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靖国神社とはどういうところか

靖国神社の記事を、これまでは「不戦・非武装の憲法を世界へ」のページの中で記してきましたが、「靖国神社とはどういうところか」のページにまとめました。


ヤスクニ探検 そのF  補遺
2006/12/15

 九条の会・久喜で、11月11日、靖国神社ツアーに行ってきました。
私は5回目の訪問です。
いつも行くたびに、新しい発見、驚きがあります。



これは、特攻兵士を「慰霊」ではなく
「讃える」碑である

 「戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期」とある。
つまり、もう敗戦がわかっていたはずのその時に、青年たちは特攻に行かされたのだ。
 その兵隊たちを、「勇士」として「讃える」碑である。

 彼らは何のために殺されたか?
特攻によって、戦局を覆すことなどは望むべくもなかったはずなのに。

「天皇のために」、「国のために」と思いこまされて、死に追いやられていったのだ。
天皇と国家と軍の意志によってである。
死にゆくことが、「志純崇高な殉国の精神」だなどと信じ込まされて、殺されたのである。

生き延びてこそ、「平和と繁栄のわが日本の礎とな」ることができたであろうに。
この碑には、彼らが「何のために」死んでいったかは書かれていない。




ここまでやる?
憲兵の碑まであった

 兵隊たちと、そして国民をも怖れさせ、軍優先の体制をリードした、悪名高い憲兵の業績を称える碑まであった。
靖国というところは、戦前の体制は何でもいいらしい。
これは、軍人勅諭の碑のそばに立てられている。




元日本軍の兵士たちは、靖国に何を求めているのか
献木にかけられている札である。戦友会もあれば個人もある。
この人たちにとって、靖国とは一体何なのだろうか。
靖国に来れば、戦友の霊が本当にいると思えるのだろうか。
骨は、それぞれの故郷や千鳥ヶ淵の無名兵士の墓にあるか、
あるいは大陸や太平洋の島々の戦場にいまだに放置され続けているというのに…。



今の鎮霊社


最近まで、鎮霊社は鉄柵で囲まれていて、
一般の人々は近づくこともできなかった。
今年から、本殿の脇の通路が開放されて、社の前まで行くことができる。
看板には「死後も靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める為」とある。
一般の戦没者を、靖国の神々とは明確に区別していることがわかる。


ヤスクニ探検 そのE
遊就館に東条英機命(とうじょうひできのみこと)を見つけた
『声と眼』312号 2006/5/8

 靖国神社に併設された遊就館に、『靖国の神 々』の部屋がある。
靖国神社に合祀されて“神 となった人々”の写真が並んでいる。
 「護国の英霊」の数は、明治維新から太平洋 戦争までで246万人。
その内213万人が太平洋戦 争の死者である。
基本的に戦闘で死んだ軍人・ 軍属であるが、それ以外に戦後に自決した軍人、 樺太の郵便局電話交換手たち、ひめゆり部隊な どの女子生徒、沖縄から疎開する輸送船の攻撃 で死んだ小学生たち、学徒勤労動員中に被災し た学生、空襲の消火活動にあたった民間人の一 部も祀っているという。
靖国神社のパンフレッ トには「女性の神さまや少年少女や生まれて間 もない子どもたちも神さまとして祀られています」と大きく書かれている。
ー靖国は戦災死 者のほとんど、たとえば東京大空襲やヒロシマ、 ナガサキの死者を祀ってはいない。
にもかかわらず、一部の民間人や災死者だけを例外的に“英霊”とした理由は、今、私にはわからない。

 『靖国の神々』の部屋にはそれらの“神々” の内、約3000名の遺影が展示されている。
坂本龍馬命もある。
ーーそこには名前と死んだ場所、 死因も記されている。「戦死」「戦傷死」「戦病 死」などとある中にところどころに「法務死」 とある。
これは要するに、戦争犯罪人として刑 死した人々である。
問題になっているA級戦犯 ばかりでなく、中国大陸やアジア各地の法定で 裁かれ、残虐行為や国際法違反で現地で刑死し た、いわゆるB・C級戦犯も同様に“神々”と して祀られている。
たとえば「○○命陸軍中将 昭和22年 ラバウル 法務死」「○○命 陸軍大尉 昭和22年 中国広東省 法務死」などとある。

