タイ(Thailand)旅行。 ![]() 人生のマラソンも40キロを過ぎていよいよゴールが近くなると、ついついこれが最後の海外旅行 かなと一抹の寂しさを感じてくる。 パスポートが2010年で切れていたので正月明けに横浜のパスポートセンターに出掛けて更新し てきた。歳も考え、更新料も安いので5年更新にしたら、表紙の色がこれまでの赤ではなく黒にな っていた。黒の表紙を見ていると自分自身で人生のたそがれを選択した気分になり、ケチらない で10年更新(赤)にしておけばよかったと後悔したが後の祭りだった。 パスポートの更新目的は、弟の経営する会社がタイに工場を建設し、2月2日に行う安全祈願 祭に招待されたためだが、この機会に夫婦で2月1日から5日間のタイ旅行を楽しんできた。 タイは11月から3月までが乾季で特に2月は気温が30度くらいで湿気もなく1年で最も過ごし易い 季節である。8年前の2006年に会社OBの連中とタイの関連企業を訪問したのも1月末だった。 (2006年のタイ訪問記参照・・・こちら) 友人たちはタイの政情不安から身の危険を心配してくれたが、まるで影響を受けなかった。 バンコクの中心部の一部で反政府デモがあり交通渋滞があったが、これはバンコクの日常茶飯 事の光景でバンコク名物といってもいい。反政府デモの参加者は反タクシン、反インラック派で、 タクシン政権時代の米買い上げ価格の優遇処置に不満を持つバンコクの富裕層の人達だから、 自家用車でデモの集会地に乗り付け、道路際に無造作に駐車する人達が多い。 過激な人もいるが、そうでない人も多いのがタイのデモ風景で、いずれはプミポン国王の仲裁 で騒動が収まるのがタイの政争だが、今年86歳になる高齢のためかまだ国王は動きを見せて いない。さもなければ軍隊の出動で再びクーデターでも起きないと収まりがつかない。 帰国して新聞やテレビが2日の総選挙の混乱の様子を大々的に報道しているのを知ったが、 バンコク市内の殆どの場所では騒動の様子は見られず、市民も凡そ無関心の人達ばかりだっ た。デモの実態と報道の落差を感じさせられる出来事だった。やはり実際に現地に行ってみな ければ本当の事は判らない。すべからく報道とはこんなもので、局所を取り上げて針小棒大に 報道するのがマスコミ報道だから、時には情報に疎い一般市民の健全な判断を誤らせかねな い。過度のマスコミ過信は危険と知るべきだろう。 家内同伴なので、前回の訪問の経験で、家内の気に入りそうなダムナン・サドウク水上マーケ ット、世界遺産のアユタヤ遺跡、バタヤ、市内の王宮や涅槃寺などの寺院などを観光した。 町中と郊外の至る所で、赤いブーゲンビリア、白いリーラワディ、紫色のデンドロビーム、黄色 いキーレイが鮮やかな色を見せて咲いていた。 タイの食事は香辛料が独特で、私にはほとんどの料理は苦手で、前回訪問の時も苦労したが 今回も5日間ほとんど口にしなかった。パクチーも世界3大スープと云われるトムヤンクンも口に しなかった。タイ料理を初め海鮮料理も中華料理も駄目だったが、家内は何とか食べていて旅 の後半にはこの味に慣れてきたようだった。 ただ果物は豊富で水上マーケットで売られているマンゴー、ドリアン、マンゴスチン、ランブー タンなどには手を出して芳醇な味を味わった。やはり南国の味だった。 工場の稼働も順調で安全祈願祭も無事に終わり、観光も招待客とのゴルフも夜の会食もトラ ブルなく済んで、弟も、現地合弁会社の社長になる甥もホッとしたことだろう。しかし船出をした ばかり。荒波を乗り越えてこれからの航海の無事と成功を祈りたい。 気温30度の快適な気候の国から、一転して気温0度の日本に着いて体調を崩し、下痢と風邪 と疲労に悩まされ、2日間自宅で静養してようやく回復した。心身ともにぐったりしてもはや限界。 当分海外旅行は敬遠する。言葉と食事と慣れないベッドは77歳の老人にはきつすぎる。心臓の 異変が起きずニトロの厄介にならなかったのが救いだった。 幼馴染のS君が合弁会社設立の諸準備に彼のノウハウを駆使して協力してくれたのが工場の 立ち上げの最大の功労者なのだが、彼は祈願祭の翌日に早くも自身の仕事で隣国のミャンマー に飛び立っていった。 同い年なのに精力的な行動力には舌を巻く。三井物産時代から50年以上も海外を飛び回っ ているので海外を渡り歩くのは苦にならないらしい。仕事と趣味が混然一体なのだろう。 そろそろ仕事を辞めて一緒に好きな釣りをしようと、無責任な誘いをしてきたが、これからは 言うのを止めよう。好きな道は息絶えるまで進めばいい。それもまた人生だ。 年に一回の葉山サロンだけは欠かさず続けて、彼の終生の知的欲望の「旧約聖書と新約聖書」 の謎解き、私の終生の知的興味の「敗者の維新史」を共に熱く語りあいたい。 |