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「ご主人様、もう少しお召し上がりになって下さい」
「え……あ、うん」

セバスさんがいなくなって数日が経った。
そして、この数日の間でヴァンスターさんはセバスさんと同じくらい優秀な執事だという事が良く分かった。
膨大な屋敷の情報やセルファード家に関わる全てを引き継ぎ、そつなくこなしているのだ。
もちろん俺についても把握済みだ。
目の前には大好きなフルーツのタルトが用意されている。

「……」

でも、一切れの半分しか食べれなかった。
どうもそれ以上は進まない。
いつもなら、タルトの他にいろんな焼き菓子を頬張るところだけど、もうお腹一杯だ。

「ジュリー、俺の分もあげるからたくさん食べるんだぞ」
「うん!」

口にクリームを付けておいしそうに食べているジュリーにお菓子を勧めると、キオに叱られた。

「ご主人様!タルトだけでもいいですから全部食べて下さい」
「ほら、まだ昼ご飯が胃に残ってるんだよ」
「昼食だってあまり食べなかったじゃないですか!」
「うっ……。ジュリー、キオが怒るよ〜」

ジュリーは眉間に皺を寄せて俺を庇ってくれた。

「おにいちゃん、おとーさんをいじめちゃだめ!」
「ご主人様、ジュリーを味方につけるなんて」
「ふははは」

ヴァンスターさんと初めて会った日の午後にジュリーと久しぶりに会う事が出来た。
ジュリーは俺と会えたのがよほど嬉しかったのか、会うたびにべたっりくっついて離れない。
その上、色々な面で味方になってくれる。

「ジュリー、キオの入れてくれた紅茶おいしいな」
「うん!」
「そ、そんな事言って、騙されませんからね!」

顔は怒っているのに、キオのシッポが左右に激しく振られている。
ニヤつくのを我慢しているとヴィーナがジュリーを呼びに来た。
修行の時間らしい。
俺も一緒にしたいなぁ。
そう思っていても相変わらずジルの部屋から出られないから無理なんだけどな。
はりきって修行に行くジュリーを見送り、キオが入れ直した紅茶を飲んだ。

「本当に下げてしまっていいのですか?」
「うん。ブレーズさんには悪いんだけど」

耳がペションっと垂れたキオがお菓子を片付けている光景を見ていると、だんだんうとうとし始めて来た。
なんだか最近、いきなり眠くなるんだよなぁ。
前まではそんな事なかったのに。
ずるずるとクッションを抱えながらソファーに倒れた。
横になり、キオの手によって、ローテーブルからなくなっていくお菓子を見つめた。
そして最後に俺が飲んでいた紅茶のティーカップだけが残される。
そういえば……眠くなるのって、いつも紅茶を飲んだ後じゃなかったっけ?
セバスさんがいた時も眠くなった事があったけど、確かその時も紅茶を飲んでいた気がする。

「キオ……あのさ、紅茶に何か……眠くなるもの入れてたりする?」

目を瞑っている状態で聞けば、キオではなく、重みのある低い声が答えた。

「いいえ。そのような類のものは入れておりません」
「……ヴァンスターさん?キオは?」
「キオは食器を下げに行っています」
「どうして……俺、すごく……眠い……」
「リラックス効果がある茶葉を混ぜています。聖司様は元は人間ですから効き目が強く出ているのかもしれません。害があるわけではないのでご心配なさらないで下さい」

今でも人間だよと突っ込みたかったけど眠りの世界の入り口に一歩踏み出してしまっているので声にならなかった。
そのうち、失礼しますと言われて身体が浮遊した感覚がした。
なんだかとても気持ちがよくて、完全に身を任せて俺は眠りに付いた。








身体を揺すられて目が覚めるとキオが眉をハの字にして俺を覗き込んでいる。

「お休みのところ申し訳ありません」
「……キオ?どうした?」

上半身をベッドから起こすと、夕飯の時間だと告げられる。
普段だとそのまま寝かせておいてくれるのだが、最近俺の食が細い事を気にしているらしい。

「料理長がとてもおいしそうな料理を用意してくれたんですよ!」

キオは俺を何とか隣の部屋に誘導しようと言葉に力を込める。

「ジュリーもいるんです!」
「ははっ、分かったよ。顔を洗って行くからキオは先に行ってて」
「はい!」

若干ぼんやりしている頭をすっきりさせようとバスルームに行った。
蛇口を捻り、冷たい水を出す。
何回か顔を洗ってタオルで拭き、鏡に映った己を見て溜息が洩れた。
そこに、まるで病人みたいな覇気のない顔をしている自分がいた。
これではキオに心配されてしまうな。
いや、もうされているのか。

「気持ち……切り替えなきゃな」

落ち込んでいてもセバスさんはこの屋敷に戻って来ないんだから。
はぁ、と溜息を吐いて……洗面台の縁を強く掴んで頭を勢いよく振った。
そして頬を両手で挟むように強く叩く。

「よし、まずはご飯を食べに行こう」

食欲を戻して、身体を鍛える。
今俺に出来る事をしよう。
エドに会って修行を再会してもらわないとな。
さて、エドの屋敷へ繋がっている転移鏡をどうやって使うかだ。
あれは俺の部屋にあるしな……。
ジュリーと一緒に夕ご飯を食べながらあれやこれやと考えている俺をキオが強い眼差しで見ている事なんて気付きもしなかった。
夕飯の後、ヴィーナから今日はジルが帰って来ないと聞かされ、久しぶりに一人での就寝となった。
寝るにはまだ早かったけどする事もないので天蓋付きの大きなベッドでゴロゴロと転がっていた時、ノックの音がして返事をした。