 そして中に、「陸軍大将 東条英機命 昭和23 年12月23日 東京都巣鴨拘置所にて法務死」とあ るのを見つけた。
展示室18・靖国の神々3・パ ネル48、右から3列目上から8段目にその写真 はある。
ーー陸軍大将・陸軍大臣・内閣総理大 臣として戦争を指揮し、アジアの人々と多くの 日本人の生命を失わせた最高責任 者の一人である東条が、靖国では「命」(みこと)すなわち“神”である。


埼玉新聞 2005年11月6日


ヤスクニ探検 そのD
戦争博物館=遊就館の思想


『声と眼』311号 2006/4/13

 遊就館は、靖国神社に併設された戦争博物館 である。
ここの展示を貫くのは“日本の歴史は戦争の歴史である”という戦争史観・聖戦史観 である。
入口ホールには零戦や沖縄の戦場で破壊されたカノン砲、高射砲などの実物が見学者を圧倒し、最初の展示室のテーマは「武人のこころ」、次は「日本の武の歴史」と続く。
 展示室には、
「君がため世のため何か惜しからむすててかひある命なりせば」
「いくさ人さ さぐる剣の光よりひかりこそいづれ国の光は」
「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺に こそ死なめかえりみはせじ」
「ますらをの悲しき命積み重ね積み重ね守る大和島根を」
「もののふの大和心をよりあわせただひとすじのおおつなにせよ」
と、天皇の臣たちの死を讃える歌が大書され、剣や武具の数々が展示されている。
本当に、戦争が日本の伝統だったのか。

そして、戦争に命を捨てることを何よりも尊 いと位置づけていることもわかる。
見学コ ースの終わり近く、大展示室の主役は人間ロケ ット爆弾「櫻花」人間魚雷「回天」の実物であり、他の展示室にも、ベニヤ板のモーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする水上特攻艇「震洋」、潜水服を着け機雷を付けた竹棒を持って敵艦の下に潜って自爆する潜水特攻「伏竜」などの自爆兵器の像や絵画がそこここに飾られている。
遊就館は、これらの特攻=自爆攻撃を、英雄的な行為であったかに描くのだが、実際には零戦による特攻を含め、特攻という攻撃方法があまり決定的な“戦果”をあげたとは言いがたい。
米軍はこれらの特攻機を「BAKA BOMB」と呼んでいたという。
ーあげくには、戦艦大和による沖縄への水上特攻で3000人の乗員を一挙に死なせてしまった。

 日本の戦争は、そしてヤスクニにとっての戦 争は、人間を生身の人間としてではなく、人間そのものを道具としての兵器と みなして使い死なせてきた。
ーその兵士らを慰めるために、 ヤスクニはあるのか。

ヤスクニ探検 そのC
靖国神社がパール博士を称える意味

『声と眼』310号 2006/3/29

 拝殿の右。特攻勇士の像や実物のカノン砲な どと並んで「パール博士顕彰碑」がある。
『極東軍事裁判の裁判官の中でただ1人、被告を全員無罪とする意見書を出した。その勇気を称え て』昨年建立されたとある。
ーーA級戦犯を裁いた東京裁判は、日本を中国・東南アジア侵略と太平洋戦争に導いた政治家ら25人全員を有罪とし、7人を死刑、16人を終身禁固刑などとした。その内、14人が靖国神社に合祀されている。
 他の10人の判事の有罪意見は無視して、パール博士の無罪意見だけが正しいというのは我田引水だが、パール博士の「無罪」の論拠はこうだ。
 (1)戦争を行ったこと自体を犯罪として個人の責任を問うことはできない、
 (2)被告らが共同謀議して戦争を遂行したとは言えない、
 (3)戦争中の日本軍の残虐行為の罪を問おうとするなら、 原爆を投下して非戦闘員を無差別に殺害したアメリカの行為をも裁かなくてはならない…。

 3点目について、私はまったく同感だ。
原爆 も東京大空襲も非戦闘員への大量殺戮であり戦争犯罪と認定されるべきである。
そして、都市への無差別爆撃は最初に日本軍が中国・重慶爆撃で始めたのであって、それらも含めて日本とアメリカによる非戦闘員の殺戮を裁くべきであった。
ーー南京大虐殺についてはどうか。
パール博士は「これらの事実…非人道的行為の多 のものは、実際に行われたであろうことは否定できない」と述べ、南京での大虐殺と残虐行為があった事実を認定し、その実行者はすでにB・ C級戦犯として現地で裁かれていて、直接にA級戦犯(中支派遣軍司令官・松井大将)の責任は問 えないとした。
ーーもし国家指導者個人の責任でないとしたら、それらの行為の責任は天皇と日本国家が負うべきということになる。

