いのまた和雄トップページへ 『声と眼』のページへ テーマ別目次へ 市民活動のページへ メッセージのページ


沖縄の夏 (4) 集団自決のガマ
『声と眼』343号 2007/10/5

 読谷村の海岸線や内陸部にはガマ(洞窟)が点在しています。チビチリガマはサトウキビ畑が広がっている中にありました。道の脇に車が2〜3台停められるスペースがあるだけで、窪地の入口に設置されている鉄製の階段を下りるとガマが黒い口を開けていました。

 米軍が読谷海岸に上陸した1945年4月1日、このガマに住民140人が避難したもののすぐに米軍に包囲されました。翌日、男たちが竹槍で突撃したものの機関銃の前に斃れ、3日目に集団自決が始まりました。洞窟の中で火を燃やして窒息死をはかったり、肉親同士が包丁や鎌で殺し合い、元従軍看護婦の毒薬注射で死んだ人もいました。83人が死亡し、死にきれなかった住民たちが、米軍に救出されました。

 ガマの前の石碑に、すべての死者の名前と年齢が刻まれています。半分以上は18歳以下の子ども、残りのほとんども60歳以上の年寄りと女性、0歳、1歳の赤ちゃんの名前もありました。

 今、ガマの中に足を踏み入れることはできません。入口をふさぐように板が置かれて、『これから先は墓となっていますので、立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様がガマに入って、私達の肉親を踏み潰していることを私達は我慢できません』と書かれていました。ガマは1983年に初めて調査が行われ、遺骨や遺品が収集されたものの、今も遺骨が多く眠ったままだそうです。

 ガマの右手には「チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像」が立っています。遺族らによって建立されましたが、87年、右翼の手で破壊され、その後再建されたものです。

 チビチリガマにおける集団自決は、「捕虜になれば女は強姦され、男は八つ裂きにされる」「日本人として潔く死ね」という皇民化教育・軍国思想によって強制された「死」に他なりません。
 他のガマの多くにも住民が逃げ込んでいましたが、そのどこでも集団自決が起こったわけではありません。現に、近くのイングェーガマやシムクガマでは、1日目に住民が自主的にガマを出て米軍に投降し生還しました。住民の生と死を分けたものは何だったのでしょうか。

 窪地を覆った濃い緑が真夏の太陽をさえぎり、ガマのまわりは少しひんやりと感じました。車まで戻るとサトウキビ畑では風がザワザワザーッと音を立てて葉を揺らしていました。 

左は、ガマに降りる鉄階段

ガマの口の右手に、「平和の像」

ガマの中は真っ暗だった
外にはサトウキビ畑が広がっていて
その向こうには読谷の海岸

サトウキビの葉が強い海風になびいていた

2007 沖縄の夏 (3)
世界遺産、座喜味城跡から東シナ海を臨む

『声と眼』342号 2007/9/20

 15世紀に築造された座喜味城跡は2000年に「琉球王国のグスク、遺跡群」として世界遺産に登録されている。
山頂を囲むように築かれた城壁の上にのぼると、高射砲を据え付けた土台跡が残っていて、ここも戦跡なんだということに気付く。
目を遠くに向けると北に残波岬の灯台、そこから南に向かって海岸線がのび、東シナ海がキラキラと光って見えた。

 1945年4月1日、米軍はこの読谷海岸から沖縄本島上陸作戦を開始したのである。
1300隻の艦船で海を埋め尽くし、いっせいに上陸を始めたとき、日本軍守備隊の主力はすでに南部方面に移っていた。
前年に日本軍は読谷飛行場を建設するとともにこの座喜味城跡を高射砲陣地としたのだったがまったく役に立たず、米軍の攻撃にさらされたのは、置き去りにされた村民たちだったという。
ほとんど無抵抗で占領された飛行場は米軍の沖縄作戦に利用され、高射砲陣地は米軍のレーダー基地になった。
ここは戦後ずっと1972年の日本復帰まで米軍基地であり、住民は立ち入り禁止だった。

城跡のそばに読谷村歴史民俗資料館がある。
縄文からの読谷遺跡発掘資料、古民家や農具、漁具、亀甲墓と葬具、楽器、陶器窯、それらと並んで沖縄戦の記録や遺品の数々が展示されている。
「読谷村の戦時記録」があって、戦没者3924名の内訳。
−−軍人・軍属2167人、一般住民が1757人。男2696人、女1221人。
年齢別で最も多いのが「16〜20歳」547人、次が「5歳以下」の乳幼児で506人。
死因の最多は「砲爆撃他」2002人、「栄養失調・病死」1229人。「集団強制死」130人と記されていた。これは集団自決のことだ。

 読谷村発行の「読谷村の戦跡めぐり」を買った。
そこには以下のように書かれている。

今なお村土の約45%を占める米軍基地
戦後半世紀あまりが過ぎた
でもその影響ははかりしれない
最初に村内に基地を作ったのは日本軍だった
その痕跡は米軍基地とともに今に残る
自分の足で読谷の戦績を歩いてみよう
その場に立てばきっと
沖縄戦がたんに過去のできごとではなく
私たちがその延長線上にいる
そのことを想起させてくれるだろう

