を見つけた。

「塚森君、大丈夫か?」

蒼夜は顔を比奈山の肩に埋めたままコクリと頷く。
蒼夜の格好に何があったか判断した沖津は眉を寄せた。
そして生徒会副会長である比奈山に騎士団員の沖津は自分が蒼夜を運ぶ事を申し出た。
しかしそれを比奈山は断った。

「彼は俺が運びます」
「分かりました。俺は西原副団長に報告してきます」

沖津は胸に手を当て礼をした後、早足で立ち去った。
蒼夜は沖津の申し出を断った事に内心少し驚きつつもその方が良かったのでホッとした。

「怪我は?」
「大丈夫…」

耳元で蒼夜を気遣った声がした。
怪我といっても擦り傷や青痣くらいなものだ。
骨が折れたわけではない。
前の学校にいた時は日常茶飯事だったので気にする事もない。

「念のため保健室に行こう」
「い、いやだ!寮に帰る!」

蒼夜は慌てて拒否した。

「だが…」
「寮に帰る」

小さい子が我がままを言うように蒼夜はぐりぐりと比奈山の肩に額を押しあてた。
フッと笑みをこぼした比奈山は蒼夜の黒髪を撫でて分かったと頷いた。
抱き上げられたまま蒼夜はこの後どうするか考えていた。
とりあえず自分の寮室まで運んでもらったら自分の部屋に駆け込んで机の中にあるスペアのメガネを 装着しなければならない。
色々シミュレーションを頭の中でしていた蒼夜は噴水の広場に出る所で比奈山のブレザーを 頭から被せられた。
その途端、ふわりと香る匂い。
蒼夜の大好きな春の陽だまりの匂いがした。
抱きついた時点で比奈山からその匂いはしていたがいくら好きな匂いだからと言ってスンスンと あからさまに嗅ぐのもおかしいので我慢していたのだ。
だが周囲の目からシャットアウトしている今なら思いっきり堪能できる。
何より比奈山本人に気付かれないという事が重要だった。

騎士団員達が野次馬の生徒達を追いやっている中、沖津と笹川を伴って比奈山は蒼夜を抱きかかえたまま 寮へと向かった。
学校から出た比奈山は隣に並んでいる笹川に視線は前を向きながら口を開いた。

「後は頼みます」
「はい」

後を付けている気配。
その者の動向を探るため笹川は自然にその場を離れた。
入れ替わるように後ろにいた沖津が比奈山の隣に来た。

「沖津先輩」
「いましたね。あの場に。ご本人が動いたとなるとあともう少しですか」

けして大きくはない声で二人は言葉を交わす。
沖津が西原に報告している時、中庭の出入り口付近にいた複数の生徒達の中に澪姫もいたのだ。
口元に冷笑を浮かべながら。
しかし比奈山が蒼夜を抱きかかえている姿を見て澪姫の顔が一瞬にして怒りと嫉妬に染まった。
ブレザーで蒼夜を隠しているが澪姫には誰だか分かっただろう。
自らが取り巻き達に痛めつけるように命じた相手なのだから。








「蒼夜、寮に着いたよ」
「ありがと」

ブレザー越しに比奈山の声がして寮に着いた事に安堵する。
降ろしてもらおうとしたがなぜだかそのまま運ばれる。

「陽一、降ろして」
「分かった」

ゆっくりと降ろされた場所はソファーらしいが何か質感が違う。
蒼夜の寮室に身体を包み込むような上質なソファーはなかった。
ブレザーの隙間からみた光景に絶句した。
なぜならここは…。

「何で陽一の部屋なんだよ!?」
「寮に帰りたかったんだろ?」

二人っきりのせいか比奈山の口調が素のままになった。
だが蒼夜はそんな事はどうでも良かった。
重要なのはスペアのメガネが付けられないという事だ。

「俺帰る!」
「ダメだ。状況を把握してからでないと今動くのは危険だ」

比奈山の言ってる事は分かるが蒼夜はとにかくメガネを付けに戻りたかった。
かろうじて今はブレザーで顔を隠している状態だ。
そんな蒼夜の目の前に比奈山が屈んだ気配がした。

「それをどけろ。蒼夜」

無理っだつーの!と心の中で罵倒する。
さあ、どうすると頭をフル回転させて考えるがやはり何一つ解決策が見い出せない。

「いやだ」
「蒼夜」
「いやだ!」
「なぜ?」
「理由は聞くな。男ならスルーして下サイ」

フウッと溜息が聞こえてきた後、手にヌルッとした感触がした。
えっ?と思っているとまた同じ感触が反対の手にもした。

「擦り傷があるな」
「おまっ、いいい今っ」

舐めたのか!?
言葉にならず蒼夜が固まっている間に比奈山は救急箱を持ってきた。

「蒼夜がそのままだと手当が出来ない」

無理矢理奪うようにブレザーを剥ぎ取ろうとするが蒼夜も抵抗する。
身を縮こませながらうーと唸っている蒼夜に比奈山は肩を竦めた。

「分かった。見ないから、せめてシャワーを浴びろ。泥だらけだ」

確かに蒼夜の制服は土にまみれていて汚れている。
きっと顔も汚れているに違いない。
蒼夜は強引に押しこまれるように浴室に入れられた。
そしてドアが閉められた。
それを確認するとポケットから携帯を取り出しある人物に掛ける。

『蒼夜!?大丈夫なの!?』
「あー大丈夫」
『怪我は!?』
「全然ない」

擦り傷や青痣はあるが蒼夜にとってないにも等しい。
母親のように心配してくる葵にククッと笑いが零れた。
しかしムッとした声で怒られる。

『蒼夜の事連絡受けてビックリしたんだからね!』
「悪い悪い。葵、今どこ?」
『僕は今、第三等寮の前にいるよ』
「お、ちょーどいいや。お願いがあるんだけど、俺の机の中にメガネが入ってるからそれ持って 届けてくれない?」
『いいけど、どこに?』
「陽一の寮室」

陽一と聞いて霧島の表情が硬くなった。
携帯越しの蒼夜はそんなこと知る由もなく。

「今、陽一に拉致られてんの。しかもメガネを澪姫の取り巻き達に壊されてすっぴんの状態なわけ。 あいつに俺の素顔見られたら終わりだからさ、スペアのメガネ持って来てほしいんだけど」
『分かった!すぐ探して持って行くから待ってて!』

頼もしい霧島の言葉に逃げ道が見えた蒼夜はヨシッと拳を握った。
風呂など入る気がなかったが何となく第一等寮の浴室に興味があって鼻歌交じりで扉を開けた。

「…マジかよ」

広々とした浴室は清潔な白のタイル張りでデザインライトに照らされて眩く光っている。
しかも同じく白の湯船は足付きだった。
第三等寮の蒼夜達は二人で一つのユニットバスだっていうのに。
無性に腹立しくなってきた蒼夜は服を脱ぎ捨て泥まみれの身体を思う存分この綺麗で広い 浴室で洗ってやろうとニイッと笑った。




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