 パール博士は日本の戦争責任を免責したのではなく、日本もアメリカも公平に裁かれるべきだとしたのである。
それを「日本無罪」論に利用することは、そ 後の半生を世界連邦運動に尽くした博士を貶めるものでもあろう。

★パール博士の主張が、今、あの戦争を正しい戦争だったと主張し続けている靖国神社に勝手に利用されて、博士はあの世で困っているのではないか。★

靖国神社探検 その3
日本軍の戦争レリーフと「母の像」

『声と眼』309号 2006/3/6
  拝殿に至るまでの3つの鳥居。第2の鳥居の手前の両側に、花崗岩の石灯籠が2つ、並んで置かれている。
高さ13m、「日本一」の大きさ」だという。
左は陸軍、右は海軍のものだ。戦前は靖国神社は陸軍省と海軍省の管轄であった。
さて、その石灯籠には戦闘場面の戦争絵画のレリーフがそれぞれ7枚ずつはめ込まれている。

 それらのレリーフはとにかく勇ましい。
たとえば海軍の方では、1894年の日清戦争、黄海海戦で日本の連合艦隊が勇ましく突き進んでいる場面、1904年の日露戦争、旅順港閉鎖作戦で軍神・広瀬中佐(『杉野はいずこ』の名場面)、1905年の日露戦争、日本海海戦で戦艦三笠の艦橋に立って指揮を執る東郷元帥。1937年の満州事変で蘇州爆撃の空中戦の場面もある。
 陸軍の方には、1905年の日露戦争で奉天の闘いに勝利して入城する場面、1932年の上海事変の「爆弾三勇士」…これは点火した爆薬筒を抱いて鉄条網に突入した3人の兵隊の自爆攻撃である。戦場で砲煙の中をかいくぐって負傷兵を助け出す従軍看護婦の活躍の場面もある。
 境内にある「特攻勇士の像」は宙を見据える少年兵である。
また、3人の幼子を連れた「母の像」はまさに“軍国の母”以外ではあるまい。
−−夫を奪われた妻が『この子らは立派な日本人に育てます。あなたと同じに国のために死なせますから見守っていてください』と祈る、−−それがヤスクニの教えだ。

 靖国神社はこれらのすべてを通して、戦争を讃える。
死者を顕彰し、「国=天皇のために死ぬことが忠義である」「勇敢に戦って潔く死ぬことが尊く美しい」と扇動する。
−−教育勅語は『一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壌 無窮の皇運を扶翼すべし(万一危急の事態が起これば大義に基づいて一身を捧げて天皇と国家のためにつくせ)』と教えている。
ヤスクニはまさにその精神を体現したものに他ならない。

海軍の石灯籠

旅順港閉鎖作戦・軍神・広瀬中佐

日本海海戦・三笠艦橋で東郷平八郎

日清戦争・黄海海戦

上海事変(昭和7年)、上海上空での空中戦

上海事変

日本赤十字社・従軍看護婦

第一次世界大戦、地中海海戦
大日本帝国海軍が欧州まで遠征した
上の7枚は帝国海軍の戦功を称えるレリーフ、
下の7枚は帝国陸軍のレリーフである。
説明板には、昭和10年、「富国徴兵保険相互会社」が献納したとある。

日露戦争、大山巌大将奉天入城式

大正3年

明治16年、広島大本営に明治天皇が入る

明治40年、義和団事件

爆弾三勇士

大正3年、熱河攻略作戦

日清戦争、天津城攻撃

「ヤスクニ」探検 その2
『声と眼』308号 2006/2/20

大村益次郎の銅像は何を睨むか


 神社の入口には高さ25mの鳥居がそびえている。
1921(大8)年に建てられた頃は「日本一の大鳥居」だったが、今は日本一ではないらしい。

 大鳥居をくぐると、正面に大村益次郎の銅像(高さ12m)が立っている。
明治政府が「皇運の挽回」のために斃れた志士達を「国事殉難者」として祀るために、1869(明治2)年に「東京招魂社」を創建した。
その際に大村がこの場所を選定したといわれ、その功績を顕彰するためにこの銅像が立てられたという。
なお大村は同年、旧士族に襲われ死んでいる。
−−「靖国神社」と改称するのは1879(明12)年になってからである。