座喜味城跡の城壁 城壁の上に立つ。東シナ海が広がっている

2007 沖縄の夏 (2)
米軍兵士に銃を向けられた

『声と眼』341号 2007/8/22

 9日、那覇への帰路に嘉手納基地を見にいきました。

 沖縄はそこら中が基地、基地、基地ですから、改めて「基地を見た」と言うのも変なのですが、道沿いに続くフェンスの向こう側、東洋一と言われる嘉手納基地を、じっくりと見て実感してみたかったのです。
 そこで、嘉手納飛行場の北側、県道に車を停めて、延々と続くフェンスに寄って眺めていたのですが、向こう側に延びる滑走路は軍用機の離着陸もなく、予想に反して静かでした。

 しばらく見ていると、基地の中をフェンスに沿っている道路を軍用トラックが走ってきて、急に目の前で停まり、迷彩服の米軍兵士が降りてきてこちらへ駆け寄ってきます。

 何かを大声で叫びながら、自動小銃をこちらへ向けて片手を大きく振り回しています。
言葉はわかりませんが、どうやら「向こうへ行け」と言っているらしい。

 私は『単なる脅しで、まさか本当に引き金を引くことはあるまい』と思ったのですが、いっしょに見ていた息子は本気で怯えてしまいました。
彼は路肩に止めてある車の方へ駆け戻っていって乗り込み、隠れました。
本当に怖かったようです。

 ここは日本です。
日本にある米軍基地の、フェンスの外側から写真を撮っていただけで、銃で追い払われるのでしょうか。

 銃口は確かに私の方を向いていました。
これが沖縄なのですね。

 それにしても、アメリカは、日本(人)と友好的にやっていこうという気持ちはまるでないようです。それでなければ、日本人、特に日本人の子どもに、「米軍から銃で撃たれるかも知れない」「米軍は日本人を銃で撃つかも知れない」というような恐怖をむざむざと与えるようなまねをするとは思えないからです。

 それと、実はすぐ近くに、以前は「安保の見える丘」と呼ばれていた小さな台地があって、昔はその台地は基地監視行動の拠点となっていました。
今は、その台地のすぐ前に道の駅・嘉手納という4階建ての建物が建っていて、その上から嘉手納基地のフェンスの中は丸見えなのです。
 見渡す限りの地平線、向こうの山までずっと基地です。滑走路上を輸送機がゆっくりと動いているのも見えますし、最新鋭戦闘機のF22(ステルス)が格納庫へ向かって動いているのも見えました。

 多分、反基地の人も、飛行機マニアも、おそらくは公安関係の人も、たくさんの人たちがその屋上にいて、基地の方を見、写真を撮ったりしています。
だから、フェンスのそばで写真を撮っている人を追い払ってもまったく意味はないはずなのですが、それでも自動小銃を向けてまで排除しようとするということは、基地の外はすべて敵とみなし、近づく者はすべてテロリストかもしれないと警戒する、日本人をも敵としてみなしてかまわない、子どもを脅してもかまわない、ということなのでしょう。

 ここでも軍隊というものの本質を見たような気がします。

 フェンスの向こうの米軍兵士は、私たちがフェンスから離れるのを見届けると、ようやく自動小銃の銃口を下げ、向こうを向いて車の方へ帰って行きました。
 実は私はよっぽど彼が銃を構えているところを写真に撮りたかったのですが、カメラを銃だと間違えて発砲してくるかも知れないという恐怖はありました。
 いや、カメラか銃かを確認などしないで発砲し、後で「銃らしきものを向けたから正当防衛だ」と言うかも知れません。
軍とはそういうところですよね。

 それで、彼が後ろを向いて帰っていくところをそっと撮影したのです。
広い広い嘉手納基地です。
ずっと向こうの滑走路の上を、ステルスが滑っていくのが見えました。
あの角張った特徴のある形は、すぐにわかって、カメラを向けました。
私のカメラではとらえられなかったと思っていたのですが、
10月になって改めてみたら写っていました。



2007 沖縄の夏 (1)
南部戦跡を訪れて

『声と眼』340号 2007/8/21

 8月に沖縄南部戦跡のいくつかを訪ねました。

 もともとのひめゆりの塔は驚くほど小さく、陸軍野戦病院第3外科壕のあった洞窟の上に立てられていました。
しかしひめゆりの少女たちの多くは、この壕の中で亡くなったのではありません。
軍に徴用され働かされたあげくに、自分たちを守ってくれると信じていたであろう軍から一方的な「解散命令」で壕を追い出され、砲弾の下を逃げまどいさまよった果てに殺されていったのです。
軍から渡された手榴弾で「自決」した人もいたといいます。
これなどは日本軍に殺されたに等しいと言わざるをえません。

 ひめゆりの塔の南、国道から少し入ったところに魂魄の塔があります。
大きな土まんじゅうのような塚の上に「魂魄」と刻まれた小さな石が乗っているだけです。
もともと軍民、敵味方を問わず戦場にさらされた骨を拾い集めて埋めた、墓であり納骨堂であったといいます。
荒野に散った骨を積み上げてできたこの塚に、沖縄の戦後の原点があるように思いました。

 それは摩文仁の丘の「平和の礎」につながっています。
ここには沖縄住民の犠牲者、韓国・朝鮮人ら外国人の犠牲者、日本軍と米軍の戦死者、沖縄におけるすべての戦争犠牲者24万余人、1人1人の名が刻まれているのです。




ご意見や情報はこちらへ
tomoni@eagle.ocn.ne.jp

トップ