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東妙寺は、鎌倉時代弘安元年(1278年)元寇に際し、後宇多天皇の勅願によって、唯円上人が創建。

真言律宗(真言宗 西大寺派) 宝朱山 東妙寺

 

お寺に保存しています八つの仏様

八つの仏様

 ◎ 片目の仏様
   片目がえぐられて、こわい顔の仏様です。子供達は、怖がって寄りつこうともしません。実は、長い年月のう
  ちに、ネズミがほじくったので、こんなになってしまわれたのです。700年前に、後宇多天皇様と亀山上皇様
  の命をうけて、東妙寺をつくられた唯円上人様のお像です。座禅を組んでおられまして、座高73pです。
   お墓は、石塔院の境内の真ん中にあります。

 ◎ 行方不明の仏様
   4人揃って1組の仏様たちなのですが、いつの頃からか持国天と増長天が行方不明になってしまわれました。
  ですから今では、取り残された多聞天と広目天のお二人が、寂しくお友達が帰って来られるのを「まだか  
  まだか」と待っておられるのです。多聞天は、毘沙門様とも言われる二つの名前の仏様です。ともに身の丈
  120pです。

◎ 月光仮面の仏様
  170pの仏様2体並んで立っておられます。昔は、月光菩薩・日光菩薩と言われておりました。月光仮
 面のような仏様ですが、近頃では「十一面観音様」と言われております。お顔が11あった仏様ですが、今
 は、壊れてしまって真ん中の1つしかありません。

◎ 左甚五郎の仏様
  江戸時代の寛永年間(350年前)の名工に、日光東照宮の陽明門の「眠り猫」を掘った左甚五郎さんが作っ
 たと伝えられる大黒様がおられます。二つの大きな米俵にまたがって、左手で左肩に大きな袋を背負い、右
 手に木槌を持って大笑いしておられる、50pの仏さまです。

◎ 夜泣き太子様
  両手が肩のところから、ちぎられておられるけれども、とても可愛い仏様がおられます。2歳か3歳くら
 いの子供のように、あどけない仏様です。身の丈66pの、それはそれはとても可愛いらしい仏様です。
  17条の憲法のあの聖徳太子様の子供の頃のお像です。稚児太子様とも言われますが、「夜泣き太子様」
 の異名で呼ばれる仏様です。でも自分は夜泣きされるのではありません。この仏様にお参りして掛けておら
 れる「胸かけ」をお借りして夜泣きする子に掛けてやると夜泣きが止むというのです。もちろん、その時、
 替わりに新しい「胸かけ」をお掛けすることを忘れてはいけません。だから、いつも「胸かけ」が替わりま
 す。この前は赤いのをしておられたかと思うと、今度は黄色のものをしておいでになるのです。今は「みど
 り」かな?

◎ 蹴ころがされた仏様
  東妙寺には、大きな大人ほどの仁王様のような仏様がおられます。それは、今から600年位前の南北朝
 の頃の事です。北朝方の大将に足利尊氏という人がいりましたが、征西将軍かねなが親王と戦って、南朝方
 の東妙寺を攻め滅ぼしてしまいました。その後、尊氏は、今度は東妙寺に五重の塔などを建てて復興させま
 した。尊氏は、お寺の和尚さんや小僧さんたちを集めて「お寺を立派にしてやったから、今度は私が成功す
 るように、お祈りしてくれ。そのためには私の姿を刻んでお寺に祭っておくれ。」と言ったそうです。
  ところが、今から200年前に、東妙寺にお参りに来た高山彦丸朗という人が、その像を見て「何だ足利
 尊氏か。きさま国賊のぶんざいで、勅願寺の東妙寺の本堂の片隅でも汚すとは、ふとどき千万、こうしてく
 れるワィ」と尊氏の像を前庭に蹴落としてしまったそうです。やがてコケが生え、草が生い茂って、尊氏の
 像は見る影もなくガサガサになってしまいました。
  今は東妙寺の収納庫の中の横壁に寄っかかって、収まっております。

◎ 重たくなった仏様
  700年前、東妙寺には、三つのお寺がありました。一つは東妙寺、一つは尼さんたちが居た妙法寺、今
 一つは、三親王と東妙寺の唯円上人のお墓のある吉野ヶ里の石塔院です。
  江戸時代のことです。妙法寺に尼さんが住まなくなったためか、解体することになりました。その時、お
 観音様を何処にお移ししようか、何処にお祭りしたらよいか、と相談がなされ、石塔院に移すことに決まっ
 たそうです。そこで大人の人達が車力に乗せて、余り大きくもない木造の仏様が、急に重たくなり、車力は
 押しても引いてもビクともしません。日は暮れてきます。困り果てた大人達は「今夜は、ひとまず、東妙寺
 にお連れして、また明日の事にしょう」と話し合いました。ところがどうしたことでしょう。方向転換する
 や、勢いよく自分からコロコロと動き出しました。そして、前引きの人は「後ろは余り押すなよ」と言い、
 後ろの人は「前引きは余り早すぎるぞ」と言っても、車力はドンドン行ってしまいます。そして、東妙寺前
 まで来ると、ピタリと止まってしまいました。大人達は誰言うとなく「石塔院への道は、人ひとりがやっと
 と言うほどに、細くて危ないからケガでもしたら大変というので、こちらに来られたんだろう。さすがにお
 観音様の有難いお慈悲じゃ」と言いあって帰って行かれたそうな。
  この仏様も、後の「泣きべそをかいた仏様」と同じように、大正2年に国宝に指定され、「重要文化財」
 として、今も東妙寺に居られます。

◎ 泣きべそをかいた仏様
  700年前に、後宇多天皇の命令によって造られた東妙寺は、それはそれは大きなお寺で、寺領が3300 
 百町歩といいますので、神埼郡全体が、その支配下にあったというわけです。
  ところが、明治時代になって廃仏毀釈の論がでると、とても苦しくなってしまいました。屋根は落ちて雨
 漏りはするし、壁は落ちて竹だけがむき出しになって、とても哀れになってしまいました。そして、とうと
 う、お金のかたに、ご本尊のお釈迦様でも質屋に取られてしまいました。ところが、質屋さんの倉の中に収
 まっていたお釈迦様は、いつも夜になると「東妙寺に帰りたい」「東妙寺に帰りたい」とシクシクと泣いて
 ばかりしておられたそうです。これを見た質屋の叔父さんは「これはいけない」と思って、すぐに東妙寺に
 返しに来られたそうです。
  その仏様は今、東妙寺でニコニコ笑っておられます。


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真言律宗(真言宗 西大寺派)東妙寺

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