 大村益次郎は長州出身で、明治維新の官軍と幕府軍の戦い=戊辰戦争で、新政府軍を指揮して上野の山に陣取った彰義隊をアームストロング砲を撃ち込んで壊滅させた。
新政府で、「農兵論」つまり徴兵制を主張し、近代的軍隊の基礎を作った「日本陸軍の父」とされている。
−−今、大村の銅像は高い台座の上で、左手に双眼鏡を握って、北東の方向を睨んで立っている。
靖国神社から北東には何があるか。上野の山である。
つまり大村は頑強に抵抗する彰義隊を睨みつけているわけだ。
(一節には、維新後に明治政府に反乱を起こした西郷隆盛の銅像を睨んでいるのだともいう)。

実際、当初は、足元にアームストロング砲8門が置かれていたが、1943(昭18)年に取り外され、陸軍省に献納されたという。
おそらく鋳つぶして戦闘機か何かの材料とされたのだろう。

 この銅像が造られたのは1893(明26)年であるが、今に至るも、この靖国神社が祀るのは「天皇に忠義を尽くして斃れた人々の霊」であり、天皇に敵対した者は国家の敵として許さない、そうした確固としたヤスクニの思想を体現しているのが、この銅像なのである。

 明治維新で一方の主役であった西郷隆盛は、西南戦争で明治政府に敵対し、天皇に反逆した。
したがって、西郷は靖国に合祀されていない。
−−後に許されたものの、靖国の神々からは厳格に区別されて、本殿の南側の林の中にひっそりとある「鎮霊社」という小さな社に入れてもらっている。
鎮霊社は、神社の裏手に回ると高い鉄柵の外側から垣間見ることができるが、ほとんど人は来ない。
脇を通ってもほとんど気付く人はいない。

「鎮霊社」
この鎮霊社と元宮は並んで建てられている。
にもかかわらず、こちらには鳥居もない。
これは差別ではないか?

「元宮」
東京招魂社が創建される以前、
京都で、志士たちの霊を祀った小社。
その後、靖国神社に移された。


この右の方に本殿がある。

【写真・左】 大村益次郎の銅像
左手に双眼鏡、視線の先に上野の森がある。
いつも必ず頭に鳩がとまっている。

「慰霊の泉」の意味するもの

 大鳥居の右には「慰霊の泉」がある。
“戦場で水がなくて苦しんだ神様に豊かで清らかな水を捧げる”と書かれている。
これは、アジア各地の戦場で死んでいった兵士たちがどのように死んでいったかを、はからずも示してくれる。

 靖国神社が祀っている神々の内、「大東亜戦争」の死者は213万人という。
この内、アジア各地の戦場での、200万人余の兵士たちの「死」はどうだったか。
−−実はこれらの兵士たちの大部分は、直接の「戦闘」によって死んだのではない。
日本軍は食糧については基本的に現地調達だった。
勝っている内はよかっただろうが、開戦後わずか半年、1942年6月にはミッドウェー海戦の敗北で帝国連合艦隊が半壊滅状態となる。補給線も寸断された。
43年にはガダルカナル撤退。そして日本軍は各地の戦闘で敗北、玉砕、壊滅へ突き進む。
ジャングルの中を敗走していく兵士たちは食糧も水もなく、病気や負傷しても薬もない状態に追い込まれていった。
兵士たちは戦闘でよりも、飢餓と病気で多く死んでいった。
−−遊就館の「靖国の神々」の死者たちの写真に付された死因を見るがいい。
「戦死」と並んで「戦病死」「戦傷死」がいかに多いことか。
飢え死に、病気や負傷して置き去りにされて死んだ人々、あるいはその結果、自決した人々であっただろう。

そうした兵士たちに「豊かで清らかな水を捧げる」というこの泉のモニュメントは、まさに「慰霊」にふさわしい。
 靖国神社は、天皇の命令に従って死んだ人々を“英霊”として顕彰し、彼らを“国家のために犠牲になった者”ではなく、天皇のために命を捧げた英雄として誉め讃える機関である。
だから境内には“あの戦争は正しかった”“兵士たちは勇敢に戦った”というモニュメントや碑ばかりがたくさん置かれている。
−−その中でこの「泉」だけが、兵士たちを「慰霊」している唯一のモニュメントと言えるかもしれない。


