小さい頃、やわらかい春の光の中で儚げな美少女と約束をした。

『ひなちゃんはそうがまもってあげる。だからがんばって!』
『そうちゃん…』

生まれた時から体の弱いひなちゃんは明るいふわふわした茶色の
髪を春風に揺らしながら顔を少し赤らめてほほ笑んだ。

『うん、がんぱる。くすりもがまんしてのむね』
『やくそくだよ』

小指をからめて指切りげんまんをした。

『ひなちゃん、げんきになったらけっこんしようね』
『そうちゃんと…けっこん?』
『いや?』
『ううん、そうちゃんとけっこんする!』

照れ笑いしながらまた指切りげんまんをした。














いつもと変わらない冬の寒い朝。
2kのボロアパートのキッチンで“後5センチ〜”と念じながら身長175
センチの月岡蒼夜は牛乳パックを勢いよくラッパ飲みしていた。
すると後ろからスパコーンっと頭をスリッパで殴られ口から牛乳が
ブハッとあふれ出る。

「てめー!何すんだよ!」
「あああん?コップで飲めと言ってんのにお前の頭はいつ学習すんだ
ボケがっ!」

金剛力士のごとく迫力のある蒼夜の母、月岡レイ子は息子の脳天から
スリッパを振り落としたが蒼夜は間一髪避けた。

「息子を殺す気か!?」
「あのくらいの攻撃を避けられなくてどうする!」

しまったと蒼夜は思った。
レイ子の目が据わっている。
元ヤン魂に火が付いてしまった様だ。
若い頃やんちゃをしていたレイ子はそれはもう容赦がない。
朝から余計な体力を使いたくはないので誤魔化すものがないかと
考え、そして気づく。

「あれ、何でこの時間に起きてんだ?」

月岡家は母子家庭でレイ子は水商売をして蒼夜を育ててきた。
夜の蝶はこの時間起こしたって起きないのに…というか眠っている
虎を起こすような真似はしないが。
しかも上から下を見れば夜の衣装とは違い落ち着いたスーツを
着ている。
はて?と首をひねる。
何かあったか?

「私、結婚するから」

幻聴が聞こえた。

「今なんつった?」
「だから結婚するっていったの」

蒼夜は結婚と心の中で反芻した。
生まれる前からすでに父親という存在はなく蒼夜が生まれてから
16年、今日まで結婚という言葉をレイ子の口から聞いた事が
なかった。
16の時に蒼夜を産んでレイ子は今32になる。
高校生の子供がいるとは思えないほどのナイスプロポーションと
美貌だ。
男がほっとく分けはないだろう。

「…で相手はどこの資産家だ?今にも死にそうな爺か?」
「アンタ、私をどこぞの悪女みたく言うんじゃないわよ」
「いでででで」

思いっきり耳を引っ張られた。

「普通のサラリーマンよ。塚森正芳さん、36才。今日、家に来るから」
「今日、来んのかよ!?」
「苛めたら承知しないからね」

ちょうどその時チャイムが鳴った。
はいはーいとレイ子は玄関に向かう。
蒼夜は複雑な心境になる。
母親をまだ見ぬ男に取られたという事ではなくこの暴力破壊的な
女王様とうまくやっていける男なのか。
結婚して即離婚にでもなったらレイ子の怒りの矛先は蒼夜に来ること
間違いなし。
想像しただけで疲れてしまった。
ハア、とため息を吐いていると玄関に中年くらいでスーツの上に
コートを着ている男がいる。
誰だコイツと見ているとレイ子に蹴りを入れられた。

「正芳さんにガン飛ばしてんじゃないわよ」
「き、君が蒼夜君だね」

脛を蹴られて思わずしゃがんで痛みを堪えていると頭上から遠慮気味
に声を掛けられる。

「え、あんたがレイ子の相手?」
「初めまして、塚森正芳といいます」

ジッと男を観察する。
中肉中背の普通な容姿で目立つ所がない。
だが柔和な感じを漂わせている。
正芳は手土産の紙の箱を前に出した。

「プリン買って来たんだよ」

蒼夜は唸る。
考えれば考えるほど分からない。
なぜこの男をレイ子は結婚相手に選んだのか。

「そ、蒼夜君…プ、リン」

蒼夜は唸り続けた。
まったく分らない。

「威嚇すんじゃないわよっ!」

レイ子の回し蹴りが蒼夜の後頭部にヒットして額が床にズゴンッと
強打する。

「てめぇー、さっきから何度も蹴りやがって!」
「あ〜ら、私とやろうってーの。上等、かかってきな!」

蒼夜の拳とレイ子の蹴りがお互いを狙って宙に繰り出された時、
思わず正芳は二人の間に割って入った。
ドターンと大きな音を立てて正芳がひっくり返る。
レイ子が慌てて駆け寄る。

「正芳さんっ」

あー、結婚の話しがなくなるかもと蒼夜は顔をしかめながらレイ子が
正芳を助け起こすのを見ていた。
蒼夜もレイ子も咄嗟に攻撃を緩めたのでそれによる怪我はない
だろう。
しかし正芳は俯いたままハラハラ涙を零していた。

「どこか痛いの!?」

レイ子が慌てて正芳の身体を確認する。

「…ンが」
「どうしたの!?」
「プリ…ンがっ」

プリン?
蒼夜が足元を見るとプリンが甘い匂いを漂わせてグシャグシャに
なっていた。

「みんなで食べようと…思っ、蒼夜君、ごめ…っ」

なぜ謝られたのが分からない蒼夜は首を傾げた。
どっちかと言うなら謝るのは自分の方だ。

「えーと、こっちこそごめんなさい」

正芳はガバッと顔を上げまだこぼれ落ちる涙をそのままに頭を
振った。

「蒼夜君がプリン大好きだと聞いて食べさせてあげたかったんだっ。
 父親となるのにこんな、なさけないっ」

ちょっと待て、プリンが大好物なんて言った覚えがないぞとレイ子を
見てみれば般若の形相をした恐ろしい母の姿が。
本能で死の危険を感じ取った息子は正芳の傍に行って手を取った。

「プリンがなくても僕はお父さんのその心使いが嬉しいですっ!心は
プライスレス〜!」

何だこの芝居はと顔が引きつったが正芳に力強くギュッと手を
握られる。

「そ、蒼夜君!僕のことお父さんって呼んでくれた!レイ子さんっ
蒼夜君がお父さんって」

感極まった正芳はさらに涙を流しながらレイ子に抱きついた。
レイ子は良かったわねーと言いつつ背中を擦ってあげる。
あー、と何となくレイ子が正芳を選んだのが分かった気がした。
大人にしては純粋で小動物のような正芳に心が癒され守ってあげたい
と思うのだろう。
まあ、どんな理由にしても二人が幸せであるなら…自分にとばっちりが
来なければ良いのである。
二人の邪魔にならないようにそそくさと学校に行くことにした。




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