沖縄の夏 (4) 集団自決のガマ 米軍が読谷海岸に上陸した1945年4月1日、このガマに住民140人が避難したもののすぐに米軍に包囲されました。翌日、男たちが竹槍で突撃したものの機関銃の前に斃れ、3日目に集団自決が始まりました。洞窟の中で火を燃やして窒息死をはかったり、肉親同士が包丁や鎌で殺し合い、元従軍看護婦の毒薬注射で死んだ人もいました。83人が死亡し、死にきれなかった住民たちが、米軍に救出されました。 ガマの前の石碑に、すべての死者の名前と年齢が刻まれています。半分以上は18歳以下の子ども、残りのほとんども60歳以上の年寄りと女性、0歳、1歳の赤ちゃんの名前もありました。 今、ガマの中に足を踏み入れることはできません。入口をふさぐように板が置かれて、『これから先は墓となっていますので、立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様がガマに入って、私達の肉親を踏み潰していることを私達は我慢できません』と書かれていました。ガマは1983年に初めて調査が行われ、遺骨や遺品が収集されたものの、今も遺骨が多く眠ったままだそうです。 ガマの右手には「チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像」が立っています。遺族らによって建立されましたが、87年、右翼の手で破壊され、その後再建されたものです。 チビチリガマにおける集団自決は、「捕虜になれば女は強姦され、男は八つ裂きにされる」「日本人として潔く死ね」という皇民化教育・軍国思想によって強制された「死」に他なりません。 他のガマの多くにも住民が逃げ込んでいましたが、そのどこでも集団自決が起こったわけではありません。現に、近くのイングェーガマやシムクガマでは、1日目に住民が自主的にガマを出て米軍に投降し生還しました。住民の生と死を分けたものは何だったのでしょうか。 窪地を覆った濃い緑が真夏の太陽をさえぎり、ガマのまわりは少しひんやりと感じました。車まで戻るとサトウキビ畑では風がザワザワザーッと音を立てて葉を揺らしていました。
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