「靖国神社」社号碑

「日本一」だった大鳥居

「慰霊の泉」

「ヤスクニ」探検 その@
『声と眼』307号 2006/1/27

 1月8日、靖国神社へ行った。ヤスクニとは何なのかを確かめたい、4回目の訪問である。
鳥居をくぐると、拝殿の手前に“神門”がある。
これは他の神社にはない、靖国独得のもの である。
金色に輝く直径1.5mの菊紋が付いてい て、ここが天皇家の私的神社であることを表す。
そして境内に配置された,軍馬、軍犬、軍鳩の像、特攻兵士の像、兵器の数々。
本殿の裏手には“軍人勅諭の碑”が鎮座している。
この位置は、拝殿 → 本殿 → 霊爾簿奉安殿の真後ろに当たる。
明治以来の戦争で天皇のために死んだ人々が靖国の神々とされて、その名簿を“霊爾簿”という。

 だから靖国に祀られた人々は、死してなおいまだに軍人勅諭の碑に背後から睨み付けられている。
そしてまた、拝殿に参拝する人々は軍人勅諭の方向に向かって頭を垂れることになる。

ところで靖国神社の案内図に、この軍人勅諭の碑だけが載っていないのはなぜか。
これが世を憚る、靖国の秘密だからであろう。


★「ヤスクニ」とはどういう場所か。死者を悼む場か。どういう死者をか。「軍人勅諭」は『我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある』の一節から始まる。★ 

「陸海軍軍人に賜りたる勅諭(軍人勅諭)」全文・現代語訳はこちら

神門と、十六弁の菊紋

拝殿、この向こうに 本殿 → 霊爾簿奉安殿 → 軍人勅諭の碑が一直線に並んでいる

戦争神社にふさわしい、境内に並べられた銅像や実物兵器、展示品の数々

軍犬の像

軍鳩(?)の像

軍馬の像

特攻勇士の像
 
アジアの戦場から持ち帰ったカノン砲が何基も設置されていた

軍艦模型

軍人勅諭の碑

軍人勅諭の碑のすぐ前に位置する、霊爾簿奉安殿

軍人勅諭の、『軍人は忠節を尽すを本分とすべし』の一節に、「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其の操を破りて不覚を取り、汚名を受くるなかれ。」とある。つまり、端的に言えば、「命令されれば命を惜しまず、死ね」ということであり、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」(『戦陣訓』)ということでもある。


 靖国神社が作成した公式案内図。
 右下が大鳥居、左上のいちばん奥が霊爾簿奉安伝である。
 すべての銅像や構築物が記されているのに、
霊爾簿奉安殿のすぐ上に位置するはずの「軍人勅諭の碑」だけは、
この地図に載っていない。

