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久喜市議会議員 いのまた和雄
市政報告『声と眼』 695号
2025年 8月 4日


695号ファイル

 『声と眼』
バックナンバー

9月定例市議会の日程 

私たちは政務活動費を何に使ったか

  久喜市議会では4半期ごとに1人1か月3万円の政務活動費が各会派に交付され、支出報告書と領収書の提出が義務付けられています。
市民の政治を進める会(猪股・川辺・田村)の4~6月分の使途報告と明細です。


【6月市議会】 小中学校 給食費無償化を来年実施へ

 政府は来年から小学校の給食費の無償化を実施する方針です。
今のところ何月から実施するかも決まっておらず、中学校の給食無償化は先送りする計画です。
久喜市でも国の方針を踏襲して、小学校だけの給食費無償化を実施する方針を明らかにしてきました。
ところが6月市議会の一般質問の答弁で、市長が突然、これまでの方針を変更して、小中学校同時の無償化を進めていく考えを明らかにしました。

 6月13日の一般質問で、杉野議員(共産党)が、小中学校の学校給食完全無償化を同時に実施するよう求めたのに対し、市長が『同じ義務教育で対応が異なるのは大きな課題だ。小中学校で異なる対応になるのを解消するため、中学校の給食費も無償化に向けて努力する』と答弁しました。
現在の中学校の給食費保護者負担は約1億8000万円ですが、市でその財源を確保する考えも示しました。
これは市長が久喜市の小中学校すべての学校給食費を同時に無償化すると約束したものと思われます。
ただし国と同様に、久喜市で来年の何月から実施するのかは明確にしていません。

事前通告なしのルール違反 斎藤議員

 この日、杉野議員の質問の前に登壇した斎藤議員(公明党)は、『小学校から段階的に始まる無償化の方針を踏まえ、中学校への拡大について、今後の検討や実施時期の見通しを伺う』という質問通告を出していました。
ところがその質問の最中に唐突に、『質問通告にはありませんが、小中学校同時に無償化を進めるべきで、市長の答弁をいただきたい』と質問内容を変更しました。
これは後の杉野議員が『小中学校同時の無償化』を求める質問通告をしているのを知って、その質問を自分が先にやってしまおうとしたらしい。

★久喜市議会では一般質問は事前通告制で、通告していない質問はできないルールだ。
斎藤議員は『小中学校同時の給食無償化』を自分の手柄にしたくて、わざと『通告なしの質問』というルール違反を強行したのだろうか。★

【6月市議会】 東町集会所などの除却撤回を諮問へ

 6月市議会で、公共施設個別施設計画検討委員会を設置するための予算が可決されました。

 市は公共施設の縮小計画で、東町集会所の廃止を決定していましたが、利用者や地元住民の反対で、方針を転換し、市長が今後も存続させると約束しました。
今後、検討委員会に個別施設計画の変更を諮問し、市議会に提案することになります。
市民からは今年中に結論を出すように求められていますが、市長では来年の市長選挙後まで先送りする方針です。

さらに本町集会所でも利用者や住民から存続の要求が出ていて、その他の施設についても計画の変更を検討していくことになりそうです。

久喜看護学校が閉校 跡地はどうなる

   今年、理科大跡地にさいたま看護専門学校が移転・開校しました。
東京理科大が2016年に全面撤退した後、田中市長時代に生涯学習や子育て支援センターとして活用するため5億円をかけて改修を実施しました。
梅田市長に変わってから、民間活力を導入する計画に転換したものの、民間企業の参加はありませんでした。
結局、土地と建物を売却しようとしましたが、買い手が付かず、紆余曲折の末に最後はさいたま看護専門学校(当時はさいたま市)に無償譲渡しました。

 さいたま看護専門学校の開校に伴い、久喜看護専門学校(本町5丁目・中央保健センター敷地内)は閉校することになりました。
久喜看護学校は、市が中央保健センターの駐車場の一部だった約1000㎡の土地を南埼玉郡医師会に有償で貸付けて、1987年に設立されました。
医師会との契約では土地を返還する際には原状(建物は撤去)に復することになっていましたが、医師会との協議の結果、建物をそのままにして返還を受けることになりました。

 市は今後、土地と建物を他の民間事業者などに売却する方針ですが、専用駐車場も狭く、はたして買い手が見つかるのか、無償にしたとしても引き受け手があるかどうか、疑問の声も出ています。
市では一方で公共施設の縮小計画を進めながら、数年前には民間から将棋会館の寄付を引き受けたり、今度は看護学校校舎も無償譲渡を受けて、またまた大きな余剰財産を抱え込んでしまったかっこうです。


私の父は靖国神社へは行かなかった

 今年も8月15日、敗戦の日がやってきます。

 古いアルバムに、父の軍隊時代の写真が3枚だけ残されています。
七つボタンの制服の写真の裏には「20年 予科練」、「特攻隊の覚悟新たに 遺影用として」とあります。
--父に、写真がこれだけしかないのかと聞いたことがありますが、父は軍隊から帰る時にすべて焼いてしまったのだと答えました。

 戦争が終わって、『部隊は解散するから、各自勝手に帰れ』と命令が出たのだと言います。
もしアメリカ(軍)に捕まって、特攻隊だとわかったらその場で殺されるかもしれないから、書類はすべて焼くように言われて、兵隊みんなで部隊の書類や身元のわかるものもすべて焼いて、逃げてきたのだと話してくれました。
3枚の写真は、遺影用にと実家へ送っておいたので残っていたのだそうです。

 父はめったに戦争の話をしませんでしたが、酒を酌み交わしながら語ってくれたことがありました。
 『俺は特攻隊だったんだけど、乗る飛行機がなくてなあ。毎日、穴掘りさせられながら、順番を待ってたんだ』『終戦があと1か月遅かったら、自分はこの世にはいられなかったんだよ』『そしたらおまえたち(私と弟)も生まれてこなかったんだなあ』としみじみと話していたのを思い出します。

 当時、もう敗戦は時間の問題だということも、特攻での死が戦局にはまったく影響を与えることはないということも、わかっていたと言います。

 また何度かは、『軍隊ってとこはひでえとこだぞ』『他人(ひと)を殴って喜んでるようなヤツばっかりで、俺もさんざんやられた』、『俺は天皇のヤツにはひどい目に遭わされたんだ』とも話していました。

 だからでしょうか、父は戦後、靖国神社へ足を向けることはありませんでした。
私が小学生のころに祖父母が上京して靖国神社に参拝に行ったときも、母と私に同行させて、父は仕事を理由にして行きませんでした。

--父が、『特攻で死んでったヤツらが、あんな所(ヤスクニ)になんか、いるもんか』と、一度だけ、吐き捨てるように言ったことがありました。
その激しい口調に驚かされたことを覚えています。

★戦争が終わってから、『部隊は解散するから各自勝手に帰れ』という命令が本当だとしたら、何て無責任な軍隊だろう。
いや、混乱の中で、あり得ない話じゃないかも、と思ったりもする。★