「はい」
「あの、ご主人様」
「キオ?」

ベッドから下りてドアを開けるとキオがするりと中へ入って来る。
両手に布に包まれた大きな何かを持って。
キオはベッドにそれを置き、振り返った。

「僕としては、とてもとても不本意なんですけど」
「キオ?」

なぜかとても嫌そうな顔をしているキオは自分が持って来たものから布を取って見せた。
それは――。

「転移鏡じゃないか!」
「はい。アートレイズ公から送られてきたものです」

俺は思わずキオを凝視した。
するとキオは手を前で握って俺を真っ直ぐ見る。

「ご主人様に元気がなくなって、どうしたらいいか僕なりに考えたんです」
「キオ……」
「それに、ずっとこの部屋に閉じ込められている状況はご主人様にとって良くないと思います。もしも、あの失礼なやつでもご主人様が元気になるんだったらお話し相手になる事を許してあげます。きっとアートレイズ公の修行も良い気分転換になると思うんです」

キオが言う失礼なやつって、もしかしなくてもユーディだな。
俺は笑いながらキオを抱きしめた。
お礼を言うとシッポを左右に振っているキオに、いつでも好きな時に転移鏡を使う事は出来ないと注意を受ける。

「セルファード公の部屋に転移鏡をずっと置く事は出来ません」
「うん。見つかる可能性が高いもんな」
「それと先生の目が厳しいのでそれも掻い潜らないと」
「先生?」
「あ、えっと」

キオはヴァンスター先生です、と俺を窺うように見てきた。
先生とキオが呼んだ事で俺はもしかしてと思って質問した。

「ヴァンスターさんってヴァルタだったりするのか?」
「はい、そうです」
「じゃあ、ジル専属のヴァルタでもあるのか?」

その問いにキオは否定した。
セルファード家に仕える執事だけど、ジルのヴァルタではないという事だった。
その辺の契約が今後どう変化していくかはキオには知らされていないらしい。
ゆくゆくは専属になるのだろうかと思いつつ、俺はキオから見たヴァンスターさんの事を聞いた。
キオは白のヴァルタで、本来の黒のヴァルタとは違い、差別を同族から受けていた。
セバスさんはキオの色など一切気にせず、一人前のヴァルタにしようと教育をしてきた。
だからキオは自分を導いてくれるセバスさんの事を慕って先生と呼ぶ。
セバスさんの代わりに来たヴァンスターさんは初老のセバスさんよりずっと若く、魔族の実年齢は分からないが見た目は30代前半くらいで落ち着いた大人の雰囲気を感じる。

「ヴァンスター先生にはとても良くしてもらっています」
「そっか」
「はい。先生とはまた違う厳しさもあって、でも毎日覚える事が楽しいです」
「キオにとって良い先生なんだな。屋敷の人達は何か言ってたか?」
「皆さんからは好意的な意見しか聞いていません。まず、先生と同じ仕事量をこなしているというだけで凄い事ですから」

ヴァンスターさんと屋敷の人達の関係がうまくいっていて良かった。
それにキオも。

「もしかして、セバスさんがヴァンスターさんを連れて来たのかな?」
「そこまでは僕には分かりません。ヴァンスター先生と初めてお会いしたのは先生から引き継ぎをしてる時です。お二人の間によそよそしい感じはなかったので元々お知り合いなのかもしれませんね」

俺が頷き掛けたその時。
ノックの音とヴァンスターさんの声が聞こえてきた。
俺とキオは、ハッとした顔をして慌てて転移鏡をベッドの中に隠した。

「失礼致します」
「ヴァ、ヴァンスターさんどうしたの?」
「ご様子を見に来たのですが」
「大丈夫だよ。えっと、キオに話し相手になってもらってたんだ」
「そうですか」

ヴァンスターさんの切れ長の黒い瞳が瞬きすることなく俺を見つめる。
何だか隠し事を見透かされているような気分になってきて、心拍数が速まり、何か話題がないものかと考えて口を開いた。

「あのっ、ジルは明日帰って来るんですか?」
「ジハイル様でしたら、明日の昼前にお戻りになられるかと」
「そうですか」

ふむ、明日の昼前か。
いや、ジルの事だ。
朝帰って来る可能性もあるな。
ん?
ヴァンスターさんの視線を感じる。

「ヴァンスターさん……あの、何か?」
「いえ、団らん中失礼致しました。もし寝付けないようであればお呼び下さい。紅茶をご用意しますので」

一礼したヴァンスターさんは退出して行った。
紅茶って、あれだよな……リラックス効果のあるやつ。

「俺は元じゃなくて今も人間だ」
「ご主人様?」
「いや、何でもない。さて」

妙な緊張感から解放された俺はベッドから転移鏡を出した。

「キオ、俺はこれからエドの所へ行って来る」
「はい。ですが」
「分かってるよ。誰もいなかったからすぐ戻って来るし、遅くても数時間で戻って来るから。早く帰って来たジルに見つかったら大変だもんな」

それこそ、部屋の中を自由に動けている軟禁から手足を鎖で繋がれて自由の全く無い監禁にグレードアップしそうで怖い。
乾いた笑いをしていると、俺と同じ事を思ったのか青褪めているキオが、数時間ですよ、と念を押して来る。

「もし、俺がエドの所に行っている間に何かあったら誤魔化してくれよ」
「がんばります」

頷いて、キオから渡された小ビンを受け取り、鏡に血を掛けて中に入った。




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