戦争神社としてのヤスクニ、戦争博物館「遊就館」の本質
2004/10/29

猪股和雄

 10月10日、有事法制に反対する久喜市民の会のメンバー5人は靖国神社ツアーに出かけた。私は3年連続の参加。特に今年の目当ては、展示を新しくした遊就館である。

 「日本の歴史」とは何か。……ヤスクニにおける「日本の歴史」は、戦争の歴史、権力をめぐる戦(いくさ)と支配拡大の歴史であるらしい。
 靖国神社に付属する遊就館は、戦争博物館である。展示室の最初は、「武人のこころ」の部屋…天皇のための戦争をうたった歌が薄暗闇の中に浮かび上がる。次は「日本の武の歴史」、“日本は古来、大八州と称され、歴史上いくつもの戦いがあった。…”として、展示されているのは武器・武具の数々。……大和の一豪族がまわりをたいらげ、まつろわぬ者どもを殺し支配し、一族の間でさえ、親子兄弟が殺し合いながら権力を握っていった。その上に“朝廷”を形成した天皇一族がその主人公である。この展示に、戦の道具としての兵卒以外に、民衆は登場しない。そして、「武の歴史」といいながら、しかし武家社会は無視して、次はいきなり、「明治維新」にとんだのにはちょっとビックリ。
 ……「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」「満州事変」と、戦争、戦争、戦争。近代史を貫いているのは、アジアと日本を狙う西欧列強の圧迫に、“アジアを代表して立ち向かった日本”という構図である。戦争の歴史であった日本近代史を締めくくるのは当然、「大東亜戦争」である。……最初は勇ましく進撃し大陸と島々を制覇していく過程を大パノラマで描くのだが、しかしすぐに劣勢に転じて敗走を続け、ついに1945年8月15日の敗戦を迎えるまでを、悲壮に美しく描き出す。
 そして、「靖国の神々」の部屋。数十枚のパネルに飾られた3000人の写真、靖国に祀られ“神”とされた人々の姿である。“天皇のため・国のために”と信じこまされ戦いの地に送り込まれ、死んでいった人々がいる。大陸やサハリンで軍から捨てられて死んでいった人々がいる。また、海の向こうからやって来た戦いに巻き込まれ、軍の盾にされ、ガマから追い出された人々、“自決”を強要され、あるいは直接日本軍によって殺された沖縄の人々、女性や子どもたちもいる。それらの写真の多くには当然、戦死であったり、戦病死であったりと書かれているのだが、1枚の写真に『法務死』とあるのを見つけることができた。『昭和23年、東京(巣鴨)拘置所』、A級戦犯として絞首刑となった、東条英機その人である。
 こうした人々を“神”として祀っているヤスクニを参拝することは、246万人の“ヤスクニの神々”を讃えることに他ならない。天皇のための死者を讃えることに他ならない。天皇のための戦争を讃えることに他ならない。
 幕末の志士たちや戊辰戦争の戦死者たちは、まさか自分たちが神として祀られようとは思いもしなかったろうが、明治2年、東京招魂社創建、明治12年、靖国神社として改名してから、ここは、天皇のために死ぬことを、美しくありがたいこととして国民に奨励するマインドコントロールの場所になった。今なおそれは、“天皇のため”を“日本の国のため”と言い換え(すり替え)て、きわめて政治的に機能し続けている。
 私たちは、過去、『死ねばみな同じ。敵も味方もない』と教わった。しかし、ヤスクニは、死者を差別する。元々、靖国神社に祀られたのは、明治維新で天皇の側にたって戦い死んだ人々のみである。東京招魂社に祀られたのは、戊辰戦争の官軍側の戦死者3500人だけであって、幕府軍=賊軍の戦死者は祀られていない。大鳥居の後方に立つ大村益二郎の銅像は、左手に双眼鏡を持ち、彰義隊の立てこもる上野の山を睨んでいるのだそうだ。また、西南戦争で明治政府にたてついた西郷隆盛は、ヤスクニの本殿には祀られず、戦後になって許されたものの、「鎮霊社」という別の小さな社に分けて置かれているという。
 ヤスクニは戦争神社である。境内には、軍犬の像、軍馬の像、軍鳩(伝書鳩)の像、軍国の母の像、少年特攻兵士の像。アジアの戦跡から採集してきた大砲や砲弾の実物がそこら中に置かれている。また遊就館ホールには、ゼロ戦、沖縄で破壊された榴弾砲やカノン砲、大展示室には、人間魚雷「回天」、特攻ロケット機(人間爆弾)「桜花」、艦上爆撃機「彗星」、九七式中戦車などの大型兵器、戦歿者遺骨収集と同時に集められた水筒、軍靴、ゲートル、鉄甲などが並べられている。
 参拝する人々は、神門を通って拝殿に向かって立つ。正面に本殿、奥に霊爾簿奉安殿、その向こうには何があるか。神社のいちばん奥には、軍人勅諭の碑が据えられている。拝殿で頭を下げる人々は、一直線上に並んだ本殿、霊爾簿奉安殿、軍人勅諭の碑に頭を下げる配置になっている。……不思議なことに、靖国神社のパンフレットの地図に、軍人勅諭の碑はない。他のすべての施設や像が記されているのに、である。この存在自体を秘しているのはなぜか。ヤスクニの核心が「軍人勅諭」にあるからに他なるまい。
 遊就館の全体を流れる基調は、“戦争は美しい。天皇のための戦争は尊い”とする思想である。しかし、ただひたすらに、“戦争の大義”を掲げ、言い訳をするのは哀れでもあり、こっけいですらあった。……最後に「靖国の祈り」の部屋がある。ノートが置かれていて、感想を書き込むようになっている。記述は、戦争の大義を讃え、これからも日本国家のために命を捧げるという、ヤスクニのタテマエに、「感動」し、「共感」し、「国民としての決意」を示したものがほとんどである。
 中に、『二度と戦争をしてはいけない。憲法を大切にしたい』という文章があったが、そこには大きく×印が付けられていた。自分とは異なる考え、他人の思いを認めないで、抹殺してしまう、そうした人々が呼び寄せられてくる、ヤスクニはそういう場所か。


