親鸞さんのあしあと
 

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高田山 専修寺
吉川英治の小説『親鸞』の最終章に出てくる高田山専修寺が近くにあります。少しでも親鸞聖人の歩かれたところを回ってみようかと思い錦鯉とは関係ないのですがページ増やしました。
 
親鸞聖人は、42歳ごろから約20年間、常陸の国を中心に関東各地を行脚して専修念仏を広められました。ここ下野の国(栃木県)高田の地に来られたのは聖人53歳のときであったと伝えられています。そしてこの地で多くの門弟が生まれ、それらの人々の懇望によって、一堂を建立し、長野の善光寺から一光三尊仏をお迎えして、本尊とせられました。これが専修寺の草創です。


入口参道
入口参道
この高田山専修寺は 三重県津市一身田にある、真宗高田派の本山専修寺の旧地である。
一光三尊仏石碑
一光三尊仏石碑
嘉禄元年(1225)阿弥陀如来の『親鸞よ、善光寺に来られよ』のお告げにより、善光寺に赴き一光三尊の金像を迎えた。
阿弥陀如来を真ん中にして、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が一つの光背にくるまれているのが 一光三尊仏である
 専修寺案内
専修寺案内
総門
総門
親鸞は承元元年(1207)法難にあって越後国に配流されたが5年の後に罪を許されて関東に入り常陸国 稲田に滞在 布教のためこの地に巡錫されたとき大内氏一族の懇請によって一寺を作られたのが、専修寺の始まりと伝えられている。 信州善光寺感得の一光三尊仏を本尊としのち真仏(二代)さらに顕智(三代)にうけつがれ東国における初期真宗教団の根本道場として、隆盛をみるに至った。
寛正6年(1685)真慧(10代)は伊勢一身田に専修寺をつくり本山としたので以来この地は下野国旧本山と称されるようになった。  御影堂、釈迦堂等その大半は、江戸時代の再建にかかるものである。 後堀河天皇(第86代)勅願所としても世に知られている。  
 史跡専修寺境内 表示板 写
 
楼門
楼門
総門と如来堂との軸線上に建っているこの楼門は、元禄年間(1688-1703)の建築である。
『高田山』の扁額は前天台座主一品公献親王の筆である
如来堂 1
如来堂 1
後堀河天皇(在位:1221-1232年 鎌倉時代、第86代天皇)から『専修阿弥陀寺』の勅号をいただき、屋根に菊の紋章が付いている
 
親鸞聖人の建立から2回建て替えられ、現在この御堂は元禄14年(1701)に再建されたものである。
屋上には菊の紋章が揚げられており、向拝の上に大きな千鳥破風があり、周囲に縁高欄を回すなど精巧をきわめ、元禄時代の特徴が良く現れている。
また礎石には巨大な自然石が用いられ、親鸞建立時のものと伝えられている。
この堂奥の金庫には善光寺伝来の一光三尊仏が秘仏として安置されており、17年に一回開扉されるが平素は御前立の三尊仏のみが拝される。  如来堂掲示板写
 
如来堂 2
如来堂 2
如来堂 3
如来堂 3
如来堂 内部
如来堂 内部
太子堂
太子堂
この お堂は当地より300メートル南にありましたのを江戸時代に移築したお堂です。 南無太子2才像(県指定)を安置していましたが現在木像は本寺の御殿に安置されています。
 太子堂掲示板写
 

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帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王佛所 
都見諸佛浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