靖国神社・三の鳥居から拝殿を臨む

霊爾簿奉安殿の裏手に、
「軍人勅諭の碑」を見つけた
遊就館のホールに、
沖縄戦で破壊されたカノン砲が飾られていた

戦争賛美神社=ヤスクニ、
そして、人間の視点なき昭和館

2003/11/18

 10月25日、有事立法に反対する久喜市民の会は昨年に続き、2回目の“ヤスクニ・ツアー”を行った。……高さ25メートル日本一の大鳥居、彰義隊の立てこもる上野の山をにらむ大村益二郎の銅像、直径1.5メートルの菊の御紋の輝く神門から拝殿へ。
軍犬の碑、軍国の母の像、軍馬の像、軍鳩の像…、すべてを“神”に準じて祀るヤスクニ。……靖国の神々を記した霊爾簿奉安殿の裏手にひっそりと軍人勅諭の碑がたたずむ。『我か国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある 』と記したヤスクニの真髄であるにもかかわらず、靖国神社が作成したパンフレットでは、霊爾簿奉安殿で行き詰まりになっていて、軍人勅諭の碑は見事に消されている。やはりヤスクニの本質は一般には知られたくないのだろう。
 昨年は、新装なった遊就館を見学して、靖国の神々を奉る人々が“過去の戦争”をどう解釈しようとしているかを見たのだが、今年は靖国神社から徒歩5分、九段下駅前の“昭和館”に向かった。
 昭和館は1999年開館。『戦没者遺族が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、陳列』する国立(厚生労働省)の施設である。しかしここは“平和祈念館”でも“戦争記念館”でもない。7階には昭和10年から20年(敗戦まで)の苦しかった統制下の暮らし、学童疎開、銃後の備え、6階に20年から30年までの戦後の暮らしの変貌ぶりを、町の様子や生活用具の品々などの実物資料を展示している。七輪やキューピー人形などの実物に、ノスタルジアを感じたりするのであるが、展示を丹念にたどっていく中で、ふと、どのコーナーにも、人間の生き死にの姿や、感情が見事なまでに消し去られていることに気付かされないではいられない。
 町の姿、町並みや家々、そして生活用具の数々はきちんと整理されて、そこに置かれているのではあるが、そこに生きていた人々の日々の営み、家族や町の人々の交わり、喜びや苦しみ、そして何よりも、おびただしく流されたはずの血と汗、数知れぬ別れの悲しみが何一つ伝わってこない。そこに置かれている品々は“モノ”でしかなく、“ヒトの思い”はない。7階の“東京大空襲”のコーナーに、防空演習の資料はあっても、爆弾の下で死んでいったはずの人間については完全に無視されている。7階から6階へ下りる階段の途中に1枚だけ置かれた広島原爆の写真。しかし、原爆の下にいたはずの人間についての言及はない。ましてや、中国大陸や東南アジアの人間に対しての視点は全くない。
 戦争の時代、昭和。戦争の中で、爆撃の下で人間がどう生き、どう殺されていったか、生き残った人々が、戦争をどうとらえ、戦後をどう作ってきたのか、私たちが学ぶべきはそこにこそあるはずではないか。にもかかわらず、“人間”の抜け落ちた『昭和史』。

 ヤスクニとその付属施設である遊就館では、戦争を思い切り賛美する展示を見せつけられた。−−そしてここ昭和館は、ノスタルジアをかき立てる一方で、人間の血や汗、戦争への思いを抹殺した、モノの資料館としてだけ存在する。ヤスクニと昭和館とは、今の国家の政策目的に沿った一体の施設としてある。

神門、巨大菊紋の向こうに、第一の鳥居、第二の鳥居

ヤスクニの本質=軍人勅諭の碑

昭和館の展示、「空襲警報と防空演習」

ヤスクニは徹頭徹尾、戦争賛美神社だった
『声と眼』236号 2002/9/24

 9月8日、有事立法に反対する久喜市民の会会員ら19名は“靖国神社見学ツアー”に行った。
 明治維新以降の日本の戦争の精神的支柱となり、今なお天皇のために死んだ“英霊”たちが徘徊し、新たな英霊を求め続けるヤスクニ。小泉首相や右の人たちが、なぜあんなにヤスクニにこだわるのか、ヤスクニは、戦争で亡くなった人々をどう扱っているのか…。それを知りたい。一度はヤスクニの現場を見なければ…、と考えたのだ。
 日本一の大鳥居、陸海軍の“輝かしい戦績”を刻んだ2つの石灯籠。右側の海軍の塔には日本海海戦、右側の陸軍の塔には南京入城のレリーフも…。天皇から下された1.5メートルの金色の巨大な菊の御紋を両扉に付けた神門。ーその辺りには巨大な日章旗をゆっくりと左右に振り続けている元軍人?や軍刀を腰に下げた男もいるー。
 正面に拝殿。庶民はここで手を合わせるのだが、政治家たちは特別に玉串料を出して右側の別の入口から入って本殿で参拝する。いちばん奥に、合祀された英霊たちの名簿である、《霊璽簿(れいじぼ)奉安殿》があるという。
 拝殿の右手へ廻ると、軍犬慰霊像、戦没軍馬慰霊像、鳩魂塔。軍国の母の像。大砲の実物の砲身があちこちに置かれている。ーさらに霊璽簿奉安殿のすぐ裏手にあたる薄暗い森の中に、私たちは、ヤスクニの本質=ヤスクニの本体そのものを見ることになる。…《軍人勅諭の碑》である。先輩が「我が国の軍隊は、世々天皇の統率し給う所にぞある…」と朗読してくれた。
 明治天皇が設立し、天皇のために死んだ人々を英霊=神として祀る。英霊の根本理念として、天皇から下された軍人勅諭を内に抱く。《天皇=軍人勅諭=英霊》の構造こそヤスクニの本性なのだ。
 新築なった《遊就館》に入った。戦争博物館である。ゼロ戦、沖縄戦で破壊されたカノン砲。おびただしい兵器、兵器、兵器の展示。中でも人間魚雷回天や特攻ロケット機桜花がひときわ雄々しく目立っている一方で、ひしゃげた鉄かぶとや水筒、破れた軍靴、ゲートルの切れ端などがガラスケースの中に雑然と置かれている。人間の生命の犠牲や被害、戦争のむごたらしさの側面を捨象、あえて軽視・無視しているとしか思えない。
 展示室は、《武人のこころ》《日本の武の歴史》から始まる。古代からの日本人の歴史は戦争の歴
史であるかのようだ。天皇が国家の安寧を祈り、戦争を続けてきた主体であると描き、明治以降、
西欧列強の圧力に対抗するために、日本は大陸へ進出したと説く。日本海海戦は一大スペクタクル。日本が積極的に戦争を起こしていった論理、南京“大虐殺”などは無視。そして戦争を終わらせたのも“天皇の聖断”。あまりにもの天皇と日本国家の賛美、単純な歴史の図式化に、驚くばかり…。
 《靖国の神々》の部屋には、数千名?の“英霊”の写真が並び、名前、死亡年と場所が記されている。ほとんどが軍服。昭和23年ビルマとか、終戦後の死亡者、女性もけっこう多い。軍属とされ、最後には軍から追い出されて殺されたひめゆりの少女たち(20年6月)や、樺太の逓信職員で22年に亡くなった女性たちも、ここでは“神”である。ー中に「東条英機命」の写真を見つけた。
 小泉首相は、国のために命を捧げた人々に感謝し慰霊し、平和を祈念するために参拝するというが、何と白々しいことか。ヤスクニの論理に従えば、天皇のために死んだ英霊への感謝と慰霊は、当然、「大東亜戦争の正当化」と「天皇のための死を讃える」ことにならざるを得ない。
 本音は知らぬが、「御国のために」「天皇陛下のために」と死んでいって、“神”になった人々がいる。ーしかしそれとは別に、自分の意志と無関係に、天皇の戦争の中で殺されていった人々がいる。そうした人々は、ヤスクニから無視され続けてきた。東京大空襲、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワの民衆。中国、朝鮮の人民。戦争で死んだ人々を分断し、差別する神、それがヤスクニだ。
 遊就館の展示はすべて、「あの戦争は正しかった」「英霊たちを讃えよ」という、戦争賛美の文字と写真、光と映像と音響、言葉の嵐だ。ー出口の前に、《靖国の祈り》の部屋がある。そこに置かれた開かれたままの帳面の一ページに『…外国に謝罪ばかりしている政治家どもの姿勢に怒りを感じる。…自分は国のためにすべてを捧げる』との一文が目に入った。高校生・16歳とあった。
 50年前、“死”の精神的拠り所として若者たちを戦争に駆り立てたヤスクニは、有事法制下、戦争のできる国・日本において、また同じ役割を果たそうというのか。

第2鳥居から神門を臨む。
ひたすら、日の丸をふり続ける男
戦争博物館=遊就館に展示された兵器たち 軍人勅諭の碑を見つけた

★靖国神社の祀る神は、『天皇のために死んだ人々=英霊』である。246万人もの英霊(○○命)=神々の名簿が霊璽簿である。★